第2話


 佐和田怜那――後の今村由香であるはずの――は、俺の目の前で、ごそごそと動きながら、手だけでプリントを廻して来る。後に「異様な距離の近さ」で業界人を困らせたコミュニケーション術はなく、ただの引っ込み思案の地味な女子である。

 

 「ありがとう。佐和田さん。」


 とりあえず事務的な会話を送る程度には、俺と佐和田怜那には薄い面識がある。ただ単純に中2、中3と一緒のクラスなだけである。男女混合の席順であるからこそであり、前世の俺の田舎のような男女別の席順なら、こんな関係にすらならなかった。

 

 佐和田怜那は、びくっと背中を揺らすと、また席に戻った。

 やれやれ。所詮はこの程度の関係である。


 これで彼女の運命をどう変えられると言うのだろうか。

 本当に彼女の運命を変えるために俺はここにいるのか怪しくなる。

 そもそもそんなことをする必要があるのかすらも謎だ。

 駄目神様が真っ白な部屋でポテチ齧りながら教えてくれたわけでもないし。


 とはいえ。一隠れファンとしては、もう少しだけ、

 せめて会話ができるくらいには距離を詰めてみたくなる。

 「今村由香の友人」枠で音楽番組で花束を持って行くのは無理でも、

 「あの娘、俺の目の前の席に座ってたんだぜ」くらい言っても良いではないか。


 だが、佐和田怜那と俺には、接点の糸口すらない。常道では、同じ部活やサークルに入って親しくなろうとするものだが、彼女が入っていた軽音部は、不祥事があったらしく休止に追い込まれている。

 では知人や友人を介してみれば? 残念ながら、中学3年生の佐和田怜那には、びっくりするほど友人がいない。同性の知人すら、まったく見る影もないのだ。

 今村由香の全盛期に「わたしのともだち」という歌詞があるが、あれは少なくとも中学時代ではないのだろう。


 やれやれ。どうしたものか。

 

 「古河さん、古河、智也さん!」

 

 ん?

 あぁ、俺のことか。

 どうも俺の「名前」がしっくりこない。

 

 「授業を大っ変、しっかりと聞いていたようですねぇ。

  いまのところ、訳して頂けますか?」

 

 この当時は授業中に人を指名して立たせることを失礼と思わない教師が多かったようだ。篠塚女史もご多分に漏れない。


 「Curses return upon the heads of those that curse.

  人を呪わば穴二つ、ですか。」


 いかな俺が怠け者でも、中学三年生程度の英語は造作もないんだわ。

 ご丁寧に直前までの板書を示してくれて、分からないわけがない。

 それにしてもなんちゅう例文だ。


 篠塚女史は不満そうに指揮棒を下ろした。

 そもそも英語の授業中に指揮棒を持つな。


*


 おそらく。

 この出来事がなければ、俺と佐和田怜那の関係は、

 ただのクラスメート以上の域を出ずに、一生を終えただろう。

 

 1982年、7月初旬。

 期末試験が終わり、夏休みに向けた消化試合へと弛緩する時期。

 気まぐれな席替えの結果、俺と佐和田怜那は、なんと、隣り合う席となった。

 

 しかも、俺は窓際の一番奥という、消極的な帰宅部学生が最も羨む席を確保し、佐和田怜那がその右隣に布陣する格好になった。これは、俺が左隣や後ろの席を何も気にせずに、佐和田怜那に話しかけられることを意味する。

 

 「……、ぐうぜん、だね。」

 

 正直、驚きを隠せない。

 関係を作ろうとしない俺達に、駄女神が悪戯をしたことも、

 佐和田怜那が、少し掠れていたとはいえ、

 あの「声」で、俺に、はじめて話しかけたことも。


 自分で関係を作り上げようとまったくしなかったのに、向こう側から勝手に転がり込んできた。さすがに、この機会は利用しないわけにはいかない。

 

 地味子の佐和田怜那が不安そうに、上目遣いに俺を見ている。

 後に国営放送の視聴者を困惑させた天然あざとさ暴走娘の片鱗が見え隠れする。


 胸の奥が、掻き立てられるように疼く。

 光栄です。貴方のファンだったんです。

 なんて、言えるわけがない。そもそも、彼女はまだ、今村由香ではない。


 「そうだね。これからよろしく。」

 

 これくらいで、良い。

 ここからで、良い。


 雑に結った髪が小刻みに揺れる。

 寂し気な瞳に、花がほんの少し綻ぶような笑みは、

 後の童貞クラッシャー今村由香そのものである。


 よし。

 ここから、少しずつ、佐和田怜那との距離を詰めよう。

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