ふたりは部屋のドアが

 ふたりは部屋のドアが並んだ二階の通路を歩き、203号室の前まできた。

「鍵ちょうだい」

 上に向けた掌を孝士に突き出し、れのんが言う。孝士は言われるまま、折戸から預かったアパートの合鍵を彼女へ渡した。

 れのんが203号室の鍵を開けるのを孝士は彼女の肩越しに見守る。すると、ふいにれのんが振り返り、

「あぶなくなったら逃げてね」

「えっ、あの……そんなに危険なの?」

「まあね。前の人とか、みんなそれで辞めちゃったし」

 ごくりと固唾をのむ孝士。みんなということは、自分の前にれのんの除霊であぶない目に遭った前任者が、何人もいるのか。

「あー、ならぼく、外で待ってようかな……」

「いいよ。じゃあこれ持ってて」

 言って、れのんが肩から提げていたスクールバッグを孝士に渡した。そして彼女は部屋のドアを開けると、孝士と対照的にまるで気後れした様子もなくなかへと姿を消す。孝士は戸口に留まり、ドアの陰に隠れて室内の様子を窺った。

 入ってすぐは台所だった。右手にガスコンロと流し台がある。少し進んだ左手には引き戸があり、おそらくトイレか風呂場。もしくは両方。台所と仕切られた奥にもまだ一室あるため、間取りは1Kとなる。

 住人の荷物らしいものはまったく見あたらず、生活感はない。土足で室内に踏み入ったれのんは奥の八畳ほどの部屋まで歩いた。そこの窓はカーテンが閉ざされたままで、薄暗い。窓枠の上のカーテンレールから垂れさがる布の隙間より、細い光の筋が射し込んでいる。光の加減で空気中に小さな埃の粒子が輝き、舞っているのがわかった。

 部屋の外にいる孝士は、そこで妙なことに気づいた。

 なにか、音がするのだ。ラジオかテレビの音だろうか。いやちがう。音楽と、効果音? どこかで聞いたような──

 孝士はややためらったあと、意を決して自分も203号室のなかへと入った。どうにも音の正体が気になったのである。れのんがいる奥の部屋の手前まで、そろりそろりと進む。首をのばして室内を見た。すると、いた。幽霊だ。

 がらんとした部屋の片隅に、テレビ台に載せた液晶テレビがあった。男性の幽霊はそのすぐ前で胡座をかき、背を丸めてじっと動かないでいる。テレビは電源が入っており、画面の発する光に照らされて幽霊がクラゲかガラス細工のように透けて見えた。なにかの番組を観ているわけではなさそうだ。テレビ画面には、中世ファンタジー風の鎧を身につけた人物がモンスターと戦う場面が映っている。

 テレビゲームだった。203号室の幽霊は、この薄暗い部屋でゲームに興じていたのだ。さっき孝士が耳にした音もこれである。以前、自分もかなり遊び倒した人気ゲームだったので、聞きおぼえがあったのだろう。

「最後通牒──」

 いきなり、れのんがぽつりと言った。

「いますぐ成仏するなら、それでよし。嫌だって言うなら、強制的に成仏させるよ。どっちがいい?」

 れのんはリボルバーを持ったほうの腕をだらりと下へ垂らし、反対の手を腰にあてて床に座る幽霊を見おろしている。高圧的な態度。

「誰だよ、おまえ?」

 れのんに背を向けている幽霊は彼女のほうを見もせず、ゲームをプレイしながらそう訊いてきた。

「霊界データバンクの地域巡回スタッフでーす」

「なんだそれ?」

「円島市と提携してる公共サービスの会社。あたし、そこに言われて悪い幽霊の取り締まりやってんの」

「悪い幽霊ってなんのことだよ、おれはゲームやってるだけだろうが」

「それで迷惑してる人がいるってこと。この世で公序良俗を乱すと警察が介入するところだけど、さすがに幽霊には実体がないからね。代わりに、あたしらみたいなのが出てくんの。知らなかった?」

 テレビに映るゲーム画面がポーズ状態となった。それまでほとんど動きのなかった幽霊が、後ろを振り返る。

 幽霊がゆっくりと腰をあげた。そして、猫背をした不健康そうな顔つきの彼は、うつろな目をれのんに向けて口を開いた。

「ふざけんなよ、成仏しろだあ? おれはなあ、生きているあいだにさんざん苦しんだあげく、この部屋で自殺したんだぞ。仕事も人間関係も、なにひとつうまくいかなかったよ。言ってみりゃ、社会の重圧に殺されたんだよ。だったらせめて──せめて、死んでからすきにやってもいいだろうが!」

 いきなり幽霊が声を荒げたと同時に、その身体がどす黒く変色した。髪の毛が逆立ち、強い憎しみをはらんだ鬼気迫る表情となる。ふわりと宙に浮いて苦しげに身をよじらせはじめたそれは、もはやただの幽霊ではない。世の中のものすべてを恨む、悪霊だ。

 目前で起こった怪異に、孝士は自分のステータスのSAN値がごそっと減った気がした。全身を悪寒が突き抜ける。まるで部屋の温度が急激にさがったかのようだ。声もなく、足がすくんで動くこともできず、孝士は横手の壁にすがるようにへばりついた。ちびらなかったのは幸いといえよう。

