第2話「労働! 小人さん大作戦!」Aパート

 あぁー、しんどい。


 今何時だ? もう五時? ふざけないでくれ。こっちはまだサッパリ進んでないんだぞ。時間ばっかり進みやがって、もう少しこっちの都合を考えてくれてもいいだろうが。いつもいつもこの調子で本当に間に合うと思ってるのか? 思ってねぇよ。こんなのがもう何か月続いてるんだ? 分からん。くそ、どうしろっていうんだ。このままじゃ本当にメシが食えなくなるぞ。


 だいたい何なんだこれは?


 俺は何のためにこんなことしてるんだ?


 こんなのがいったい何になるっていうんだ?


 あぁ、何も分からない。もう嫌だ、助けてくれ……。


 ……誰に助けてもらうんだ?


 助けてくれる奴なんかどうせ一人も現れない。所詮はぜんぶ自己責任だ。


 この現実には、ヒーローなんているわけがないんだから。


 現実の前に、フィクションなんて無意味なんだから。


 現実を見なくちゃ――。



                   ○



「富士野ー、お前もそろそろ外回り行けよ」


「あっ、はい」


 肩を叩かれ、僕はパソコンから顔を上げた。


 オフィスの壁掛け時計は十時十五分を指している。返信メールの文面を確認してから、送信する。送信してから内容が心配になるのはいつものことで、読み直してみて問題ないのもいつものことだ。通勤鞄のジッパーを閉じ、立ち上がる。


 ゴミ捨て場の一件から五日が経った。その間、『フツージン』としての活動はしていない。交換させられた鷹宮氏のメールアドレスも、スマートフォンの電話帳に埋もれたままだ。ヒーローになった実感も未だに湧いてこず、ただひたすらにいつも通りの、うだつの上がらない日々が続いている。


 ホワイトボードの「富士野」の欄に、「外出」のマグネットを貼りつける。かすれたマジックで行き先と帰社時刻を書き込み、軽い挨拶と共にオフィスを出た。外回りの緊張にはだいぶ慣れたつもりだが、足取りはやはり重くなる。一年の就職浪人を経てどうにか得た営業の仕事は、お世辞にも向いているとは言えなかった。


 エレベーターに乗り込み、「1」のボタンを押す。カウントダウンする階数表示をぼんやり見上げていると、背広のポケットでスマートフォンが震えた。取り出す。メッセージアプリに、佐藤からの端的な一文が届いていた。


『今日の昼、いける?』


 僕は『いける』とだけ返信して、スマートフォンをポケットに仕舞う。


 ヒーローになったって、現実の日常はこんなものだ。





「あー、仕事しんどい」


 チーズバーガーを頬張りながら、佐藤は呻くように言った。もぐもぐと咀嚼して飲み込んでから、また「しんどい」と繰り返す。昼十二時のファストフード店、そのだらだらとした喧騒の中に、佐藤の声は埋もれていた。僕は苦笑いしつつ、ウーロン茶のストローから口を離す。


「どうしたんだよ。何かあったの?」


「いや別に、何があったとかじゃないけどさ……日頃の積み重ね?」


「ふぅん。結構忙しそうにしてるよな、佐藤は」


「まあな。って、胸張れるほど忙しくもねぇんだけど」


 苦笑する佐藤の顔は、普段よりもいくらかツヤを失って見えた。「なんか老けてるぞ」「もう高校時代の若さとはサヨナラしてるのよ」おどけた表情のぎこちなさだけは、高校の頃と変わらないようにも見えるのだけれど。


 佐藤と知り合ったのは、高校一年の春だった。友達作りに失敗した同士で仲良くなり、結局卒業までずっと一緒に過ごしていた。大学が別々になっても付き合いは続け、それぞれの会社に就職した今も、時間が合えばこうして昼食や夕食をともにしている。お互い、新天地で友人を増やすのが下手なのだ。


