第23話悟るとは

悟る…これは「仏教用語」でしょうか。それとも「悟ってしまった…」とも使われる様に何事かの「真理」をついた事でしょうか。


今回は宗教の側に立った悟りの昔話です。



昔の話にこんなものが伝わっています。 


ある老婆が若くて見所があると思った僧侶の世話をした。

庵を与えて、食事の世話もした。そして悟る為の修行に専念して貰う事にした。


それから三年経った。

(そろそろ仕上がったろう)

老婆はそう思い、僧侶の庵に酒などの馳走を持たせた色っぽい女性を向かわせた。そして女性に庵に泊まり僧侶を誘惑する様に頼んだ。

女性はそれを受けて、僧侶に酌などをしながらしなだれ掛かった。そして僧侶を誘惑した。

自身を誘惑する女性に僧侶は。

「数年の修行のお陰でこの身体は木石の様になり何事にも欲が無くなった。ですから貴方の誘惑は私には通じません」

翌日女性からその話を聞いた老婆は。


怒りました。


そして僧侶を肌着のみで庵から追い出してしまった。

老婆は言った。

「衆生を救おうと悟るなら衆生の苦しみもまた知らねばならない…だのにあの僧侶は己ばかりの修養で衆生を救おうとしなかった…ワシの見込み違いよ…」

僧侶は己の悟りに囚われて、他人の為の悟りを開かなかった…と言う話です。




それに近いか分かりませんが、有名な一休禅師のお話ですと。

老いて益々盛んで盲目の女性を側に連れて、僧侶の禁忌とされた「女犯」を犯します。奇抜な格好をして「何故してはならないのか」と人々に問いまわります。

一休禅師はある種の反面教師として己の「悟り」を人々に問うたのかもしれません。

末期の言葉も。


「死にとうない…」


で、あったとも伝わります。何だか私達に近しく感じますね。


僧侶の「修行」と「死」はとても近いのです。

五穀断ち等は五穀の穀物をとらない修行の一環です。うろ覚えですが、米、麦、粟、稗、黍、だったかと。

更に肉食妻帯堕落と言われる様に肉食も進んではしません。ですから五穀断ちでしたら木の実や野菜のみの僧侶も居ます。それでは人は死んでしまいます。

誤解はあるかもしれませんが、托鉢でお肉を出されても僧侶は断りません。何せ家業が農業の家ばかりではなく、漁師や猟師、果ては乞食迄が自分の糧を托鉢に分けます。

それを「金にしてくれ」「肉食できんのだ」等とは言えません。

仏陀も托鉢で肉食をしています。更に仏陀は托鉢の「きのこ」が毒であったがそれを食べて中毒で亡くなった…ともされます。托鉢の品は基本断らず、食べます。

「衣鉢を継ぐ」という言葉があります。亡くなった先達の持ち物を受け継ぐ事です。ですが財産は「衣」と托鉢用の「鉢」のみ。衣服も「糞掃衣」とされる汗や垢、糞尿にもまみれた布切れ。仏陀の時代僧侶は財産など持たないので托鉢で得るのはその日の糧のみです。

例外的に「仏舎利」とされる仏陀の遺骸や高僧の遺骸は髪の毛や小指の骨一本でも取り合いだったそうですが…蛇足ですね…


ですが唯一受け取れない肉食は「貴方の為」に「殺しました」と言う肉です。

スーパー等で売っている肉は不特定多数に対する物ですが、「貴方の為」と言う物は駄目なのです。

自分がその人に「殺しの罪」を犯させてしまった事になるので…

綺麗事ですが駄目なのです。



今でも仏教は孤独や戒律と共に修行を行っています。



仏教以外では。


「ユダヤ人の隠者」と言う話があります。


もしユダヤ人が、世俗から一切身を切り離し、十年間勉強だけしたら…十年後には神に生贄を捧げて許しを乞わなければならないだろう。

というのは、いかに立派な勉強をしても、社会から自らを切り離す事は罪とされるからだそう。だからあまりユダヤには隠者はいない。と言うお話。



ユダヤの人々は世俗から離れる事を「悟る」方法とはしなかったようですね。



更には人々は職業や人種で「上下」を勝手に決めて、意図せずとも「差別」をしています。


黒色、黄色、褐色、白色…肌色で色々決めて…○○人は卑しい仕事にしかつかせない。白色の肌から透ける青い血潮こそが「ノーブルブルー」であり「貴種」である。 

「貴種」の世界を脅かすのは黄色だとして「黄禍論」を唱え、人種の滅亡をはかったり…


我々はそれ程までに争わねばならないのでしょうか?