 一方、れのんはといえば、幽霊の変貌を目の当たりにしながら微塵も動じた様子はない。

「あっそ。だけど幽霊にそんな権利ないよ。いやなことから逃げるのは勝手だけどさ、生きてる人たちに迷惑かけるのやめたら?」

「まだ積んでるゲームがあるんだよ! こっちはカネ払ったんだぞ!」

 幽霊のその言葉を聞いて、れのんがあきれたように短く鼻を鳴らす。

 なるほど。この幽霊があの世へ逝かない理由がわかった。幽霊とは、総じて現世になにかしらの心残りがある故人の魂だ。いまの場合、積みゲーである。生前に溜め込んだ未プレイのゲームソフトを消化せずに死んでしまったため、その未練に縛られ霊界へ逝くことができないというわけだ。よく見ればゲーム機が設置してあるテレビ台の隣には、大量のゲームソフトが重ねて置いてあった。

「執着心こじらせた幽霊がいちばん厄介なのよねえ。自己中で、他人の言葉に耳を貸そうともしないし──」

 れのんがリボルバーの撃鉄を起こした。

「あたし、そういう身勝手がいっちばんきらい!」

 言うや、れのんはツーハンドホールドでコルト・パイソンを構えた。ほぼ同時にトリガーが絞られる。

 瞬間、暗い部屋に青白い閃光が起こった。通常の弾丸が発射されるときの銃声はなく、高い電圧の電気火花が散ったようなスパーク音が響く。

 強い光と大きな音におどろいた孝士は、思わずその場でしゃがみ込んだ。そして閉じていた目をふたたび開けると、部屋に悪霊の姿はない。そこにはれのんが立っているだけだった。

「あの……やったの? やっちゃったの?」

 孝士が不安げな声でれのんに訊ねる。すると彼女は小さく舌打ちして、

「だめ。逃げられた」

 れのんは足早に孝士の横を通り過ぎ、203号室の外へと出てゆく。

 ひとりになった孝士は呆然としながら無人の部屋を見渡した。そこではオゾン臭に似た異臭が漂っていた。おそらくれのんが発射した霊子力ビームのせいなのだろう。不思議だったのは、部屋のどこにも損傷したような箇所が見られないことだ。れのんが言ったとおり、彼女の拳銃は本物ではなかった。だが、さきほどの閃光と音からして、孝士にはあれがもっと不可思議で危険な代物に思えた。

 通路に出ると、れのんが202号室の鍵を開けようとしているところだった。傍らまできた孝士に気づいたれのんは、アパートの合鍵を彼に渡した。

「向こうと一階の部屋の鍵、全部開けてきて」

 と、201号室のほうをリボルバーの銃口で示しながられのん。どうやら彼女は、アパートの各部屋を虱潰しにして消えた幽霊を見つけ出す気のようだ。

「わ、わかった。でもあの幽霊、もうどっか別な場所に逃げちゃったんじゃないかな?」

「それはないよ。折戸っちがアパートの周りにお札を貼って、結界で囲ったはずだからね。現世じゃ幽霊は壁とかすり抜けてどこでもいけるけど、結界だけは通り抜けられないの。絶対にまだこのアパートのなかにいるはず」

 そういえば折戸が姿を消す前、結界をどうのこうの言っていたのを孝士は思い出した。

 あの人、後輩を差し置いて、自分がいちばん安全でラクな仕事やってんのかよ──

 さすがの孝士もこれにはあきれた。彼の口から、意識しないため息が漏れる。

「それで、もし幽霊がいたらどうすれば?」

「大声でも出してあたしに知らせて」

 れのんは言うと、少しだけ開けたドアの隙間より注意深くなかを確認してから、特殊部隊さながらの動きで202号室へと突入していった。

 いやでも覆盆子原さん、このようなときに単独行動は危険なのでは、と言いかけたが機を逸してしまった。孝士は仕方なく201号室の鍵を開けたのち、またあのあぶなっかしい階段で一階へと降りた。

 階段に近い101号室から、順に部屋の鍵を開けてゆく。念のため、ドアに耳をつけて物音がしないか確かめてから、そっと開けてなかの様子を窺った。

 最初の部屋にはなにもなかった。つぎの部屋もおなじ。

 そして、最後の103号室。

「なんだ。どこにもいないじゃないか……」

 孝士は空気がじめっとしている部屋のなかに踏み入ると、異常がないことに胸をなでおろした。

 103号室も当然ながら、ほかの部屋とは間取りが同一である。埃っぽく、カーテンを閉じたいまは窓からの採光がないため薄暗い。

 築ン十年のアパートの部屋は漆喰の壁で、実に味わいのある雰囲気だ。タイルを貼った流し台や痛んだ畳など、概ね古びてはいるが、トイレ付きのユニットバスだけはやけに新しかった。たぶんあとから改築したのだ。エアコンなしはきついものの、風呂があるのはありがたい。奥の室内を見渡しながら、これで家賃はいくらくらいだろう、などと暢気に考える孝士。

 誰かに見られている気配がしたのは、突然だった。

 悪寒。他人の指先で背中をつーっとなぞられたような感覚に、孝士はぞくりと身を震わせる。

「おまえら最高だな……もう少しで一本クリアできそうだったのに。よってたかって、おれの優雅なゲームライフを台無しかよ」

 声に振り返ると悪霊がいた。宙に浮く巨大な顔面。孝士はそれと、もろにご対面した。

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