第2話「労働! 小人さん大作戦!」Bパート

 時刻は午後五時十一分。八階建てマンションの五階、歩道に面した共用廊下に、僕たち五人は集まっていた。総司令、ピンク、ブルー、僕、そして仰木。仰木が登場した作戦会議の翌日、五月も終盤に入った快晴の日の夕方だ。


 仰木はセーラー服、総司令は仕事用のエプロン姿だが、僕とピンクとブルーは既にコスチュームへの「変身」を済ませている。マンションの駐車場に総司令のワゴンを停め、僕とブルーはそこで着替えた。ピンクは僕らが乗り込んだときからコスチューム姿で、前回以上に気合いが入っている様子だった。


「開けますけど、ほんとに変な真似しないでくださいね。バレて怒られるのあたしなんで」

 ゆらゆらと鍵を揺らしてみせる仰木。彼女の肩の向こうには、『三村』という飾り気のない表札が覗いている。


 昨日の作戦会議で、仰木は『フツージン』の活動について総司令から説明を受けていた。彼女はおおよそ理解したようだったが、まだ半信半疑ではあるらしい。その気持ちはよく分かる。


「おうよ! どーんと安心しといてくれ」


 白い歯をキラリと光らせ、総司令が親指を立てた。その指と僕らの顔を見回してから、仰木は玄関ドアと向き合った。ガチャ、と鍵の回る音のあと、彼女はこちらを振り返る。


「うちの母が言うには、夜の七時過ぎくらいになると、叔母さんはほぼ確実に家の電話に出るそうです。なので、そのあたりの時間に帰ってくるんじゃないかと」


「了解ですッ!」


 ピンクが強張った声で返事をする。仰木はそのままドアを開け、はい、と僕らを促した。総司令を先頭にして、僕たちは室内に素早く身を滑り込ませる。最後に入った仰木がドアを閉め、ガチャ、とまた鍵を回した。


「お邪魔します!」「お邪魔しまーす!」「お邪魔します……」「お、お邪魔します」靴を脱ぎ、フローリングの廊下に順番に上がる。一列になって廊下を進むと、突き当たりに白いドアがあった。「開けていいのか?」「どうぞ」


 総司令がドアを開けると、そこはごく普通のリビングダイニングだった。一番手前に対面式キッチン、その向こうにダイニングテーブルがあり、さらに奥には小さめのソファーとテレビが設置されている。テレビの脇には、青地に流れ星やロケットがいくつもプリントされた箱が置かれていた。おもちゃ箱だろうか?


 部屋に入り、僕たちは自然と横並びになって広がった。見ず知らずの他人の家というだけで落ち着かないが、この部屋には元から、さらに強い緊張感が漂っている気がする。部屋のあらゆる点に気が遣われていて、どこにも隙が感じられないのだ。

 ソファーの下のカーペットにはシワひとつなく、おもちゃ箱の蓋もきっちりと閉じられている。キッチンの食器棚もよく整頓されていて、どの皿もぴかぴかだった。


 壁紙に、フローリングに、家具のひとつひとつに、見張られている。

総司令が数歩前に出て、僕ら四人と向かい合う。「ゴホン!」とお馴染みの咳払いをすると、ハルカさんの背筋がピンと伸びた。


 満足そうに目を閉じて、総司令は右手を高く掲げる。


「『現実戦隊フツージン』! 作戦~……」


 んぅ~、という溜めの後、総司令の小ぶりな両目がカッと見開かれた。


「開始ぃッ!!」


「おぉーッ!」


「お、おおー!」


 かくして、任務の幕は切って落とされた。僕たちは慌ただしく動き出し、会議で決めた通りの持ち場につく。総司令とピンクはキッチンで夕食の支度、ブルーは各部屋の掃除、僕は干されている洗濯物を畳む作業だ。