世界には沢山の「宗教」があるのです。「悟り」は置いておいても、人々は救われるべきなのではと思います…難しいですね。



こんな話もあります。


永遠の生命を与えられる者


高位の聖職者がマーケットにやって来て言った。

「このマーケットには永遠の生命を約束するに相応しい者がいる」

だがマーケットの者達はそんな者はここには居ないと言った。

その時、二人が聖職者の前に進み出た。

「この者達こそ立派な善人だ。永遠の生命が与えられても良い筈だ」

聖職者は言った。

周りの者が「貴方方の商売は一体何ですか?」と聞いた。

すると二人は「我々は道化師です。寂しい人には笑いを、争ってる人々には平和を与えます」そう答えた。



これ等は「職業」にピントが合っている様ですが…皆様は「道化師」を職業の上下なら上に置きますか?


この話の流れですと「道化師」は下等とされている様ですね。

近代でも道化師、「クラウン」は上等とはされていないと思います。逆にパニックホラーの「悪役」であったりもしますよね?

ですが今も昔も「クラウン」は「芸能」ではかなりの修練が必要ともされています。

それはそうです。「我」を出してはならず、人々を「笑顔」にする。クラウンが「自分は悲しい」としても人々に笑顔を届ける…ですから現在の道化師である「クラウン」は泣き顔のメイクもあるのだとか。クラウンは「精神的修養」の必須な芸能と言えるでしょう… 



この話では聖職者は職業よりもその職業に対して「真摯に取り組む」二人こそが相応しいと言ったのだと思います。

職業のみでしたらマーケットは「道化師」だらけになったでしょう。



はい。人は人種、職業、様々な物では測れないのです。


こんな故事も有ります。


もし貴方が失恋をしてこの世を悲観したとしても「僧侶」にはなるなよ。

もし貴女が不貞を働いたからと言って軽々に「尼」にはなるなよ。


もし軽々しく「僧侶」になったらば。誰も彼も僧侶となり、失恋から回復したならばまた女性を求めて僧の修行場を破裂させてしまう。


もし軽々に「尼」になったならば。不貞の虫が首をもたげて他の尼僧や僧侶に不義を働くだろう。


だから人々よ。少しばかり挫けたりと言って「僧」の道を妨げてはならない…


とあります。


そうですよね。

人生に「悲観」はすぐにすると思いますが。だからと言って僧侶になり、悩みから解き放たれた等となったらば「衆生への悟り」を求める人々の足枷にしかならない…


この故事も昔から人々はそうやって「逃避」していたと如実に語っています。








ここからは多分にタブーに触れ、私見、私怨が含まれます。「悟り」とは離れる話になりますので、ご気分の悪い方は読まれない事をお勧めします。












「憚らず」に申しましょう。






日本には大別して「仏教」と「神道」とがあると思います。キリスト教等は今は置いておきます。


明治になると「廃仏毀釈」で寺院が様々を政府に取り上げられ仏教の立場が風前の灯になります。

かわって神道が「国家神道」とされて高い官職と寺院からとった財産とで廃仏毀釈の先頭に。


戦国時代の話ですと。

異論は沢山あると思いますが私が「憚らずに」思案しますに…

後世、仏教は表立って批判されています。一向一揆が根強く天下人の邪魔をしたと。

比叡山焼き討ち。これも悪評ですか。信長公が行う前にも二度程比叡山焼き討ちは起こっています。

この時代は最早「大名」を凌ぐ権勢を仏教世界は持っていたのでしょう。


では「神道」は。

関係ないのか。清廉潔白か?


違います。神道の神社の神職は大抵が血縁で構成されていて「領地」も持っていて「立派な大名」そのものでした。

武田信玄公とも争った諏訪家も在地大名の神職ですし、諏訪家を吸収する為に諏訪家神職から「姫」(当時仏教は一部を除き妻を持てない)を信玄公の側室として娶り、諏訪四郎勝頼が産まれ、九州でも宗像三女神を祀る宗像家、阿蘇山を神体とした阿蘇大宮司家も神職でありながら「立派な大名」でした。


神道我関せずではなく積極的に活動しておりました。ですが宗像家の滅び等は多少散見されますが「神道」を後世歴史家は殆ど責めはしていないかと。いや、責めれない理由があるのでしょう。


江戸時代には「寺」に人別帖や戸籍を管理させるのに仏教を活用しましたが、神道はそれでも幕府から寺より「格上」として朝廷からの「官位」を下手な大名より高いものを下され保持して居たようです。


そこで明治になり「国家神道」となりますと「帝」を頂点として各地に地盤を張り巡らし寺勢力を追い出しにかかります。帝は「天孫降臨の現人神」であり神道の縁故の者は昔から現人神に従った「神の末」でありまた我々も「現人神」で「貴種」である。