「でも、分かるよ。僕も仕事はしんどい」


 言いつつ、僕はポテトをつまむ。しなびた食感ときつい塩の味が、妙に安心できる美味さだった。佐藤もポテトに手を伸ばしながら、「だよなぁ」とため息まじりに言う。


「お前、営業向いてないって前から言ってたもんな」


「そう。コミュ障のする仕事じゃないよ、あれは」


「あはは。まぁ俺はそもそも、営業マンが毎日同じネクタイってのがどうかと思うけどね」


「あぁ……でもこれはもう、僕の顔みたいなもんだから」


「何だよそれ?」


「このあいだ先方に言われたんだ。『君は没個性だから、その赤いネクタイを締めてないと誰だか分からないな』って」


「何だよそれ」


 くくく、と佐藤が笑う。僕は顎を引いて、いつもの赤いネクタイを睨んだ。没個性を指摘されたのも本当のことだが、このネクタイの色のせいで、僕は今もっと「何だよそれ」な目に遭っている。別の色のものも買おうか。でもそれで営業成績が落ちたらどうしよう。


「それにしても」チーズバーガーの噛み痕を眺めながら、佐藤は独り言のように言った。「仕事ってのは、どうしてこうも辛いのかね」


「さあなぁ」


 僕は背もたれに身体を預け、すすけた天井を仰いだ。窓際の蛍光灯がやや暗くなっている。視界の外から、佐藤の声が聞こえてくる。


「時間とられるからかな?」


「あー……。一日の大半が仕事に持っていかれるもんな」


「それそれ。他にもやらなきゃいけないこととか、やりたいこととかあるのにさ」


「やりたいことを仕事にしてても、やっぱ辛いって言うしなぁ」


「難しいなぁ」


「なぁ」


 ため息をつくと、またしてもスマートフォンが震えた。「電話?」「いや」ポケットから画面を半分覗かせて、通知を確認する。メールだ。送信者は……『総司令』。


『勇敢な戦士諸君! 新しい任務だ! 今日の夕方六時、前回と同じ会議室に集合すること!』


 がっくりと項垂れる僕。「飯が終わったらまた仕事かぁ」と、佐藤がぼやいた。僕らの声が綺麗に揃って、しなびたポテトに吸い込まれる。


「「行きたくないなぁ……」」





 川の向こうの夕日が眩しくて、今日も俯きながら歩いている。一歩一歩を地面にめり込ませるように、僕は『タカミヤ』に向かっていた。ジャンクな昼食が若干、胃にもたれている。


 夕暮の赤い視界の中で、五日前のことを思い出す。朝のゴミ捨て場、右目に怪我をしたカラス、缶のリンゴジュース、マダムの輝く瞳。それから、ブルーのイケてる顔面。ぼやけているような鮮明なような、夢に見た光景みたいな記憶だ。その夢のおかげで、今や僕は戦隊ヒーローのレッドらしい。


 新しい任務って、一体何をするんだろう。「現実に非現実を実現させる」ということの意味だって、まだよく分かっていないのに。


 両のふくらはぎが、じんと痺れるように痛い。そのふくらはぎを起点として、疲労が全身に広がっていく。眠い。残業がほとんどなくてもこんなに疲れるのに、ニュースでときどき見るような、何時間もの残業を強いられる環境にいたら一体どうなってしまうのだろう。

 そういえば、佐藤はよく「サビ残」について愚痴っている。僕の知らないところで、彼はどのくらい疲れているんだろう。


 顔を上げると、赤い庇はもうずいぶん近づいていた。肩はずしりと重くなるが、聞こえてくる優しげな声には胸が弾む。ハルカさんの笑顔を思い出しながら辛うじて歩を進めると、ショーケースの前には先客の姿があった。