 仰木には、家事のやり方を三村さん流に合わせるための指導を頼んでいる。「あたしも数回手伝ったことがあるくらいですよ」とのことだったが、何のアドバイスもないよりはいいだろう、という総司令の判断だ。ものの配置や服の畳み方が普段と違ってしまうと、結局それを三村さんが直す羽目になる。それが好ましいことでないのは僕にも理解できた。仰木はまずブルーについて行き、掃除の仕方をレクチャーしている。


 コスチュームを身につけて「任務」「作戦」と言われるとやはり緊張するが、今回は人前に出る必要がないので少しは気楽だ。鷹宮氏には否定されたものの、単なる家事代行の気分でいればいい。僕は平常心を保ちながら、リビングに隣接する和室に移動した。


 和室には洗濯紐が渡され、十数枚の衣服が干されていた。乾いていることを確認しつつ、手前から順に服を回収していく。水色の子ども用Tシャツ、キャラクター柄のパジャマ、小さなタンクトップ。大人用のワイシャツと、丸首のTシャツ。右手でハンガーから外した服を、左腕にかけて重ねていき……ん? ハンガーがなくなった。見慣れない形の何かが、洗濯ばさみで紐に直接とめられている。丸く膨らんだ布が、二つ連なっていて、これは……。


「あ、わ、わっ!」


 僕は思わず飛びのいて、勢いのままリビングに飛び出した。キッチンからこちらを振り返った総司令とピンクに、和室を指差して助けを求める。


「すッすみませんあの、えと、し、下着! 下着があるんですけど今思えば当たり前なんですけどその、ど、どうすれば! 僕が畳んでいいものなんですかね!?」


「ああ、そういえばそうか」


 一瞬目を丸くしてから豪快に笑い、総司令は謝った。


「すまんかった。それは三村さんのためにもお前のためにもよくないな。洗濯物はピンクに任せよう。いいな?」


「あっ、はい! 不肖ピンク、交代いたします!」


 ピンクは総司令に一礼し、小走りでこちらに向かってきた。すれ違いざまに握りこぶしでエールを送られ、僕の心臓がキュッと縮む。僕は左腕の洗濯物を畳に下ろし、キッチンに足を踏み入れた。


「よーしレッド! よろしく頼むぞ! 料理はできるな?」


「う、あ、はい。少しなら」


 入るなり総司令に笑顔を向けられ、思わず怯む。正直なところ、彼と共同作業に励むのは結構つらい。が、ここは我慢するしかなかった。見知らぬ女性のブラジャーと向き合うよりは、いくらか心穏やかでいられるだろう。作業に向けて、僕は手袋を外す。


 作る料理はハンバーグらしい。「うちのとっときの合い挽き肉だ!」と肉をこねる総司令の横で、僕は玉ねぎをみじん切りにする。あまり手際よくはできないが、ヘルメットのシールドのおかげで涙は出なかった。ヒーローの装備にはやっぱり意味があるんだなぁ、と一瞬考え、馬鹿らしくなって首を振る。


 チャッチャッ、と肉をこねる音に、玉ねぎを刻むトントンという音が重なる。廊下からは掃除機の駆動音がして、和室からは、移動した仰木とピンクの声が途切れ途切れに聞こえてくる。キッチンに会話はなく、その静けさが気まずかった。気まずく感じているのは自分だけなのだろうな、と思うと、輪をかけて気まずい。


 気まずさが気まずさを呼ぶ気まずさの渦に巻き込まれているうちに、僕は玉ねぎを刻み終えた。入れましょうか、と声をかけようとした瞬間、総司令の口が開く。


「レッドは仕事、何してるんだったか」


「へ? あ」


 突然の質問に喉が緩む。バラバラの玉ねぎを手で集めながら、僕は答えた。


「会社員、です。営業の」


「営業かぁ! いかにもサラリーマンって感じだな」


「あ、あはは」


 反応に困って笑っていると、肉のボウルをそっと差し出された。僕は慌てて玉ねぎを掬い、よくこねられたミンチ肉の上に乗せる。総司令はそれをまたこねながら、口角を上げて短く言った。


