[6-7]名前で呼んでる、よね?

 とくとくと、心臓の音が高くなっていく。

 揺らぎのない瞳に見つめられて、わたしは思わず彼の名前を呼んだ。


「う、雨潮うしおくん……?」


 こんな近くで彼の顔を見るのは初めてかもしれない。

 通った鼻筋、少し日に焼けた肌。細身の幼なじみとは違い、彼の腕には程よい筋肉がついていてたくましい印象だ。まるでアルバくんみたい。

 まとっている雰囲気はいつもと違っていたけれど、雨潮うしおくんの表情は普段通りだった。

 口を開いて淡々とこう尋ねてきた。


「俺は平気だ。お前こそ怪我はないか、紫苑しおん

「う、うん。大丈夫」

「そうか」


 うなずくと、雨潮うしおくんは手を離してくれた。

 あっさりとした感じ。正直、拍子抜けしてしまった。


 わたしってば、なにをドキドキしていたのだろう。心のどこかで、ホッとして胸をなで下ろしている自分がいる。わたしはなにを心配していたのかな。

 あれ。そういえば、さっき雨潮うしおくんに、もう一度下の名前で呼ばれたような気がする。


 あれこれ考えているうちに、雨潮うしおくんはいつの間にか立ち上がったみたい。

 いまだ床に座り込んだままでいたわたしに、彼は手を差し伸べてくれた。


「ほら、つかまれ」


 彼の声はいつになくやわらかい声だった。

 差し出されたてのひらに自分の手を重ねると、雨潮うしおくんはわたしの手をつかんで引き上げてくれた。


 わたしを立ち上がらせたあと、彼は倒れた脚立を起こしていた。留め具を外し、折り畳んで、壁際に立てかけている。その一連の動作をなんとなく見守っていると、彼の赤い瞳がわたしを見た。


「手に届かない場所にあるなら、一人でなんとかせず俺を呼べばよかっただろ。一歩間違えれば怪我をするところだった」

「ご、ごめんなさい。脚立に乗れば大丈夫だと思って……」


 言われているのが、さっきの事故のことだとようやく気付いた。一人でコケたから、雨潮うしおくんに心配かけちゃったのね。

 なのに、思わず口から出た言葉が言い訳じみていて、少し後悔した。けど、雨潮くんはわたしを怒ったりはせず、深いため息をつくだけだった。


「その脚立だって、安全のことを考えれば原則二人一組で使わなくちゃいけない。知らなかったのか、紫苑しおん


 また名前を呼ばれた。やっぱり幻聴じゃないみたい。


「そうなの?」

「だから今度、脚立に乗る時は誰か呼べ。先生とかクラスの男子とか、背が高いやつなんてそのへんにいるだろ」

「うん、わかった。あの、雨潮うしおくん、ちょっと聞いてもいい?」


 たぶん、雨潮うしおくんはあえて他愛のない会話で流そうとしている。

 だけど気づいてしまった以上、知らないふりをすることなんてできなかった。


 わからないことはそのままにしないって決めた。直接、本人に聞かなくちゃ。


「さっきからわたしの名前で呼んでる、よね?」


 今わたしは、どんな顔をして笑っているのだろう。


 見上げれば、そこにはいつもと変わらない雨潮うしおくんの顔があった。

 口を引き結んでわたしを見下ろす宝石みたいな赤い瞳。わたしに向けたその視線が、横にそれた。


「……お前が嫌ならやめるけど」

「う、ううん。そうじゃないの! ただ、雨潮くん、いつもわたしのことは名字で呼んでたのに、どうしたのかなあって」


 雨潮うしおくんが気を悪くしないように、もう一度笑って手をぱたぱた横に振ってみる。

 本人は真面目に受け止めたのか、再びあごに手を添えたまま黙り込んでしまった。

 瞳を伏せた彼の表情は真剣そのものだ。一体なにを考えているのだろう。


「俺は雪火せっかのことは名前で呼んでいるだろ?」

「うん」

「それはあいつが名前で呼んでって言ってきたのもあるけど、一番の理由は友達だからだ。けど、お前に対しては名前で呼ばないのはどうかと、さっきとっさにお前の名前を口にして、そう思ったんだ」


 そっか、友達かあ。

 雨潮うしおくんはもともと雪火せっかに対しても苗字呼びだった。だけど、雪火せっかの家に泊まったあの一夜で、名前呼びになったのだ。

 急に仲良しになっちゃってどうしたのだろうと思っていたのだけど、あの日二人は友達になったからだったんだ。


 わたしだって雪火せっかのことは名前で呼ぶ。小さい時から一緒にいる付き合いの長い友達だから。

 名前をもつあやかしにだって、敬意を込めて名前で呼ぶ。アルバくんにはもちろん、カラス天狗てんぐ久遠くおんさんにだってそう。特に久遠くおんさん、彼は自己紹介や名前大事にしているわ。それはきっと、自分の名前が大切なひとからの贈りものだから。

 紫苑しおんという名前だって同じだわ。わたしの名前はお父さんが大好きな花から名付けてくれたって、前に聞いたことがある。だからわたしは自分の名前が大好きなの。

 雨潮うしおくんの「千秋」という名前だってそう。きっと彼の名前は、育ての親だというおじいさんが名付けたんじゃないかな。

 名前は人生で一番最初にもらう贈りもの。雨潮うしおくんにとってもかけがえのないものだというのに。


 思い返してみると、わたしは雨潮うしおくんにだけ苗字で呼んでいた。

 最初のギクシャクしていた関係の頃はともかく、わたしにとって今の彼は友達の一人だ。それはきっと、雨潮うしおくんも同じ気持ちだと思うの。なのに友達同士で名前で呼び合えないのはさみしいよね。

 わたしったら、なんて迂闊うかつだったのかしら。


「わかった。わたしの方こそごめんね。そういうこと、全然気が付かなくって」

「は? これは俺の問題なんだから、紫苑しおんは関係ないだろ」

「そんなことないよ。わたしたちはクラスメイトなんだもの。だからね、わたしもあなたのことは千秋くんって呼ぶね」

「別に構わないが……」


 名前を口にした途端、不思議な感覚がした。なんだか心の距離が縮まった気分がする。

 だから雪火せっかは、初対面の千秋くんに名前で呼んでって頼んだのかな。


紫苑しおんは、俺のこと名前で呼んだりしていいのか?」

「どうして? わたしと千秋くんは友達だもん。別におかしくないでしょう?」

「……友達、ね」


 千秋くんってば変なの。下の名前で呼び始めたのは、そっちからなのに。


 千秋くんは唇を引き上げ、笑っていた。なに、その意味深な笑み。

 さっき言ったことで笑う要素なんてあったっけ。

 少し考えてみたけど、その時はやっぱりよくわからなかった。


 わたしがその理由を知るのは少しあと、学校から帰宅して雪火せっかのハーブショップをのぞきに行った時。

 バイトを終えたアルバくんを迎えに行った時、彼と一波乱が起きて、わたしはようやく千秋くんが言ったことの意味を悟ることになったのだった。

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