「おーい、どしたあ?」

「おーい、どしたあ?」

 急に固まって動かなくなった孝士の目の前で、折戸がひらひらと手を振った。

 だが孝士からはなんの反応もなかった。彼はまるで彫像のようになって、ぴくりとも動かない。どうやらいま起こっている事態が理解できず、フリーズ状態に陥ったようだ。

 それを見た折戸は無精髭の生えた顎を指先で掻きながら、

「あり、話聞いてない? 簾頭鬼のおっさんから」

「簾頭鬼!? じゃあ、あれほんとだったんだ!!」

 ようやく孝士が言葉を発した。そのたまげた様子に折戸が声を立てて笑う。

「ハハ、わかる。おれも最初はそうだったし」

「てことは……そっちも死んでから向こうで勧誘されたんですか? あの、輪廻転生センターで」

「そゆこと」

 折戸は肯くとベッドの端に腰をおろした。

「いやまあ、まず信じらんねえよな。霊界なんてものがほんとにあってさ、幽霊を調査管理してる会社で働けって言われても」

「ですよねえ……」

 実際にそれを体験した孝士は、心の底よりそう思った。

「んで、ハリソンおまえ、どういう経緯であの世に逝っちまったのよ?」

「は、はりそん!?」

「ん? だって針村だろ、ハリソンじゃん」

 と、さもおかしそうに折戸。

 たしかに孝士は中学高校と親しい友人からハリソンというあだ名で呼ばれていたこともある。だが、いまここにいるふたりは会ってからまだ数分も経っていないのだ。なれなれしいにもほどがある。これが折戸の他人との距離感なのだろうか。チャラ男、おそるべしである。

 しかし戸惑う孝士をよそに、折戸はあくまでマイペースだった。彼は携えているショルダーバッグをごそごそと探り、内からたばこの箱を取り出した。

「なあ、喫っていい? いいよな?」

 折戸はパーラメントのボックスから一本抜くと、口にくわえてガスライターで火を点けた。最初の一服を深々と吸い込み、ぷかーっとふかしはじめる。

 孝士はあきれつつもベッドから腕をのばして病室の窓を開けた。そして立ち消えとなった先ほどまでの会話を思い出して、

「えっと、なんでしたっけ? そうだ、ぼくは事故です。昨夜、臼山町の外法壁であった崖崩れ、知りません?」

「はいはい。なんかニュースでやってたなあ」

「実はぼく、たまたまあの現場にいたんですけど、そこで生き埋めになって……」

「うは、きっちーなそれ。わりいけど、おれ生き埋めとかマジ勘弁。ぜってーいやだわ」

「そんなの誰だっていやですよ」

 まるで自分の不幸を茶化された気がして孝士は顔を歪めた。するとさすがに折戸も礼を失したと感じたのだろう。すぐにばつの悪そうな表情となり、

「ああっと、わりいわりい。でもまあ、崖崩れに巻き込まれるなんざ、ある意味かなりのレアケースじゃね?」

「そうかもしれませんけど、どうせなら逆のラッキーなレアケースに遭遇したかったですよ」

「いやいや、そりゃ無理ってもんだろ」

「どうしてです?」

「さすがに運命には逆らえねえって」

 と折戸。そこでふと、彼はなにかを思いついたような顔をした。

「おれが思うに、因果応報だなこりゃ。おそらくはハリソン、おまえいままでむちゃくちゃ自堕落に生きてきたんじゃねえの?」

 そう言われて孝士は言葉に詰まった。これまでの半生を思い返せば、自業自得といえる節がいくらでもある。では、それが原因であのようなひどい目に遭ったのか。

 冥府の主、いわゆる閻魔天は運命と死を司る神である。やはり閻魔様は、閻魔帳を片手にいつでも見ておられるのかもしれない。実際に霊界に逝ってきたいまの孝士なら、それも信じられた。みんなも気をつけよう。

 急に神妙な顔つきとなった孝士を見て、折戸が笑った。

「冗談、冗談だよ。だけど、今回ので溜まってた厄は全部落ちたろ。実際おまえ、そのあと生き返ったんだし。結局のとこ、おれらみたいなただの人間は、運命に従うしかないってことよ」

「運命ですか……そういや、簾頭鬼さんが言ってたな」

「なんて?」

「たしかぼくの死亡は、向こうの管理する因果から外れたところで起こったとかどうとか。なんにせよ、それで生き返ることになったみたいです。そのついでに、霊界データバンクの仕事をやってみないかって誘われたんですけど」

「へえ。んで、あっさり引き受けちまったわけかあ」

 折戸の言葉に孝士が肯く。そして、今度は逆に彼が折戸へと訊ねた。

「折戸さんのときは、どうだったんですか?」

「ああ、おれの場合、まあちょっとトラブルがあってな。生き返る条件として強制的に霊バンの仕事に回されたっつーか、そんな感じよ」

「霊バン……」

 霊界データバンクを略すとそうなるのだろう。この折戸という男、見た目も中身もチャラそうだが、孝士より霊界データバンクに詳しいのはたしかだ。口ぶりから、実際にその仕事に就いている者のこなれた感じが窺える。