 黒い髪を肩まで伸ばした、十代後半くらいの女の子だ。パーカーにジーンズというラフな格好で、右手にはスーパーのレジ袋を提げている。


「はい、どうぞ」


 ハルカさんの声がして、コロッケの紙袋が差し出される。先客はそれを丁寧に受け取って、「どうも」と首だけで会釈した。ハルカさんの嬉しそうな声が続く。


「コロッケ、お夕飯ですか? よく買ってくださいますけど、この時間は珍しいですよね」


「あー、はい。突然おつかい頼まれて、ここのコロッケって言われたんで」


 先客が首を掻く。見た目の若さよりもいくらか落ち着いた声だった。ハルカさんが「嬉しいですー!」と語尾を伸ばす。


「あっ、でも、うちはコロッケ以外にも美味しいお肉を揃えてますからね! そこのところ、親御さんによろしくお願いしますよ~」


「まぁ、ここのことは結構知ってると思いますけど……」


 先客が眉を下げたところで、僕もショーケースの前に到着した。先客の奥からハルカさんに目を向けると、彼女はハッと視線を返してくれた。「ちょっとすみません」と先客に断り、ハルカさんはショーケースの脇を開ける。ハルカさんに手招きされ、僕は店の奥に足を踏み入れた。ハルカさんと目配せをして、鷹宮家に続く階段へ向かう。


 ハルカさんの家に、こんなに自然に招き入れてもらえるなんて……。これが、ヒーローの力だっていうのか?


 心音が激しくなるのを感じながら、ギクシャクした足取りで階段をのぼる。胸を押さえて振り返ると、ハルカさんはもう僕のほうを見ていなかった。僕の乱入を誤魔化すように、先客と世間話を始めている。先客と目が合いかけて、僕は慌てて階段を駆け上がった。


「よう、レッド!」


 ドアを開けた瞬間、声量に顔を殴られた。ずれた眼鏡を直しつつ、声の飛んできたほうに一礼する。頭を上げると、ダイニングテーブルには鷹宮氏と那須が集まっていた。


「待ってたぞぉ。ほらほら、席につきたまえ」


 鷹宮氏に促されるまま、僕は那須の向かい側に座った。今日の那須はコスチュームを着ておらず、白いTシャツに青のジャケットという私服姿だ。整えられた茶色い前髪を睨んでいると、「……こんにちは」とかなり控えめに挨拶された。「あ……こんにちは」僕らのやり取りを、鷹宮氏が満足そうに見ている。那須は相変わらず猫背だ。


「すみません、お待たせしましたー!」


 明るい謝罪と共に、ハルカさんがダイニングのドアを開けた。


「うむ! ちゃんと母さんに店番頼んできたか?」


「はい、ばっちり呆れられてきました! でも、常連さんがこんどお菓子をくださるって伝えたら機嫌も直りました!」


 パタパタとテーブルに駆け寄り、ごく自然に那須の隣に座るハルカさん。僕はじろりと那須を見上げたが、クールなイケメン顔はこちらを向きもしなかった。


「えー、では!」


 鷹宮氏が一際大きな声をあげる。ハルカさん、那須、僕、全員の注目が集まったところで、我らが総司令は右手を鋭く突き出した。


「これより、『現実戦隊フツージン』の第二回・『現実超越作戦会議』を開始する!」


「わー!」


 すかさずハルカさんが拍手する。僕と那須もゆるゆると続き、ダイニングには乾いた拍手がまばらに響いた。『現実超越作戦会議』は、これが一回目な気がする。


 拍手が止むのを待ってから、鷹宮氏は静かに右手を下ろした。両手を背中に回して胸を張り、僕らの顔を見回す。


「諸君、前回は本当にご苦労だった! 君たちの活躍によってこの町の無情な現実はひとつ塗り替えられ、我々の華々しいデビューと世の中に差す新たな光を、愛すべき町民と一羽の鳥類に示すことができた! 我々『現実戦隊フツージン』にとって、非常に素晴らしい第一歩となっただろう」


 朗々と語る鷹宮氏。僕は思わず唇を曲げた。華々しいデビュー、新たな光、素晴らしい第一歩。あのわずかな間の出来事は、そんなに劇的なものだっただろうか。

 ダイニングには生温かい沈黙が広がっている。氏は小さく咳払いをしてから、人差し指をピンと立てた。


「しかし! 受け止めがたい現実というものは、今日もどこかで人々を苦しめ続けている。たとえその全てを掬い取ることはできなくとも、我々は常に誰かの、いずれかの現実に立ち向かい続けねばならない。そこで、次の任務はこれだ!」


