プロローグ3 没個性の少年
あそこで逃げるという選択肢を選び実行できただけでも、十分に賞賛に値する。
普段、日常の中で安穏と暮らす一般人がこんな非日常的な場面に出くわせば、思考が停止して足もすくんでしまうものだが。
仮に正常に思考が働いたとしても身体が動いてくれるとは限らないし、事実、少女はそんな人間を何度も見てきた。
それを考えれば、小柄に見えたあの少年の状況適応力というのは目を
と、少女は今だ執拗に追いかけてくる追っ手達を油断なく警戒しながら思った。
咥えていたサンドイッチを飲み込む。
時折、背後から飛来してくる銃弾やナイフを避けながら、あるいはその手に纏った氷の剣で弾きながら逃走を続ける。
恐るべきことに、このリアル鬼ごっこが始まってからもう一週間だった。
(撒いたと思って油断してネットカフェで小休止なんてするんじゃなかった……)
本当にヘタをこいた。
まさかここまで根気強いなんて……向こうも、自分も。
それだけの長時間、同じことを繰り返しておきながらあちらは一向に隙を見せることはなく、またそんな気配もなかった。
それどころか、こちらが隙を見せることになってしまった。
原因は突然の闖入者。
あの没個性の少年。
(早く助けに行かないと!)
どこかの学生らしき制服を着ていたし、自分と違って、やはり普段は日常の中で生きる人間なのだろう。
そんな人間を巻き込んでしまった。
仮にこの状況を切り抜けることができたとしても、普通に生活しているだけでは知り得ない常識の裏側を見てしまった以上、もう日常には戻れないかもしれない。
しかし、だからといってそんな理不尽、ただ見てしまったというだけでこちら側の事情を押し付けるのは忍びない。
助けに行きたい。
しかしそうしようにも、少女のほうも今現在、自分を追いかけてきている連中だけで手一杯だった。
それどころか身に余っている。
このまま逃亡を続けつつあの少年の
(できるだけ早く、あいつらを倒して……)
背後を振り返って、しかし舌打ちが溢れる。
それしか方法はないが、それが可能ならとっくにそうしていた。一週間もこんな無為な鬼ごっこを続けたりなんてしていない。
現在、直近の背後に見えている連中だけが追っ手の全てではないのだ。
少女の位置からでは視認できないが、建物を挟んだ向こうの通りやビルの屋上などに、十、二十メートルの距離をつかず離れず着いてくる気配がある。
背後の連中を倒したとしても、彼らがそれにとって代わるだけだ。
この一週間、ずっとそうだったのだから。
この一週間で少女が推定した敵方の人員は、おそらく百人近い。一週間で仕留めることができたのは、おそらく十人と少し。たったそれだけ。それも今ではとっくに新しい人員が補充されている。
奴らは決して積極的に攻勢に出ることはない。
少女から視認できるか否かという距離からつかず離れず少女を追いかけ回し、隙があれば一発二発銃弾を撃ち込んでくる程度。
そんじょそこらの銃器で致命傷を負うことなど滅多にない少女だが、着弾部分に殴られたような衝撃は走る。
ある程度密度を凝縮させて硬質化した氷を具現化させて防御すれば痛くも痒くもないが、いつ飛んでくるかわからない銃撃に四六時中気を張っていては、いずれ精神が磨耗する。
鬱陶しいので狙撃主を割り出して仕留めようと追撃すれば、しかしすぐに援護を受けつつ後退して身を隠す。奴らは決して無理はしない。
戻ってきた静寂に、なんだやる気ないのかよと拍子抜けして気を緩めれば飛んでくる、別方向からの銃弾。
再び狙撃主を追撃する感染者の少女。
後退して身を隠す無数の
銃撃がナリを潜め、警戒心をオフにすれば飛んでくる銃弾。
その繰り返し。
しかもそれは人々の行き交う街中でもお構い無しなのだから、不要な被害を出すまいとする少女からしてみれば余計な神経も使う。
故に敵に狙われやすい路地裏を主に逃亡することを選んだ。
明らかに消極的な、こちらの疲労を狙うだけが目的の、最大級にねちっこい戦略的な戦闘。
無理をせず、確実に少女を疲弊させるだけさせて動けなくなってから仕留めようとしている。
一対一なら楽勝だ。
一対十でも勝てる。
敵の練度次第では百人相手でも勝てる。
しかし今回の相手は一人一人が生半可な練度ではないし、その上こんなじわじわとなぶるような展開の仕方をされては容易に打ち勝つことなんてできやしない。
加えて体力も既に限界を越えている。
(こんなことなら最初に思いっきり全快で仕留め回っておけば良かった!)
一週間前はまだ奴らの作戦の全容を把握することはできず、なんかちょいちょい手ー出してくるなー、と首を捻りながらぼんやり思っていただけだった。
それが失敗だった。
今思えばそう油断させることも作戦の内だったのだろう。
実にあの女らしいと、
果たしてこれがあと何日続くのか。
それまであの少年は生きているのか。
いや、それよりも今現在、あの少年はまだ生きているのか。
体力の残りを意識すれば、とっくに限界は超えているという現実を突きつけられる。
だから疲労は意識しないことにしているが、そんな精神論、いつまでも通用はしない。遅かれ早かれ、自分の意思とは無関係に身体が動かなくなるときが来る。
状況は絶望的。
(でも、そのときまでは!)
少女は諦めるつもりはなかった。
まだ身体が動く内は逆転の機を窺い、あの少年の死体をこの眼で見るまでは、助けに行くのを放棄するつもりはない。
そんな諦めの悪い少女の前方数十メートルに、廃墟かと
ぱっと見た限りでは五階建てで、ちょっとした店や事務所などのテナントが入るような、それほど大きくないビルだ。外壁の塗装は大部分が剥がれ落ち、残っている部分もくすんで、元はどんな塗装が施されていたのかも判然としない。
照明は
(あそこで身を隠しながら迎え撃つか――)
そうは思うも、これもこの一週間で何度も取ったことのある戦法でもあり、間取りにより隠れやすさ、戦いやすさなどの優劣があるのも事実だ。それは入ってみなければわからない。本当に人がいないのかどうかも、出たとこ勝負になる。
(お願いだからアタリで頼むよ……!)
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