「しんどいか」


「え?」


「仕事だよ。『帰ったら家事が終わってればいいのに』って、お前が思ったことなんだろ?」


「ああ……まぁ、普通にしんどいなっていうくらい、ですけど」


「そうか」


 総司令はそう返し、脇に置いてあるレジ袋を顎で指した。「次、その袋な」


 袋の口を開くと、中にはジャガイモとトウモロコシが入っている。「ジャガイモは皮剥いて、ちょっと大きめに切ってくれ。トウモロコシもバラさずに切って」「は、はい」袋からジャガイモを取り出し、流しで洗う。蛇口から流れるひとかたまりの水が、僕の指を冷たく打った。


 総司令の、そうか、が脳内で繰り返し再生される。そこに込められた感情を読み取れず、僕の気まずさは加速した。チャッ、チャッ、チャッ、と続く音に耐えられなくなって、喉の奥から言葉をひねり出す。


「総司令、は、疲れないんですか」


「ん?」


 肉をこねる手を止めて、総司令が僕を見る。僕は慌てて視線を逸らし、ジャガイモに集中しながら付け足した。


「お仕事もあるのに、任務のための準備もして。それこそ、しんどくならないのかなー、って」


「ああ! そういうことか」


 ふふ、となぜか嬉しそうに笑う総司令。蛇口をしめ、ジャガイモの水を切ると、水滴がシールドに飛んだ。肉をこねる音がまた始まり、総司令の声が続く。


「おれはおれで、ヒーローを通じて現実を忘れてるのさ。しがない肉屋でも戦隊ヒーローの総司令になれる! ってな。夢があるだろ?」


 今度は、ニシシ、と子どもっぽい声で総司令は笑った。僕は何も言葉を返さず、袖口でシールドの水滴を拭う。夢があるだろって、それだけの理由で? 袖口が丸く濡れて、そこから染みた水が手首を冷やした。


「だからまぁ」総司令の声がやけにしなやかに繋がる。僕は冷たくなった手首を下ろした。


「お前たちにも、現実を忘れてもらえるようにせんとなぁ」


 気がつくと、チャッチャッという音が聞こえなくなっている。視界の戻った目で総司令を見ると、作業は肉の空気を抜く段階に入っていた。ひとつかみの肉を両手に交互に移動させ、パタパタパタ、と変化した音に、気持ちよさそうな鼻歌が加わる。


 ――現実を忘れてもらえるように、か。


 あの大袈裟な口上や振る舞いには、そんな思いが込められていたのだろうか?


 ジャガイモの皮を剥きつつ考えていると、総司令の鼻歌が突然盛り上がった。驚きのあまり手が滑って、僕は包丁で指を傷つけかける。総司令はハッとして、謝りながら僕を心配した。大丈夫です、と僕が手を振ると、肉のついた両手を申し訳なさそうに顔の前で合わせる。


 ……やっぱり、この人にそんな深い意図はないのかもしれない。





 その後も、僕らは着々と作業を続けた。総司令は鼻歌まじりのままハンバーグを焼き、僕はジャガイモとトウモロコシをバターソテーにした。ピンクは洗濯物を畳み終えてからブルーの掃除に協力し、僕はその様子をちらちらと窺っていた。


 仰木は一通りの指導を終えるとしばらく退屈そうにしていたが、一度キッチンに顔を出して米を洗ってくれた。炊飯器のスイッチを押して立ち去り、その少し後に風呂場から水音がし始めたので、風呂掃除でもしていたのかもしれない。風呂が沸いたことを知らせるメロディーに、彼女は「うちのと違うな」と呟いていた。


「お、いよいよあと一分ですね!」


 ピンクが炊飯器の表示を覗きこむ。僕らはほぼ全ての役目を終え、あとは米が炊き上がるのを待つのみとなっていた。全員がなんとなくキッチンに集まり、任務完了のときを待っている。出来上がったハンバーグと付け合わせのソテーは、ラップをかけた状態でダイニングテーブルに並べておいた。


