32、言葉を失う

 しばらくして、役所の職員を名乗る人間から、仕事用の連絡先を通じて電話があった。話は予想通り、母親に金銭的援助をしてほしいということだった。子である俺には扶養義務があるのだと。中途半端に名が売れているせいで、どうやら俺は小金持ちか何かと勘違いされているらしい。俺がいくら拒んでも、まともに取り合われることはなく、連絡はしつこく続いた。先方は俺を説き伏せようと必死だった。「お母さんを見捨てるんですか」という言葉は、まるで俺の罪過を告発するようだった。「また羽山さんの事務所に迷惑がかかることになってもいいんですか」と脅迫じみたことも言われた。

「世の中には、もっと本当に困っている人がたくさんいるんですよ。福祉の財源だって無限じゃないんです」

「そんなこと言われても、こっちにはこっちの生活があるんで」

 苛立ちが声音に滲む。何度同じ台詞を言ったかわからない。

「はっきり言わせていただきますけどね、本当は援助を受けなくてもいい人が必要以上の援助を受けていると、迷惑なんですよ。財源は我々の税金なんですよ? あなた一人のわがままで、国民全員に負担を強いることになるんですよ? いいんですか?」

「へえ、受給者のこと迷惑って思ってるんですか?」

 乾いた笑いが出た。では公金に育てられた俺は迷惑の権化か。

「そんなこと……」

「そっちの事情なんか知らねえっつってんだろ」

 俺は乱暴に受話器を置いた。間髪を入れず煙草に火をつける。学生じゃなくなってから、絵を描くための場所を失って、安い仕事場を借りるようになった。アパートと違って誰にとがめられることもなく煙草が吸えるのは良い。胸いっぱいに煙を吸い込んで、山になった吸い殻の上に、灰を落としていく。

 あの日以来、煙草の量がずるずると増えている。電話があった日は特に、一日に軽く二箱は消える。胸に澱んだものは、煙と一緒にじゃないと外に吐き出せない。いわばこの煙はため息の代わりだ。俺の肺はますます黒く濁っていく。

「荒れてるね」と木立は言った。絵の制作を見るのは相変わらず好きなようで、休みが合う日にはアトリエで絵の制作を見たがった。

「しつこく金の無心をされちゃな」

「……お母さんなんでしょ?」

 その言葉に少しだけ、責めるニュアンスがある。

「ない袖は振れないってやつだよ」

 あっという間に一本が灰に変わった。箱の中は空で、俺は灰皿の中から吸えるものを探す。

 相変わらずお利口さんな木立のことが、時々苛立つことがある。彼女の論理はどこまでも一般論で、まともで、だからこそ嫌になることがある。

「――ねえ、これからのこと、ちゃんと考えてる?」

 こういうのも。

「……なんだよ、急に」

「ほら、私たち、二人とも非正規でしょう? お母さんがそのことすごく気にしてて」

 木立は静かに手を組む。木立は資格職だったが、正規雇用の枠がなかったらしく、美術館には非正規雇用として勤めている。限られた正規雇用の枠には、いずれ退職することの多い女よりも、男の方が優先的に入れられる。やりたい仕事にこだわるなら、非正規に甘んじるしかなかった、と前に彼女は言っていた。なんのために大学にやったと思ってるのかと、親にはそれで随分と怒られたらしい。

「そんなの今はいいだろ」

 俺はシケモクを咥えたまま、強引に話を終わらせようとする。うんざりだった。どいつもこいつも、面倒ごとばかり持ち込みやがって。なんだかんだと親の言いなりな木立のことも理解し難い。

 苛立ちは画面にも否応なく現れる。筆をとって絵の具を混ぜる手にも。トゲにまみれた気持ちを、俺はどうにか紫煙で削ろうとする。



 ある日、家に帰るとドアノブにビニール袋が掛けられていた。中には缶詰がいくつか。いつか母親が渡してきたものと同じ。ごめんね、という細長い付箋がつけられている。開封しないままゴミ箱に放り込んだ。

 連日の電話と封書にはとうに嫌気が差していた。そのうち、母親が自殺未遂をしたという話も、職員の電話から知った。どうせ狂言自殺だろうと思った。「息子として心が痛まないんですか?」情に訴えて揺さぶろうとしてくるのは相変わらずで、俺は知ったことかとそれを跳ね除け続けた。