「あのそれでぼく、これからどうしたらいいんでしょうか?」

「おう、それよそれ。おれ、そのことをハリソンに伝えにきたんだったわ」

 はたと思い出したように折戸が膝を叩いた。彼は携帯灰皿でたばこをもみ消すと、ショルダーバッグからぱんぱんに膨らんだ事務用ファイルを取り出した。

「これ、おまえの退職届な。とりあえず、署名してもらえっかな」

 折戸はファイルから一枚の書類を抜き取ると、ペンといっしょに孝士へと手渡した。

 そうだった。孝士はめまぐるしい出来事の連続ですっかり忘れていたが、いまの仕事を辞めて転職するのだから、こういった手続も必要なのだ。

 孝士はベッド脇のサイドテーブルを使い、言われたとおりに雛形のような文面が記された退職届の署名欄へ名前を書いた。折戸はそれを受け取り確認すると、元のファイルに収めた。そうしてから、彼は顔をしかめて宙を見あげると、

「あとなんだっけ、社会保障とかの手続もあんだよなあ。いやあ、忙しいのなんの。ま、そのへんはおれがやっとくから。ちなみに、おれのときは支社長が手続やってくれたのよ。──ああ、支社長って、おれの上司ね。中田支社長」

 支社長か。では、たぶん自分の上役にもなる人なのだと孝士は思った。そして支社があるのなら当然、本社もあるということだ。全国展開しているところからすれば、霊界データバンクは意外と大きな会社のようだ。

 そこでふと、孝士の心にあった不安の種が芽を出した。ろくに社会経験のない自分が、そんな会社でやっていけるのだろうか。考えてみれば、自分は霊界データバンクのことをまったく知らないのだ。研修とかあるのかな。もしかしてきついノルマを課されて、成績なんかもばーんと貼り出されるのかもしれない。ああ、そうだ思い出した。以前にちょろっとやった営業の仕事は、それがいやで辞めたんだった。そりゃそうだろう。多忙で薄給、そのうえ成果をあげられない者は実務的なサポートも受けられずに、ただ白い目で見られる。そんな非人道的な会社からは逃げ出して当然だ。いま顧みれば、やけに社員の出入りが激しいところだった。いや、待てよ。てことは、霊界データバンクもそうなのか。未経験の人材を簡単に採用するのも、そういった理由があるからでは──

 妄想が先走るのは孝士の悪い癖である。ついでにいえば、彼は心の有り様がそのまま包み隠さず外に出てしまう。いまも、おもいっきり後悔している表情が顔に浮かんでいた。

 それを見て孝士の心情を見透かしたのだろう。折戸がにやにやしながら立ちあがる。そして彼は、いきなり孝士の両肩をがしっと手で摑んだ。

「おいおいハリソン、ここまできて逃げんのはなしだぜ」

「え、いやべつにそんな……」

「心配することねえって。うちの支社は小さいとこだし、ほらあれだよ、いわゆるアットホームな職場ってやつ? 仕事量も少ないから、きついことなんか全然ナッシングよ」

 と、猫なで声で折戸。だが、彼が言うとブラック企業の誘い文句のように聞こえるのはなぜだろう。説得力が微塵もない。さらに折戸は語を継いだ。

「それによお、霊バンと関わってる簾頭鬼っておっさん、あいつ人間の生き死にをどうとでもできるやべえ奴だぜ。土壇場でイモ引いて面目潰すようなマネしちゃ、さすがにまじいだろ。なにされるかわかんねえぞ」

 たしかにそうだ。孝士はあの世で出会った簾頭鬼の姿を頭に浮かべた。腰が低く温厚そうだったが、あれはまちがいなく地獄の鬼とか悪魔とか、そういった類いにちがいない。もしかして、自分は深く考えずに悪魔と契約を交わしてしまったのか。

「じ、じゃあ仮に、仮にですけどね。ぼくがこのお話を断ったりしたら、どうなるんです?」

「さあ、わかんねえけど、生き返ったのがチャラになって、また死んじゃうとか?」

 折戸はそう言って笑った。まるで他人事である。まあ実際そうだが。

 しかし当の孝士にとってはのっぴきならない事態といえよう。絶句した彼の顔が、すーっと青くなる。

「ありゃ、もうこんな時間か。定時とっくにすぎてんじゃんよ」

 ベッド脇のサイドテーブルにあった置き時計を見た折戸が、あわただしく帰り支度をはじめた。

 窓の外は陽が沈みかけて病室内も薄暗くなっていた。折戸はいそいそと出入口に向かい、ドアの近くにあった照明のスイッチを押した。天井の蛍光灯が点いて、ぱっと部屋が明るくなる。

「んじゃ、おれ帰るから。あとのことは、またあらためて連絡するわ。おつかれさ~ん」

 軽い調子で言うと折戸は敬礼して姿を消した。

 孝士はそれを無表情で見送った。頭のなかでぐるぐると渦巻く思考が処理できずに、またフリーズしている。

 やがて、いくら考えても無駄であると悟った孝士は、ベッドで横になり目を閉じた。

 そうだ、夢だ。これは悪い夢なんだ。つぎに目が覚めたら、きっと元の世界にもどっているにちがいないんだ。絶対、絶対にそうなんだ──

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