「いやぁ、料理なんて久しぶりにしたが、やるとやっぱり楽しいもんだな。ブルーのほうはどうだった? 首尾よくいったか」


 上機嫌に伸びをしながら、総司令がブルーに声をかける。ブルーは、「ああ」と我に返ったように答えた。ブルーはダイニングに出てきても淡々と掃除をこなしていたので、今回はほとんど言葉を交わさなかった。久しぶりに聞くハスキーボイスは、普段よりもやや弾んでいる。


「結構、手際よくはできたかと……自分で言うのもあれですけど。掃除とか、割と好きなので」


「おお、そうかそうか! よくやったぞぉブルー」


 総司令がブルーのヘルメットを叩く。ぺちぺち、と間抜けな音がした。


 リビングの壁掛け時計は、六時四十八分を指している。窓の外の空では、夕日の赤に夜の紺色が侵食しはじめていた。規則正しく秒針が鳴り、ピンクが待ちきれないとばかりにまた炊飯器を見たそのとき……。


 ピーッ、ピーッ、ピーッ!


 硬い電子音が、キッチンの空気を細かく震わせた。わぁっ、という声を漏らし、ピンクが勢いよく両手をあげる。


「できたぁ~ッ!」


 弾けるような歓喜の叫びに、仰木がのっぺりと拍手を返した。ピンクは前のめりの姿勢で振り返り、興奮を隠せない口調で言う。


「達成感がすごいです! 洗濯物とお掃除でこんなに嬉しくなるの、生まれてはじめてかも!」


 総司令がガハハ、と笑い、今度はピンクのヘルメットをぺちぺち叩いた。


「よかったよかった。ひとまず何事もなくここまでこられておれも嬉しいぞ! みんなもよく頑張ってくれた!」


 総司令の満ち足りた表情に、僕も自然と力が抜けた。ようやく終わった。気まずい場面もあったけれど、これで帰れるならやっぱり前回よりもずっとマシだ。大きなミスをすることもなかったし、はしゃぐピンクも可愛いし……。


「これ、この後どうするんですか?」


 安堵感に浸っていると、ブルーが静かに手をあげた。総司令は、ああ、とごく自然な調子で答える。


「三村さんが帰ってくるのを待って、挨拶してから退散するぞ」


「えっ」


 予想外のスケジュールに声が出る。総司令はキョトンと僕を見て、首を傾げた。


「『えっ』って、当たり前だろう。誰が家に入ったかくらいは伝えておかないと、三村さんを怖がらせるだけだぞ?」


「だ、誰がって、僕たちヘルメットじゃないですか」


「そりゃあヒーローだからなぁ」


「そんな……」


「あ、そうだ!」


 僕の抗議を無理やりいなして、総司令はコンロ脇の小さい皿を手に取った。そこには、少しのソテーと小さめのハンバーグが盛りつけられている。彼は皿を仰木に渡すと、野菜の入っていた袋から割り箸を出して綺麗に割った。


「君、これを食べてくれ」


「はい?」


 仰木は困惑の表情を浮かべる。総司令は割り箸を差し出しながら説明した。


「見知らぬ人間の作った料理は、ちょっと怖いだろ? だから君が三村さんの前でそれを食べて、安全だということを証明してほしい。あと、今回のお礼も兼ねてな」


「はあ……」仰木は箸を受け取りつつ、総司令の顔をちらりと見上げた。「なんか、意外としっかりしてるんですね」


「当ったり前よぉ! 愛されるヒーローは、現実には歯向かっても堅実にはやっていくもんだだからな! わはははは」


 野太い笑い声を無視して、仰木は箸でハンバーグを切る。「あっおい、まだだぞ!」「いや、先に味だけ知っとこうと思って」ハンバーグのかけらを口に運ぶ仰木。無表情で二、三回咀嚼してから、彼女は小さく「うま」と漏らした。


