[1-7]アルバローズとメヌエット

 部屋の中がしんと静まり返った。

 ばくさんはわたしを見つめたまま口を閉ざしたまま。

 聞かなきゃよかった。目をそらしたらあからさまだし、どうしたらいいの。気まずすぎる。


 別に気にかけているわけじゃないって言われたらどうしよう。

 自意識過剰って思われるかな。


「お前が傷ついてんのは、おれたちあやかしのせいだからな」


 視線をそらさずに真顔でそう言われた。わたしにとって予想外の反応だった。


 まるで責任を感じているような言い方。

 わたしがあやかしに襲われたせいでピアノを弾けなくなったことは、獏さんとは関係ないのに。


「わたしが前に、あやかしたちに何をされたのか獏さん知ってるの?」

「夢の中に入ったからわかるんだよ。おれたち獏はそういうイキモノなんだ。だから名乗ってもないのに、お前の名前を知っただろ」

「あ。そう言われてみればそうだったね」


 一度も名前を教えていないのに、獏さんはわたしの名前を呼んでいた。よく思い返してみれば自己紹介なんてしていない。


「でもわたし、獏さんには何もされてないよ?」

「そりゃおれは何もしてねえさ。でもおまえがあやかしをこわがってんのは、傷ついたからだろ? 怖い思いをしたし、痛みだって覚えた。なのにおまえは、飢えて動けなくなっていたおれを助けてくれた。だから――」

「だから、わたしを守るって言ってくれたの?」


 口に出したとたん、朝に見たばかりの夢が頭の中に浮かぶ。

 赤く目を光らせる怪異たちから庇うように立った獏さん。その広い背中は頼もしくて、とてもカッコよかった。

 絶対に守るだなんて、言われたのは初めて。

 どうしてかな。嬉しくて、思い出しただけで顔が熱くなってくる。


「ちょっ、なに顔赤くしてんだよ! こっちまで恥ずかしくなってくるだろ」

「えええっ、それは、あれよ! 獏さんだって、顔赤いじゃない」

「おれはおまえに釣られたんだっての」


 楽譜を両手で抱えたまま、隠すように顔を背ける獏さん。

 でもわたしはその頬が朱色に染まっていたのを見逃さなかった。

 仮に見逃していたとしても、バレバレだ。墨色に染まった三角耳は居心地悪そうに下がっているし、尻尾は落ち着きなく動いている。


 仕草も言動も、わたしたち人間とちっとも変わらない。外見だけが変わってるだけ。

 起き抜けに覆い被さっていた時はすごくびっくりしたけどね。あの時もわたしが見ていた悪い夢を獏さんは食べてくれようとしていただけだったのかも。だって、こうして話してみると、獏さんは優しい普通のお兄さんみたいなんだもの。