 ダン! 一枚のコピー用紙がテーブルに叩きつけられる。覗き込むと、そこには太い字でめいっぱいにこう書かれていた。


『奥さんの家事を助けてあげよう!』


「今回のこれは、ピンクが見つけてきた任務だ。説明を頼むぞ」


「はいっ!」


 敬礼をして立ち上がり、ハルカさんは真剣な面持ちで話し始める。


「その奥さんは、三村さんといいます。うちの常連さんである彼女は、今年で四歳になるお子さんをもつシングルマザー。育児と家事をこなしながら、会社員として毎日仕事に励んでいます……が、しかし!」


 ハルカさんは自分で自分の肩を抱きしめる。大袈裟に眉を下げた表情には、とても分かりやすく悲しみが満ちあふれていた。


「三村さんだって一人の人間です。毎朝早起きしてお子さんを保育園に預けて会社に行って、疲れてヘトヘトになったその足でお子さんを保育園まで迎えに行って、帰ったら晩ご飯をつくってもちろん他の家事もして……それを毎日続けていたら、やっぱり疲れてしまうんです。三村さんは私にこうおっしゃいました」


 机に両手をつき、ハルカさんは項垂れる。それから突然顔を上げて、向かい側の壁をキッと睨みつけた。


「『たまには家事だけでも休めたらいいのに、とは思うけど、現実にはそうはいかないんですよね』……と!」


「なんてことだッ!」


 鷹宮氏の声が食い気味に重なる。僕と那須の肩がほぼ同時に跳ねた。氏は机の上のコピー用紙を両手でつまみ上げ、パン! と音をさせて広げる。『奥さんの家事を助けてあげよう!』の文字が、僕らの前に高々と掲げられた。


「諸君、これは紛れもなく、我々が立ち向かうべきひとつの現実である! 今回から、作戦は全員で一から考えるぞ! 我々四人の知力と想像力を結集して、三村さんのための非現実をどのように実現させるか、その作戦を立てようじゃないか!」


 …………。


 沈黙の温度は、さきほどよりやや下がっている。ハルカさんが鷹宮氏を見、鷹宮氏が僕を見、僕が那須を見て、那須は静かに俯いた。


 高校時代の修学旅行を思い出す。僕と佐藤と、その他数人の目立たない同級生とでグループを組んで、自由行動の行き先を話し合ったとき。今の空気は、あのときと同じ空気だ。

 あの時は確か、佐藤が積極的に意見を出してくれたんだっけ。佐藤の話し方はぎこちなかったけれど、彼の存在が頼もしく感じられたのを覚えている。当時の僕は佐藤の言葉に相槌を打つだけだったし、今この場でも何も言えないけれど。


「お、おいおい。頼むぞみんな、おれも考えるから。考え方としては、『自分が同じ状況に立たされたとき、どうなったら嬉しいか』だぞ! こうなったらいいのに、とか、漫画やドラマだったらこうなるのにな、とか」


 ううむ、と唸って、鷹宮氏が顎を撫でる。それから数秒の間をおいて、ハルカさんが「じゃあ」と遠慮がちに手をあげた。


「前から考えてたんですけど……三村さんのお子さんが一時的に突然大きくなって、家事を手伝ってくれたり三村さんの肩を揉んであげたりする、というのはどうでしょう?」


 娘の意見に、氏がパチンと指を鳴らした。


「いいじゃないか! どうしてもっと早く言わなかったんだ?」


「ありがとうございます! でも、どうしたら実現できるのか分からなくて。大きくなったお子さん役の人を連れてくるにしても、私にはアテがないですし」


「何を言う、そんなことはみんなで考えればいい。とにかく思いついたことは片っ端から言っていく! そうするのが一番解決に近づくぞ」


「あ、なるほどー! それはその通りですね!」


「いや、でも」


 ブルーが申し訳なさそうに口を挟む。


「いきなり成長させてしまうと、親御さんとしてはショックが大きい気も……。それなら、今のお子さんに手伝ってもらうほうが嬉しいんじゃないかと、思うんですが」


「うむぅ。確かにそれはそうだな」腕を組む鷹宮氏。「しかし、子どもはいま三歳なんだろ? その子に家事を手伝ってもらうのも、親としては気が気でないな」


「そっかー……。じゃあ、どうしたらいいですかね?」


 ハルカさんが頬に手を当て、鷹宮氏が首をひねる。


 いけない。この場にいるからには、僕も何か発言しなければ。ハルカさん、ひいてはその父親である鷹宮氏に失望されたくはないし、ここで流れに置いて行かれるのも不安だ。何か考えなければ、何か。仕事と家事と育児に追われていて、家事だけでも休みたくて……非現実、現実に非現実を……。


「じゃあ、こういうのはどうだ」


 僕がぐるぐる考えていると、今度は鷹宮氏の手があがった。ぷつりと思考が分断されて、僕は氏を見上げる。ほぅ、と暖かい息が漏れた。


「三村さんの前に、やけに二枚目な男が現れるんだ。二人は何度か会ううちに意気投合して、やがて男が三村さんの家に居候することになる。男は家賃代わりとして家事のほとんどを完璧にこなし、そして三村さんの疲れた心をも優しく溶かすように癒してくれる……というのは?」


「ああ、恋愛ものの漫画みたいで素敵ですね!」


 ハルカさんが胸の前でうっとりと指を組んだ。ロマンチックに憧れるハルカさんは可愛いが、


「で、でも、その居候の男は誰がやるんですか? それって、かなり負担が大きいんじゃ」


 僕は恐る恐る指摘した。鷹宮氏はキョトンと目を丸くして、「そりゃあ……」と那須に視線を移す。ハルカさんもにっこりとした笑顔を那須に向けた。突如注目された二枚目は、猫背の肩をさらに縮める。


「え、えっ? いやそれは、さすがに……俺、自分の家ありますし」


「ま、そうだよなぁ」


「そうですよねぇ」


 顔を見合わせる鷹宮父娘。那須は困ったように眉を下げ、襟足の伸びたうなじを掻いた。

そして、ダイニングにはまた沈黙が戻る。僕の頭は真っ白になって、窓の外は、次第に暗くなっていく。


 結局、その後もこれといった案は出なかった。刻々と時間だけが過ぎていき、およそ二十回目の「うぅむ」のあと、鷹宮氏は呻くようにこう言った。


「次の会議までに、おのおの考えてくるように」





 麻婆丼を座卓に置いて、座椅子にどさりと腰を下ろす。あー、と息混じりの低い声が漏れた。スーパーで値引きされていた麻婆丼は冷たいが、温め直すことすらもう面倒だ。


 自宅で腰を落ち着けると、いつも一気に疲れが溢れる。瞼が重くなり、肩が前に落ち、背筋は伸びなくなって、尻は床から離れなくなる。今日の仕事の疲れと、昨日の仕事の疲れと、それから明日の仕事の疲れまでもが積み重なって、僕の体をぺちゃんこにしようとしているみたいだ。そこに作戦会議の疲れまで加わって、今日の僕はほとんどぺちゃんこだった。


 スプーンを持ち、「いただきます」と呟いてから、一口ぶんをすくって食べる。一か月前に食べたときより、味付けが少し濃い気がした。


 ――ああ、本当に疲れた。ただでさえ仕事でぼろぼろになっているのに、どうしてヒーローの会議にまで出なくちゃいけないんだ。


 ――でも、僕は最後まで何の案も思いつけなかったな。ただ座って話を聞いていただけなのに、疲れたなんて思っていいのだろうか。


 ――そういえばハルカさん、「二枚目」の話のときに那須を見てたな……。


 ――いやでも、那須は確かに誰の目から見ても二枚目だろうし、僕はそれには程遠いし、あの場では那須を選ぶのが妥当で当たり前だろう。そうだよな。もし那須に気があるんだとしたら、鷹宮氏のあの案には反対するのが自然なはずだし。


 ――ハルカさんと那須って、どのくらい仲がいいのかな。


 咀嚼しながら考えていると、ガシャン! 壁の向こうから音がした。四ツ谷の部屋からだ。皿か何かを割ったのだろうか? ドスドスドス、と足音が続き、少ししてまた静かになる。


 普段の四ツ谷は物音ひとつ立てないが、一か月に一度くらいの頻度で特別大きな音を立てる。物が割れる音、激しい足音、何かを叩きつけるような音、重いものが次々落ちるような音。いずれもすぐに収まるのでそれほど気にはならないが、彼が謎多き隣人なのは間違いない。