 と、その時。ガチャ、という音がキッチンに飛び込んできた。


「みッ、三村さんですかね!?」


 ピンクが反応する。ピンク、総司令、僕、ブルーの間に、一瞬にして緊張感が広がった。仰木は平然とハンバーグを飲み込んでいる。


「よし! 総員配置につけ!」


「え、配置って……」


「玄関だよ! ほら行くぞ!」


「らじゃー!」


「ど、ドア開けて僕らがいたら卒倒されるんじゃ」


「大丈夫だ、お前たちはヒーローだぞ! おれは隠れとくからしっかりやれよ!」


 全員でバタバタとキッチンを出る。総司令に背中を押されてよろけると、初めよりもさらに整えられた室内が目に入った。僕はふと思い立ってソファーに駆け寄り、その下のカーペットにほんの少し、手でシワを作ってみる。


「レッドさん! 玄関こっちですよ!」


 ピンクに呼ばれ、慌ててまた走りだした。自分が素手のままだと気づき、キッチンに置きっぱなしの手袋を引っ掴む。慌てるあまり壁にぶつかり、眼鏡がずれた。走りながらシールドを一瞬上げて、ずれた眼鏡を直す。仰木は皿を持ったまま、ダイニングテーブルに軽く腰掛けていた。


「早く行け、早く!」


 廊下の脇の洗面所から顔を出し、総司令が玄関を指さす。ピンクとブルーは廊下の両端に立って僕を待っていた。


 これもしかして、僕がセンターを張る流れか!? うそうそうそ、と思いつつも止まれずにいると、突然ピンクに腕を掴まれた。「うわっ!?」突然のことに頬が熱くなる。と同時に「えいっ!」と廊下の中央、玄関ドアの真ん前まで引っ張られ、僕はピンクとブルーの一歩前に躍り出てしまった。ちょ、ちょっと待ってください、と言いかけて振り返ると、視界の端に光が差す。


 ハッとしてドアに向き直る。開いたドアの向こうには、スーツ姿の女性が驚愕の表情で立っていた。目が合い、頭が真っ白になる。目を逸らすこともできず、口が勝手に開く。


「お……おかえりなさい」


「何ですかあなたたちッ!?」


 至極当然の反応に、僕はメットの下で口角を引きつらせるしかなかった。女性、おそらく三村さんは、隣に立つ小さな男の子を自らの背後に引き寄せる。男の子はつぶらな瞳で、僕たちをじっと見つめていた。表情のない視線が怖くて、僕は棒立ちになってしまう。


「えと、はっ、はじめまして! 私たち、『現実戦隊フツージン』です!」


 そんな僕の背後から、ピンクがアタフタと名乗った。三村さんと面識がある彼女の声は、いつもよりも少し高くなっている。


「げ、げん、何ですか? どうして、どうやってうちに入ったんですか!?」


 三村さんの顔に、明らかな恐怖の色が浮かぶ。彼女は肩にかけたカバンを探ると、スマートフォンをしっかりと握って取り出した。通報、の二文字が僕の脳内で点滅する。まずい、という感情と、そりゃこうなるよ、という感情が一気に押し寄せてくる。


 ああ、なんでこんなことを提案してしまったんだろう。余計なことを言い出さなければ、総司令を止められていれば、他にももっといい方法が……。


「『せんたい』って、お兄さんたち、ヒーローなの?」


 心の声に、舌足らずな声が割り込んできた。ハッと視線を下げると、僕の足元に、三村さんの息子さんが立っている。


「こ、こら、戻ってきなさい!」


 三村さんが声を張るが、息子さんは反応しない。首を反らせて、じっと僕を見上げている。さきほどと違って、その目にはハッキリとした輝きがあった。半開きの口は、言葉を発しないままで僕に圧力をかけてくる。


 ――「ヒーロー」を期待されている。


 額に汗が滲んだ。男の子の視線、三村さんの視線、そして、背後からのいくつかの視線。

ここで「ヒーロー」を演じきれば、男の子の心を掴むことができれば、三村さんの心証も少しはよくなるかもしれない? いや、むしろ息子を守ろうとさらに警戒されてしまうのでは? だったら下手なことはしないほうが、でも、もしも事態が好転するんだとしたら。どちらの可能性もゼロではない。


 視線は注がれ続けている。ヒーロー、「ヒーロー」にならなければ。『コーセイジャー』のオープニング映像を思い出す。背筋の伸びた、強く勇敢なヒーロー。少年たちの憧れの、格好いいヒーロー。僕が絶対になれないはずの、僕とはかけ離れた、「ヒーロー」。


「や……やあ、少年!」


 僕はなるべく声を太くして、キビキビとぎこちなく右手を上げた。冷や汗が頬を流れ落ちていく。


「そ、その、今日も、元気にしていたかな!? 僕、お、おれ? たちはこうして、君とお母さんのため、に、あの……」


 言葉に詰まる。と、息子さんの鼻がひくりと動いた。何だ、と思った次の瞬間にはもう、少年は靴を脱ぎ捨てて僕の脇をすり抜けていた。


「なんかいいにおいするー!」


「あ、ちょっと、待ちなさい!」


 三村さんも玄関にあがり、窮屈そうなパンプスを脱いで僕を押しのける。「出ていってください!」とすれ違いざまに怒鳴られ、僕ら三人はすごすごとブーツを履いた。


「これ、どうするの」


「このまま帰るわけにはいかないし、とりあえずここで待ちましょう!」


 ブルーとピンクの小声を聞きながら、僕はとてつもない恥ずかしさと脱力感に襲われていた。

スルーされた。僕の一世一代の「ヒーロー」を、あっさりとスルーされてしまった。ハンバーグの匂いに負けた。やっぱり僕は、ヒーローになんて近づくことすらできないのか。


 共用廊下に吹く風は冷たい。そういえば、ここは歩道に面しているんだった。ということは今、僕たちのコスチューム姿は歩道から丸見えになっているのか。駐車場からの移動も相当恥ずかしかったが、ここで立ちっぱなしということになると、さすがに耐えられないかも……。


「キャッ、なんであなたがここにいるの!?」


 三村さんの短い悲鳴に、僕は我に返る。開けっぱなしの玄関、その突き当たりのダイニングから、仰木が廊下に出てきていた。その手にはハンバーグの皿。「あ、ハンバーグだぁ!」息子さんのはしゃぐ声が、さらに奥から聞こえてくる。


「あー、ええと」


 仰木は一度頭を傾けてから、また戻した。僕らのことを指さして、言葉を選びつつ話しだす。


「この人たち、あたしが呼んだの。悪い人たちじゃないから……怪しくはあるけど、安心して大丈夫だと思う」


「あなたが呼んだって、何のためによ?」


「叔母さん、家事とか大変だろうなって思って。手伝いに来てもらったんだ。勝手なことして悪いとは思ってるけど……まぁ」


 仰木は皿のハンバーグを一口大に切り、付け合わせのジャガイモと一緒に口に入れた。時間をかけて噛み、ごくりと飲み込んでから、また口を開く。


「これも美味しいから。大丈夫」


「はぁ?」


 三村さんの声が裏返る。仰木はもう一度ハンバーグを箸で分けると、「あーん」をするように三村さんに差し出した。


「食べてみ」


「そっ、そんなの食べられるわけないじゃない」


「いいから」


 仰木は頑なな声で言う。ダイニングから顔を出した息子さんが、「あ、ママ食べるの? いいなー!」と小さく飛び跳ねる。ジャンプしないの、と条件反射のように注意してから、三村さんはまた固まる。


「ほら」仰木が箸をさらに突き出す。三村さんはそれでも数秒躊躇っていたが、やがて仰木の目に押し負けた。太腿の横で拳を握り、ハンバーグに口を近づける。


「……美味しい」


 三村さんの呟きが、僕の耳にもかすかに聞こえた。


「部屋の掃除とか、洗濯物畳むのとかもしてくれたんだよ。ほら」


 仰木が半身を引いて、三村さんに室内を見せるようにする。三村さんは一瞬僕らを振り返ってから、小さな歩幅でリビングダイニングに入った。三村さんの姿は壁の向こうに消え、僕らからは見えなくなる。