近しい話題ですと平成の皇室から有名な大社への輿入れがあり、「古事記」以来の大和解とされましたよね。未だに貴種とされた血は濃いのです。

更には仏教にも働きかけ、帝を「大元帥」とした近代軍隊を作り上げます。

大元帥とは仏教に「大元帥明王」が存在し、仏教の立場からも「帝」を頂点とした宗教基盤に取り込みました。幸い「帝」は賢明な方々であり政府や宗教が何をしたいのか理解し、昭和の帝は初期から「戦争不可」を申し渡していたそうです。


それと仏教風前の灯の古い記憶ですと、京都の五重塔が「5円」で売られていたとか…

仏教は江戸幕府と共に悪評を加えられ消えそうになっておりました。


更には大東亜戦争時に金属供出を求められ、「本尊」や「鐘」も奪われました。

もはや末寺は枯れゆくのみ。


その時代の神道については詳しくないので憶測や想像では語れませんが、何故か寺院に対する仕打ちばかりが残っています。


廃仏毀釈となっていても「おらの村の寺」である事には変わりないのかもしれないですね。

私の地方ですと、村々には在地の寺と分社の神社が必ずありました。

そして必ず寺は神社を憚り「北」の方角になければならなかった…

ですが大抵小さい村落の神社は分社ですから神職の常駐はありません。ですから困り事は在地に根を下ろした僧侶の耳に入ったのでしょう。



ですが、今でも慣例として町内会費には「神社への布施」が堂々と記載されています。



ですが昔から新年の「初詣」はあったでしょう。初詣は大抵が「神社」ですよね。

私が私怨から捏ね回しているだけで…世は事もなし…なのでしょう。



ですが現在でもここまで配慮されていても私個人としましては…

「神道」とはなんぞや?

と感じるのです。

勿論勉強不足。神道に足を向けるとは非国民。

神道は「国家鎮護」してるのだから日本の誇りである。

勿論蔵書には日本の神々の注釈書もありますし、古事記もありますが、何処にも「神々」の記載はあれど、それに仕える「神職」が「偉い」とは書かれていなかったので…




先程から職業人種に貴賎なしとも申しますが…どうにも「貴種」を名乗る方々は絶えなく溢れています。

ですが私如きは貴種よりも自分に近しい人に共感しやすいです。

共に田畑で汗水流して、時には教育の場として寺子屋をひらいた僧侶に肩入れしてしまうのかもしれません。



私怨でしかありませんが。



悲しい事に。

関わりのあった神社の神職の方々は「神」の威勢を借り、私の様な弱い者からも全てを「奪って」いきました。



「生者と死者の尊厳」…


「生きる希望」さえも…


何もかも「踏み躙ります」



私怨ゆえ「憚らずに」申しました。



少し変わりまして。


日本でも「世界一貧しい大統領」と言われたホセ・ムヒカ氏は。


「私は世界のあらゆる宗教を尊重します。それは死にゆく人々に安らぎを与えるから」

そう申されました。

ホセ・ムヒカ氏は革命闘士として国を憂いて「革命」に身を投じ、政府に投獄されたり時には犯罪も犯しました。

言うなれば「勝てば官軍」であり、勝ったので気がついたら大統領…と言う。

ですが彼は大統領となっても世間一般的な「富めるもの」とはなりませんでした。

恐らく自身が「悪人、犯罪者」である事を自覚し、徹頭徹尾富裕層ではなく極貧層に寄り添いました。

国営で家を建てて学校も増やしました。 

大統領任期中、毎月の報酬の七割を極貧層の支援に回しました。警備厳重な大統領官邸には住まず、自身の古家から運転手もつけずに自分で運転して国会に通いました。


仏教には「悪人正機」と言う物があります。悪人こそが「極楽往生」の資格があるのだと。

誤解されやすいですが、それは「犯罪者」が優先的に極楽往生と言うのとは違います。

自身が「善人」と言う人程手に負えない者は居ません。善人は己の行いを後悔せず、自分は必ず善をなしていると思いがちですから… 

悪人が己を悪人と認め、改心する。改める。その心根こそが極楽往生の「種」なのでしょう。

ですが安楽に考え、悪事をしても「懺悔」すれば極楽…ではありません。

昔の僧侶も「薬があるからと言って毒を好むなかれ」と言っています。己の悪と格闘し続けるのが「悟り」なのでしょう。


そう言う意味ではホセ・ムヒカ氏は仲間が資金を出し合ってくれた中古車にヒッチハイカーを乗せるし、公務以外では畑を耕し、子供時代からの切り花栽培を続けています。

彼は悪人正機…だと思います。





出来うるなら私の様に奪われず、「差別」なき世の中となる事を。

お目汚し致しました。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る