第10話 エピローグ
1年後。
「ねえ、洋一。これを見て。」
茜は自宅のマンションの一室に備えられた顕微鏡を覗きながら、洋一を手招きした。
「何だい?」
洋一は茜の肩にそっと手を掛けながら、言われるがままに顕微鏡を覗き込んだ。1年前のあの出来事の後、2人は約束通り結婚した。
昨年は、温暖化の影響で北米大陸でも異常気象が相次ぎ、米国内の世論も温暖化防止の方に傾き始めていた。わが国でも海水面が上昇した影響で、あちこちの海水浴場で砂浜が流出するという事態が発生していた。地球の気候をコントロールしようという馬鹿げた発想は次第に鳴りを潜めた。自然の脅威は我々の想像をはるかに凌いでいた。
「こ、これは?」
顕微鏡を覗き込んでいた洋一が突然叫び声を上げた。
「そうよ、幻のバクテリアよ。少し違うけどね。」
茜は目を丸くしている洋一に向って、ニヤリと笑いかけた。
「でも、一体どうやって。あのバクテリアのサンプルはあの時全て。」
「そう、海の中に消えた。」
茜はまるで手品の種明かしをする手品師のように得意気に説明を始めた。
「でも、サンプル瓶を割った時に泥の一滴が私の手に付いていた。そこまでは葛城さんも見破れなかったのね。」
「そうかあ。じゃあ、どうしてもっと早くに。」
「残念ながらそのバクテリアはもう死んでいたわ。何百気圧という深海底からいきなり引き上げたので細胞壁が破裂していたの。でもバクテリアのDNAは残っていた。私は持ち帰ったバクテリアの死骸からDNAを抽出すると、最も近いシアノバクテリアの細胞核に移植してみた。最初は上手くいかなかったけれど、何度か試すうちにシアノバクテリアは通常の光合成を止めて、二酸化炭素呼吸を始めた。だから正確には、今洋一が見ているバクテリアは私たちが小笠原の海で採取したものじゃなくて、人工的に合成した新種なのよ。でも、二酸化炭素の固形化率は通常の光合成の約1千倍。」
茜が説明を続けている間にも、洋一は興奮で全身に鳥肌が立っていくのを覚えた。
「すごいじゃないか。すぐにブラウン教授に知らせなきゃ。ノーベル賞級の発見だ。」
「だめよ。ほら、前にも言ったじゃない。この小さな生命を政争の道具にしちゃだめだって。」
「でも、これは世界を救う究極のバクテリアだ。そんな大事なことを僕たちだけで決められやしない。」
「そうかしら。私は人間はまだまだ努力が足りないと思うの。このバクテリアに頼る前にもっと自分たちで出来ることがあるんじゃないかしら。もしこのバクテリアのことが明るみに出て、それで地球の温暖化が止められると分かったとしたら。」
茜の言葉に洋一は驚嘆した。幻のバクテリアを探し求めて、ようやく宝に辿り着いた。その宝物を目の前にして、茜はそれをそっと仕舞い込もうとしている。しかし、茜の言うことは恐らく正しいであろう。このバクテリアの存在が人の知るところとなれば、間違いなく人間はこのバクテリアを増殖させ、それによって二酸化炭素の排出を続けようとするに違いない。それは新たな環境破壊を誘発するだけではなかろうか。このバクテリアが海中の生態系に与える影響すら未知数なのである。
「そうか、分かったよ、茜。このバクテリアは俺たちだけの宝物にしておこう。その代わり、これはなしだ。」
そう言いながら、洋一はエアコンのスイッチをオフにした。開け放たれた窓からは蒸し暑い海風が部屋の中に吹き込んできた。2人はそんな暑さを楽しむかのように肩を寄せ合った。
(了)
深層海流 ツジセイゴウ @tsujiseigou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます