第11話 満州での敗戦、逃避行、子との別れ



 ある日、思い詰めた表情をしたトウヘイさんから「満洲まんしゅうへ行きたい」と打ち明けられたとき、おばあさんは内心で、なんだか雲をつかむような話だなと思いました。


 一家そろって海を渡り、見知らぬ国で一から始めようというのですから。

 不安が胸にふくれ上がりましたが、おばあさんは黙ってうなずきました。

 幼いトウイチとふたりだけで日本に残るなど考えられなかったからです。

 

 満洲開拓は、そのころの政府や軍部が考えついた、国民を欺く施策でした。

 父や夫や息子や兄弟を兵隊にとられた不満を国外に向けようとしたのです。


 山ばかりで耕地が少ない日本に比べ、中国大陸には広大な土地があり余っており、身ひとつで出かけて行けば肥沃な土地がいくらでも自分のものになるという話です。


 長男一家の居候の身分で、自分名義の土地が欲しくて、のどから手が出そうだった農家の次男以下の男たちにとって、それはまさに夢のようなおとぎ話だったのです。


      *


 けれども、乳飲み子を抱え、汽車と船を乗り継いでようやくたどり着いた満洲は、日本で聞いていたパラダイスとは、似ても似つかない、寒くて荒れた土地でした。

 それも……現地の農民から日本政府が力づくで奪い取った……。(-。-)y-゜゜゜


 でも、いまさら日本へは帰れません。

 おばあさんは夫のトウヘイさんとけんめいにがんばって、息子のトウイチにとって故郷になるはずの土地をコツコツ耕しました。


 大草原に花が咲き乱れる春。両手に抱えきれないキャベツやカボチャが採れる夏。巨大な夕日が地平線に沈んで行く秋。オンドルで温めた煉瓦の家から窓の外の雪景色を見て暮らす冬。いいところばかり見るようにしているうちに、狭い日本よりずっといいと思うようになりました。実際は、そう思うより仕方がなかったのですが……。


       *

 

 そんな暮らしを断ちきったのは、トウヘイさんに送られて来た召集令状でした。

 満洲開拓団員は出征しなくていいという約束のはずでしたが、そんなことも言っていられないくらい、勝ち目のない戦いの戦局がいよいよ危なくなって来たのです。


 お国のため精いっぱいの凛々しい笑顔で戦争に駆り出されてゆくトウヘイさん。

 まだ2歳のがんぜないトウイチを抱いた妻にちらっと目を向けたトウヘイさんは、開拓団の人たちが打ち振る小旗の波のなかに心を置いたままで去って行きました。


       *

 

 その年の8月半ば。

 日本の開拓団はとつぜんの襲撃に見舞われました。


 終戦を知った現地の農民たちが鍬や鎌を武器にして立ち上がり、これまでの恨みをいまこそ果たさんとばかりに、恐ろしいときの声をあげながら押しかけて来たのです。


 男は出征していましたので、村に残っていたのは女や子ども、老人ばかりでした。

 弱い者が互いに声をかけ合って励まし合い、地獄の底を這いまわるような逃避行が始まりました。幼子に乳を飲ませることも、おむつを替えてやることもできません。


 着の身着のままの逃亡生活のすえ、季節が秋から冬に変わるころハルピンの避難所にたどり着いたおばあさんは、大流行していた発疹チフスに罹患してしまいました。


 このままでは幼いトウイチを残して死ぬばかり。

 とそこへ親切な中国人の夫婦がやって来ました。


 われわれに子どもを託しなさいと言っています。

 このままでは、親子そろって共倒れするばかり。


 身を引き裂かれるように悩んだおばあさんは、ついに手放すことを決意しました。

「少しの間だけ」と言い聞かされ、無心に中国人夫妻に連れ去られたトウイチの顔が生きる意欲になったのでしょうか、危篤だったおばあさんは奇跡的に快復しました。


 でも、ほうぼう探しまわりましたが、どこのだれともわからない中国人夫妻の居所を突き留めることは、引揚船に乗りこむ瞬間まで、とうとう分からなかったのです。

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