 どうしてわたしに取り憑いたのかはわからない。もしかしたらお腹を満たすためだったのかな。


 獏さん、か。


 あやかしたちは名前を持たない。九尾きゅうびさんにだって名前はないもの。

 だけど、どうしてだろう。わたしは彼を「獏さん」と呼ぶたびに胸のあたりがもやもやしていた。


「そ、それでっ。楽譜は見つかったのかよ」

「うん、見つかったよ。すごく久しぶりに弾くから、これにしようと思って」


 ずっと探していた本の表紙を獏さんに見えるように掲げ持つ。

 その本はわたしが小学生の低学年の頃に使っていたものだった。


「まあ見てもわかんねえけど。何て曲なのか教えろよ」


 と、言いつつ、ぱらぱらとページをめくって中身を確認するあたり、彼は律儀な性格だなと思う。

 面倒くさそうにしながら親身になってくれるなんて、変なの。

 口もとが緩んでしまいそうなのを我慢しつつ、自然と弾んでいく心を感じながら、笑顔で答えた。


「メヌエットよ」




 * * *




 メヌエットはゆっくりなテンポの曲で、あまり忙しく指を動かさない。

 初めて弾いたのは、七歳くらいの時だったかな。

 初心者向けの易しい曲で有名だ。だから、リハビリがてらに弾くにはぴったりの曲だった。


 楽譜を見ながらゆっくりと指を動かす。

 まるでお母さんがゆりかごに入った赤ちゃんを揺らすような、ゆっくりとしていてやさしい曲。

 なんとか指をもつれさせないで、みんなに聞かせられる演奏になりそう。


 雪火せっかはもちろん、普段はおしゃべりの九尾さんは声をかけてこなかった。

 獏さんも静かに聞き入ってくれているのかな。


 わたし、やっぱりピアノが好きだ。


 音色を奏でるたびに、ぽっかりと空いた心が満たされていく。生きてるって感じがする。

 この気持ちを思い出させてくれたのは、紛れもなく獏さんのおかげだ。


 瞳をぎらつかせる怪異たちはこわかったけど、豊かな自然に囲まれながらピアノを弾くのは楽しかった。

 なめらかに指が動いて、思い通りの音を出せるのはわくわくしたわ。

 やさしく落ちる木漏れ日はきれいだったし、なによりわたしと獏さんのまわりを彩るように咲き乱れたあの純白のバラが、うっとりするくらい美しかった。

 わたしの大好きな花、アルバローズ。


 取り憑いたと聞いた時はびっくりしたけれど、不思議とこわいとは思わなかった。普通の人みたいにわたしの気持ちに寄り添ってくれるからかな。獏さんはあやかしという感じがあまりしない。

 それに。


 ――これからはおれがお前を守る。お前を傷つけようとするすべてから、絶対に守ってやる。


 力強く言ってくれたあの言葉が、ほんとうにうれしかった。


 獏さんは今まで会ったどのあやかしよりも、純粋でやさしい心を持っている。純白のバラのように曇りのない気持ちを向けてくれる。

 夢に入ってきたのが彼だったから、きっとわたしはもう一度ピアノを弾けるようになったんだわ。


 もう、ただの獏だなんて呼びたくない。

 彼と仲良くなりたい。ううん、もっと彼のことを知りたい。

 こんな気持ち初めて。どうしてそう強く願うのかはわからないけど、これがわたしの本心だ。

 だから――。


 曲を弾き終えると、雪火せっかと九尾が拍手してくれた。

 胸の奥がこそばゆい。なんだか照れくさかった。


 獏さんの耳は真っ白ではないものの、薄いグレーに変わっていた。一曲弾いただけじゃ、完全に邪気のおりを取り除けるわけじゃないみたい。

 からだの方は大丈夫なのかな。邪気って言うくらいだもん。取り除いた方がいいに決まってる。


 ピアノの椅子から下りて、わたしはゆっくりと獏さんへ近づいていく。

 まっすぐに見ていたからか、すぐに彼も気付いてくれた。


「ありがとう。あなたのおかげで、わたしはもう一度ピアノと向き合うことができたわ」


 まずは、どうしても感謝の言葉を伝えたかった。

 でもわたしが彼に贈りたいのはありきたりな言葉だけじゃない。もっと大きなものだ。


「別に大したことしてねえし。ま、ほとぼりが冷めたらおまえから出て行ってやるからさ。それまで――」

「ううん、いつまでも一緒にいて。わたしがそうして欲しいの。おねがい、アルバくん」


 藍色の目が丸くなる。

 三角耳がピンと張った。


「へ? アルバって?」


 反応は予想通りだった。

 できるなら受け取って欲しい。わたしが考えた、あなただけの名前。世界でたったひとつだけの大切な贈り物。


「ただの獏さんだなんて呼びたくない。わたしは今日からあなたをアルバと呼ぶわ。あなただけの特別な名前よ。これからよろしくね、アルバくん」


 目を丸くしたままの彼に、わたしはにこりと笑ってみせた。

 突き返されるなんて思ってない。だって、彼は人間みたいに繊細な心をもった、誰かに気持ちを寄り添えるやさしいあやかしなんだもの。


 あやかしなんて、お母さんと九尾さん以外は無理だって思ってた。

 だけど、そんなわたしは夢喰いのあやかしに恋をした。

 まだ蝉がにぎやかに鳴き交わす夏真っ盛り。初めての恋を自覚するのはまだ先のことだった。

 

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