 仰木は僕たちに視線を向けると、あとは知らない、と言うように逸らした。総司令が早足に洗面所から出て、共用廊下の奥に身を隠す。ピンクが、祈るように両手を合わせる。


 それからしばらくして、三村さんは廊下に戻ってきた。彼女は俯いたまま歩を進め、玄関のすぐ前まで来て立ち止まった。僕はごくりと唾を飲みこむ。三村さんは深いため息のあと、僕らに呆れた目を向けて、ほのかに笑った。


「ずいぶん地味なことをするヒーローなのね」


 褒められたのか貶されたのか分からず、僕はブルーとピンクに視線を送る。が、目が合ったのはブルーだけだった。顔を見合わせる僕らに気づかず、ピンクが高らかに声をあげる。


「はいっ、地味なことでも何でもします! みなさんの現実に非現実を実現させるのが、私たちの役目ですから!……せーのっ」


 僕ら二人の顔を、突然覗き込むピンク。僕とブルーは顔を上げ、ピンクに遅れて声を合わせた。


「現実戦隊フツージン、ですっ!」「です」「ですッ!」




「はぁ~、何とかなって良かったです」


 コスチュームに上着を羽織ったハルカさんが、眉をハの字にして微笑む。


 マンションの駐車場に、僕ら五人は集合していた。時刻は午後七時を過ぎ、辺りは夜の始まりに浸されている。ヘルメットは既に全員外しており、僕と那須は着替えも済ませていた。


 鞄の中のヘルメットを覗いて、やっぱり目立つよなぁ、と僕は思う。共用廊下に並ぶ赤、青、ピンクは、歩道の誰かに見られてしまっただろうか。今になってなんだか視線を感じ、振り返ったけれどそこには誰もいなかった。


「喜んでくれた……のかな」


 心配そうに言って、那須がマンションを見上げた。僕もそれに続く。三村さんの部屋のベランダは、他の部屋と同様にひっそりと静かだった。三村さんがカーペットのシワに気づいたかどうかも、僕にはもう分からない。


「さあなぁ。だが、今日は少しくらいはゆっくりしてもらえるんじゃないか? 無理やりだけどな」


 ははは、と鷹宮氏はゆるく笑った。ハルカさんが「そうだといいね」と返し、それから「それにしても」と身体の向きを変える。その視線の先には仰木の姿があった。彼女は少し離れた場所で、つまらなそうに立っている。


「今回は、仰木さんにとっても助けられちゃいました。『あたしが呼んだの』って嘘まで吐かせてしまって……ありがとうございます」


 ハルカさんが丁寧に頭を下げる。鷹宮氏、那須、僕もそれに倣うと、いや、ときまり悪そうな声が降ってきた。顔を上げると、仰木はガシガシと頭を掻いている。


「別に、どうってことありませんよ。あたしが呼んだようなもんですし、あれはもうあたしの役割だったでしょ」


「素晴らしいッ!!」


 仰木の語尾に、鷹宮氏が賞賛をかぶせる。目を丸くする仰木の前に歩みでて、鷹宮氏はぐっと前のめりになった。仰木は近づかれたぶんだけのけ反る。


「君の活躍には感服した! 作戦内容の素早い呑みこみ、作戦中の冷静な振る舞いと対処、そしてその謙虚さ、優しさ! 我々の任務に、これほど優秀な協力者が現れるとは夢にも思っていなかった!」


「ど、どうも……?」


 眉根を寄せる仰木。と、その顔に鷹宮氏が指を突きつけた。「わ」と仰木はわずかに飛びのき、セーラー服の黄色いスカーフが揺れる。仰木の動揺と鷹宮氏の剣幕に、場の空気がぴりりと張りつめた。


 藍色に染まる空の下。マンションの明かりに照らされながら、我らが総司令はニヤリと口角を上げた。


「君、おれたちの仲間にならないか」


「…………は?」

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