「そんな風に意地を張ってても仕方ないじゃん」と木立には諭された。「お前に何がわかるんだよ」という乱暴な言葉が口をついて出た。

 こちらが折れさえすれば、面倒ごとは終わる。そんなこと、とっくに気がついている。

 そのタイミングで教員採用の枠の話が来たのは、俺にとって都合がよかったのか、悪かったのか。カルチャーセンターの方の雇い主から、私立高校の正規採用の話が降りてきた。以前一度降ってきて断った話だ。

 引き受ければ今より待遇は良くなる。賃金も福利厚生も、後ろ盾のない今よりずっと安定する。経済的な面だけ見れば生活はずっと楽になるだろう。これからのこと、ちゃんと考えてる? 木立の声が頭に蘇った。待遇が良くなる代わりに、絵に使える時間は大幅に減る。眼前にある画家としてのキャリアは多くを捨てることになる。

 俺は揺れた。揺れて、見ないふりをし続けた。他人の痛みまで抱えきれるほど俺は強くはなれない。

 俺はタカみたいにはなれない。

 二十七歳。俺はしぶとく生きている。タカトは二十九。三十代を前に、結婚とか子どもとか、そういう社会的な圧力が少しずつ強くなってきつつある折。

 立川幸からタカトのもとに連絡があった。幸が第一子を産んでから、二年近く経っていた。ひとりで缶詰めになって子育てをしていたが、もう限界で、どうしたらいいかわからない。このままでは子どもを殺してしまいそうだと。そんな幸にタカトは結婚を進言した。俺は家族を知らないけれど、幸さんと一緒に、この子の保護者になることはできるからと。

 血も繋がっていない子どもの父親になったタカトは、大変そうな半面、すごく満足げだった。どうしてそんなことができるのかと訊いた時、「俺はね、救い主になりたいんだよ」と彼は言った。指を交差する例の祈りの形を作りながら。

「歌を歌っているのもそう。あのイエスみたいに、なるべくたくさんの人の救いになれたらいいなと思う。不遜だけどさ。迷った時は、あの人だったらどうするかって考えるようにしてる」

「ご立派だな」

「そんなじゃないよ。単なる罪滅ぼしだから」

 彼に罪という言葉はまるで似合わなかった。それから彼は、静かに語る。中学生の時、世界の無神経さが急に、救いがたいほど嫌になって、自殺を図ったことがあったこと。

「今考えると、特にこれと言った理由があったわけじゃないんだよな。どうして、と訊かれてもうまく説明できない。頭が痛いって嘘ついて、夜中に医務室の鍵をもらって、薬をひと瓶飲んで……。教会付属の施設だったからさ、職員さんには物凄く怒られた。――それから、憑かれたように音楽にのめりこんで」

 その時のことがずっと、しこりのように心に残っているのだと、彼は肩をそびやかす。

「だからって、血のつながってない子どもを引き取ろうと思えるかよ」

「言うほど高尚な気持ちじゃないよ。――家族、ってどんなんだろうと思ってさ」

 家族、にうんざりしていた俺には、目から鱗の言葉だった。赤ん坊の頃捨てられた彼には家族と呼べる人が一人もいない。「結局俺は、幸さんが助けを求めるようになれたってことが、その相手が俺だったってことが、すごくうれしかったんだよね」タカトはどこか恥ずかしそうに、誤魔化すみたいに言った。

 それから彼は息子の写真をこちらに見せてきた。陽介、という名前の二歳の子どもは、写真越しにもわかるほどタカトによく懐いていた。

 俺はとても、あんな風にはなれない。

 施設の出ということは同じはずなのに、俺とタカトはどうしてこうも違うのだろう。違う人間なのだから当たり前のことなのに、それがたまに、すごく苦しくなる時がある。俺とタカトでは人間としての出来が違う。

「十週目だって」と木立に言われて、ますますそれを確信した。

 つまるところ、俺は忘れていたのだった。すべての確率はゼロではないということ。セックスとは本来子どもをつくるためのものであること。

 まんまと動揺して言葉を失った俺に、木立は少しだけ悲しそうに笑った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る