 僕は座卓の隅のスマートフォンを引き寄せ、床に転がっていたイヤホンをイヤホンジャックと両耳に差し込んだ。動画サイトのアプリ版を呼び出し、検索欄に文字を打つ。『光戦隊コーセイジャー』。自分から疲れにいってどうするんだ、と思いながら、虫メガネのマークをタップした。麻婆丼を口に運ぶ。


 別に考えがあったわけじゃない。ただ、ふとコーセイジャーのことを思い出したくなった。彼らの「ヒーロー」たる姿を、この目できちんと確かめたかったのかもしれない。今の僕は「ヒーロー」ではないのだと、自信を持ちたかったのかも。


 検索結果がずらりと並ぶ。一番上に表示されたのは、『コーセイジャー』のオープニング映像だった。制作会社の公式アカウントがアップロードしたものだ。タイトルロゴの躍るサムネイルに導かれるまま、僕は動画を再生する。三秒ほどのロード時間の後、高らかな金管楽器の音が耳に飛び込んできた。


『光戦隊っ!』


『コーセイジャーっ!』


 戦隊メンバーの声がタイトルを叫ぶ。軽快なイントロが流れ出し、赤い革ジャンを着た青年が、街路をがむしゃらなフォームで走ってくる。ハキハキした歌声が入ると画面下部には勇ましい歌詞が表示され、青年が地面を蹴って高く跳ぶ。

 丸眼鏡をかけた博士がこちらを振り向き、若い女性が黒髪をなびかせ、やたらはしゃぐ短髪の少年をイケメンと温厚そうな男が宥め、ろうそくの灯る暗い部屋で何者かの口元が笑う。そして次のカットでは、赤、青、ピンク、黄、緑の五人組が採石場を見下ろしている。

 歌声が盛り上がると五人は採石場に飛び降り、黒い全身タイツの男たちをそれぞれの方法でなぎ倒し始める。巨大なハサミを携えた怪人に、レッドが対峙する。


「懐かしいな……」


 無意識にそう呟いていた。記憶の中ではぼやけていたヒーローたちの輪郭が、一本の線に集中していく。サビのメロディーに合わせて、乾いた唇が歌詞をなぞる。


 激しい戦いを繰り広げながらも、レッドはぴんと背筋を伸ばしている。イメージしていたほどキレのあるパンチやキックではなかったが、大人になった僕が見ても、彼らは確かに格好よかった。本物の、「ヒーロー」だった。だからこそ、はっきりと分かる。


 僕は、彼らのようなヒーローではない。彼らのような「ヒーロー」には、なれない。


 僕は黙々と夕食を食べ進めた。スプーンを置いたのは八時を十分ほど過ぎた頃で、瞼もいよいよ持ち上がらなくなってきている。イヤホンを外して床に倒れ込むと、座卓の上のカップに見下ろされた。ここが採石場なら僕は悪役だ。怪人か? いや、全身タイツのほうだろう。


 ごてん、と首を左に回す。サッシの外のベランダで、洗濯物が夜風に揺れている。ため息のために空気を吸い込むと、自分の皮脂のにおいがした。シャワーを浴びなきゃ。洗濯物を取り込んで、食器も洗って。あれ、そういえば洗剤が切れそうだったっけ。あと、そうだ、ワイシャツにアイロンもかけないと。


 なるほど、仕事と家事の両立は大変で、面倒だ。そこに育児が加わるとなれば、件の奥さんにはもっと多くの疲労が溜まっているのだろう。やらなきゃいけないことも、やりたいこともたくさんあって、それらのせいで疲れているのにそれらのせいで休めない。せめてそのうちのひとつくらい、自分の責任から離れてくれれば……。


「帰ったときには、家事がぜんぶ済んでたらいいのに」





「いぃ~いじゃないかっ!」


 鷹宮氏の顔と指先が目の前に迫る。僕は慌てて身を引いて、椅子の背もたれで肩甲骨を打った。


「そ、そう、ですか?」


「そうだとも!」


 鼻同士がくっつくほどの距離で頷く鷹宮氏。僕がつられて頷くと、氏はニヤリと笑って顔を離した。テーブルの向かいで、笑顔のハルカさんが顎に手を当てる。


「知らない間にやるべきことが済んでるって、小人の靴屋さんみたいですね!」


「小人の……ええと」


「『小人の靴屋』! 童話です。働き者だけど貧乏な靴屋さんのところに小人が現れて、靴屋さんが寝ている間にとっても素敵な靴をつくるっていう!」


「あ、ああ」


 ハルカさんの笑顔がこちらに向いて、僕は思わず目を逸らす。僕の提案に、彼女がイメージを膨らませている。これがヒーローの作戦会議でなかったら、もっと気楽に喜べたのに。


 「おのおの考えてくるように」から二日が過ぎ、僕たちはまた鷹宮家に集められていた。僕は前回の二の舞を演じないよう早めに手をあげ、胃がねじ切れるほどの緊張に襲われながら二日前の実感を話した。するとそれが思ったよりも好評だったので、今はただ困惑している。「レッドよ、お前はここぞというところで実力を発揮するタイプだなぁ」肩をバシバシ叩かれている。


「『私が仕事をしてる間に、誰かが他の用事を済ませてくれれば』って、私も考えたことあるんですよー。それが現実になったら、たしかに嬉しいですよね!」


 思いつかなかったなぁ、と少し悔しげなハルカさん。ハルカさんが僕と同じことを? バシバシにドキドキが重なって困惑が加速する。急にこんなに褒められて、僕は一体どうしたらいいんだ?


「それを現実にしようと思うと、」


 那須が静かに口を開いた。ハルカさんと鷹宮氏が同時に彼を見る。バシバシが止まる。


「その、三村さんの家に、俺たちが入らないといけないですね」


「……確かに」


 僕の肩から手を離して、腕を組む鷹宮氏。場の空気が少し落ち着いた。水を差されたことにムッとしつつも、僕は胸を撫で下ろす。鋭い指摘をしておきながら、那須は相変わらず猫背だ。ルックスの印象でクールに見えるが、彼の雰囲気はどちらかというと暗い。


「不法侵入になっちゃいます?」


 ハルカさんが首を傾げる。いや、と那須が彼女を見た。


「それもあるけど、そもそも入る手段がない、と思う。窓を割ったり、ピッキングをしたりするわけにもいかないし」


「ピッキング、難しそうですしねぇ」


 ハルカさんが遠い目をする。那須の言う通りだ。法に触れない形で他人の家に侵入するのは難しい。が、ここでイケメンに屈するのはなんとなく癪だ。なら、と頭を必死に回転させ、僕はハッとして手をあげた。


「あ! じゃあ、あらかじめお宅に伺う許可をもらっておくのは?」


「何を言う! それじゃあただの家事代行ボランティアだろう」


 氏に一蹴され、僕は肩をすぼめる。我ながらかなり確実かつ真っ当な意見だったと思うんだけれど。「家事代行じゃダメ、ですか」


「当たり前だ! おれたちはヒーローなんだから……」


「ヒーロー?」


 鷹宮氏の声を遮って、聞き慣れない声が飛んできた。僕の右斜め後ろ、廊下に続くドアのほうからだ。振り返ると、そこにはセーラー服を着たひとりの少女が立っていた。力の抜けた立ち姿に、肩につくくらいの黒い髪。手には紙袋を提げている。初対面のはずだが、どこかで見たことがあるような……。


「おっ、おうさん!? どうしてここに」


 ハルカさんが机に手をつき、椅子から腰を浮かせた。仰木と呼ばれた少女は、怪訝な顔で僕らを見回している。その視線に記憶が重なった。前回の会議の日、『タカミヤ』でコロッケを買っていた先客の少女だ。


 仰木は紙袋を軽く掲げ、気だるげに言う。


「これ、うちの母親に持たされたお菓子なんですけど。下で渡そうとしたら、『うちの台所に持ってっといて』っておばさんに言われたんで」


「母さん! 部屋には誰も入れるなと言っておいたのに!」


 頭を抱える鷹宮氏。仰木は「そう言われても……」という表情でキッチンに入り、流し台の脇に袋を置いた。動作の一つ一つが、ふてぶてしくも無気力に見える。制服を着崩している様子も化粧をしている様子もなく、地味な出で立ちだ。顔のつくりも平均的だが、彼女には独特の存在感があった。


「で、ヒーローって何なんですか?」


 仰木のぬるりとした声に、僕らは顔を見合わせた。焦ったように目を見開くハルカさん、猫背を激化させる那須、口をぱくぱくさせている鷹宮氏。氏は苦しげに両目を閉じ、歪めた唇から声を絞り出した。


「それは……忘れなさい……」


「ふぅん」


 興味なさそうに頷いて、ダイニングを出ようとする仰木。気まずい静けさがテーブルに満ちる。それを和らげようとしてか、ハルカさんは普段より大きな声で仰木に呼びかけた。


「あ、お、仰木さん! あの、よその人のお家にこっそりお邪魔するとしたら、仰木さんはどうやって入ります?」


 仰木は振り返り、片眉を上げた。


「こっそりって、そもそも入っちゃ駄目だと思いますけど」


 前提からキッパリ否定され、ハルカさんが目に見えて意気消沈する。「そ、それはそうなんですけど」そんな彼女を不憫に思ったのか、仰木は困り顔でこちらに向き直った。セーラー服の黄色いスカーフが、胸元で小さく揺れる。


「どうしても入りたいなら……家主の知り合いに頼んで上がらせてもらう、っていうのが一番穏やかな方法じゃないですか? たぶん」


「知り合い、ですか」


 ハルカさんが真剣な顔をする。と、鷹宮氏が仰木へ身を乗り出した。それなりの距離はあったが、仰木は一歩後ずさる。警戒する少女に、鷹宮氏は低い声で尋ねた。


「じゃあ君、三村さんという人のことを知らないか? この近くのマンションに住んでいる、三十代くらいの女性なんだが」


 マンションへの道順を辿るように、氏は人差し指を宙に滑らせる。仰木はそれを目で追って、「ああ」と小さく口を開いた。じれったい空気に耐えかねて、眼鏡を指で押し上げる僕。と、無気力な声が耳に飛び込んできた。


「それなら、あたしの叔母さんですけど」


「えっ」


「なっ」


「何ぃッ!?」


 僕、ハルカさん、鷹宮氏が一斉に仰木を見る。ダン! 氏の両手が机を叩き、ふくよかな腹がテーブルに食い込んだ。


「ほ、ほ、ほ、本当か! 三村さん! 君の叔母さん!」


 興奮する氏の声を避けるように、仰木は頭を傾ける。その後頭部を掻きながら、彼女はやはり淡々と答えた。


「はい、母親の妹で。今日お菓子を持ってきたのも、叔母さんとあたしが『タカミヤ』さんにお世話になってるからっていう理由ですし」


「じゃあ! 君は三村さんちにも入れるのか!」


「確か、うちに合鍵があったと思いますけど」


「おぉ、おぉぉおおおお!」


 鷹宮氏が拳を震わせる。僕も内心驚いていた。こんなピッタリのタイミングで、三村さんの姪が現れるなんて。そんなこと、現実に起こり得るのか? 現実味のない展開に頭がくらくらする。

 

 自分でも気づかないうちに、僕は非現実の世界に迷い込んでしまったのかもしれない。


「え、何ですか? なんか変なことしようとしてないですよね?」


 強盗でも見るような目を僕らに向ける仰木。鷹宮氏は自信たっぷりに首を横に振ると、胸をこれ見よがしに反らした。


「まさか! この際もう言おう、おれたちはこの世の非情な現実を華麗に打ち砕く正義のヒーロー、『現実戦隊フツージン』だ! 変なことをするどころか、君の叔母さんを理不尽な現実から鮮やかに救い出してみせるとも!」


「は?」


 仰木は唇を斜めに開く。「そうなんです!」とハルカさんは椅子の上で跳ね、まるい瞳を奇跡の常連客に向けた。


「だから仰木さん、どうか私たちに力を貸してください!」


 鷹宮父娘の勢いに押され、仰木は顎を引く。ハルカさん、鷹宮氏、僕、那須、お菓子の紙袋を順に見、また僕らに目を戻してから、彼女は静かな声で言った。


「は?」

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