31、乞う言葉
タカトの事務所には母親からの手紙がたびたび送られてきていた。俺に対する手紙。謝りたい。会いたい。悲哀と自己満足。手紙が届き続ける事務所の人間からは、その度に小言を受けた。
「親にとって子どもは何にも代えられない宝物なんだよ」「親子の縁は切れないんだから」「親孝行してあげなさい」
タカだけは「無理に相手にすることはないよ」と言ってくれたが、事務所からの忠告を無下にし続けては、仕事が来なくなる可能性すらある。身内のせいでこれ以上迷惑をかけ続けるのも気が引け、俺は重い腰を上げた。
これ以上、あんな風に手紙を送るのはよしてくれないか。そう言い告げるつもりだった。それ以上のかかわりも、持つ気はなかった。
電車に揺られる数駅が途方もなく長く感じた。地獄へ向かう道のように、一歩一歩が重い。
家族は呪縛だ。振り払おうとしてもまとわりついてくる鎖。
俺はそんなもの、とうに捨てた。捨てたはずだった。
――煩わしい。
十年と少し歳を重ねた母親は、俺の姿を見るなり、目をぱあっと見開いて、みるみる涙を溜めた。「知らない間に、こんなにおっきくなってたんやねえ」目じりに皺を寄せる。母親は俺の知っている姿よりもひとまわりもふたまわりも太っていた。そのくせ背中がやけに小さく感じた。老いた草食動物みたいだ。
生き別れた親子の感動の再開。なんて思っているのは母親だけで、俺の腹にはずっと、重たいものが居座っていた。俺と弟を捨て置いて死のうとして、あまつさえ死に損なった母親だ。施設に入ってから一度として面会に来なかった。弟の葬式にすら来なかった。家族、らしいあたたかな情なんてとっくに枯れている。
「あんたには本当に苦労をかけたね……慎ちゃんのことも。本当にどんなふうに謝ったらいいか」
弟の名前を久々に聞いて、喉奥がぎゅっと締まる。いいよ、そんなの。そう口にしながら、俺は母親とどんなふうに喋っていただろうか、と思う。
あごのやわらかな輪郭と、丸々とした目と鼻先。弟は母親似だったのだなと、今更になって気がついた。課題で自画像を描いた時、俺の顔のパーツはどこも尖っていたことを思い出す。俺は父親似なのだろうか。名前も、顔も知らないけれど。
「手紙のことだけど」
情なんてかけない。割り切って出した声は自分でも驚くほど冷たかった。
「もう、あんな風に送るのはやめてほしい。事務所にも迷惑かかってるから」
「そっか。……ごめんね、お母さん、どうしても久人に謝りたくて。あれしか手掛かりがなかったから……」
しゅん、と悲しげに目を伏せられるからばつが悪かった。これではまるで子どもをいじめているようだ。
この人はこんなに子どもじみた人だったか。
ふかふかした手が俺の手を取った。やわらかく、肉のついた手。水仕事のせいなのか、指先はあかぎれしてささくれている。
「最後にひとつだけ、わがままにつきあってくれんかね」
悲しげに、怯えたように、母親は俺を見上げ、微笑んだ。添えられた手がかすかに震えていた。ひとつにまとめられた髪にはいくつも白髪が混じっている。
この人は非力でどこまでも弱い。
だから俺は手を払えなかった。払うのは簡単だったはずなのに。
母親の最後のわがままとは、駅前にあるパン屋に行くことだった。「この辺りに来たらね、一度来てみたかったんよ」赤いビニールの屋根の下、戸をくぐると、ちりん、と涼しげな音が鳴った。アンティークな小物で彩られた店内は、薄暗い照明の下で、小麦とバターの濃いにおいに満ちていた。
こんがり焼けた丸パンの、バーントシェンナのような艶やかな茶色。オーブンの天板を持って、白い服を着た店員がトングでパンを並べていく。クロワッサン、あんぱん、うさぎの形をした菓子パン。ざらめをあしらったデニッシュ。少し低い位置にある台に、色も形も様々なパンが、所狭しと並べられている。
「わあ、かわいいねえ」
母親の口調は幼子に語りかけるようだ。この人の中で俺は、まだ十そこらの子どものままだった。
「久人はどれがいい?」
「俺はいい。昼食ったから」
嘘だった。そっかぁ、と頷いた母親の顔は見ないようにしていた。陶器でできたウサギの人形がじっとこちらを見ていた。
奥まったところに飲食のできるテーブルがいくつかあった。四角いトレイの上に、パンと、紙カップのコーヒーがふたつ並ぶ。母親の丸い爪がやわらかいパンを裂いていく。デニッシュ生地は簡単にぼろぼろと剥がれて零れていく。
「大人になった久人と、こんな風に話せるなんて思わんかったわ。あんたがあんなに立派な画家先生になっとるとはねえ」
あ、おいしい。満足そうにパンを頬張りながら、母親が目を細める。俺は黒い汁だけを腹の中に飲み下す。
「お母さんは、許されなくても仕方のないことをしたから。もう二度と口もきいてもらえないもんだと思っとったんよ。……あんたは優しいね」
なんて狡い言い分なのだろうと思った。関係のないタカトの事務所を巻き込んで、無視するにできない状況に持ち込んでおいて。都合のいい時だけ自己陶酔の道具にするのか。
胸の内にざらざらと煮え立つ感情を、だけど俺は、ぶつけることができずにいる。今子どもじみた癇癪を起して、母親が、俺が、周囲からどう見られるか。それがわからないほど子どもではなくなっていた。惨めさが俺を縛っている。
母親はそれから、ぽつぽつと近況を話す。しばらくは生活保護を受けていたものの、ケースワーカーの力を借り、今は保護費を減らしながら週に二日、工場で働いているらしい。「これね、お母さんとこで作ってるんよ」と言って、母親は蟹の缶詰を俺の手に押し付けてきた。「あん時は蟹なんてとても食べれんかったねえ」と、どこか懐かしむように。
「それでね、」
それから母親は、申し訳なさそうに切り出す。俺の存在を知った役所のほうから、可能なら息子である俺に、経済的な援助を受けるよう言われていること。
手紙から滲むあの必死さはこれだったのか。自己陶酔のための道具の方がまだマシだった。軽率に応じた自分を呪った。あのまま無視し続けていれば、こんな面倒ごとに巻き込まれることもなかった。
「俺だってさほど余裕があるわけじゃない」
膝の揺れを手で抑えようとする。生活費と家賃と年金、奨学金の返済、その上母親に援助なんて今の収入では到底無理だ。
「うん。それはね、お母さんも、わかってるつもりなんだけど……役所の人がね、せめて一度話してみてほしいって。親子なんだからわかってくれますって」
「親子だろうが無理なもんは無理だよ」
席を立った俺の腕に、母親が縋りついてくる。
「久人、待って、違うんだよ、お母さんは……」
「あんたのことはもう母親なんて思ってない」
時間が凍った。朗らかな店内のBGMを除いて。
俺は力任せに手を振りほどき、店を後にする。母親の嗚咽にも聞こえないふりを貫いた。「ちょっとあなた、それはないんじゃないの?」と肩を掴んできた中年女がいたが、かまわず手を払った。ずんずんと足を進める。「今時の若い人って」「あんまりだわ」詰る声。「大丈夫ですか?」「気にすることないわよ」母親を慰める声。乱暴に扉を閉め、ベルがけたたましく音を立てる。
やはり母親になど会わなければよかった。
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