26、言葉の代わり

 復帰した永野はブランクを感じさせないほど図抜けていた。タカトは道を自ら切り開きながら、世界と闘うための歌を紡ぎ続けた。俺は浮かんだり沈んだりを繰り返しながら、不安から無意識に一度成功した方法に固執して、それを教授にまんまと見破られるような馬鹿なことばかりしていた。

 画家として生計を立てることへの不安は、課題を与えられるたびにつのっていった。才能への不安に駆られるがまま、立ち寄った本屋で教員採用試験の問題集を買ったが、開きもしないまま埃をかぶっていった。

 羽山タカトからの仕事は、評価のプレッシャーがないだけ楽だった。曲を聴いて、連想された視覚的イメージを形にする。何を描いてもタカトは嬉しそうにしていた。俺の解釈が絵になるのが楽しいのだという。「俺はヒサの一番のファンだから」と自称して、描いた絵を見れば必ず、俺が一番こだわった部分を掬いあげた。彼は優秀な鑑賞者だった。怪訝なほど優しい言葉しか吐かなかった。その心地よさが怖かった。俺にはこのぬるい温度だけで十分なのではないかと思えた。自分の内側と才能のなさに向かい続けることに疲れていた。俺の絵は誰かを殺すには穏便すぎる。俺には永野のような執念も、タカトのような高邁な意志もなかった。教員になる傍らで、画家としては可能なぶんだけ仕事をする。それが一番安牌であるように思えた。教員になれば育英会の奨学金は返済が免除される。教師、という人種が何より苦手だった自分が結局そこに行きつくなんて、タチの悪い冗談みたいだった。

 ニ十世紀の終わりには世界が終わると誰かが言った。熱に浮かされたような好景気も泡のようにはじけ、ニュースではどこかの国で行われている戦争ばかり映った。俺の生はすでに滅亡に向かう余生のようだった。

 三年生の夏のはじめ、ひばりが消えた。何の前触れもなく。嫌気が差すような蒸し暑さばかりが続いていた日の最中。毎日のようにあった来訪が途切れて、そのままだった。前日、面白半分で彼女が持ってきたピアッサーだけがその場に残されていた。彼女には自己破壊的にピアスを開ける癖があった。痛くないのか、というようなことを尋ねた時の、「興味があるなら開けてあげよっか」という口約束は、そのまま反故になった。俺の耳たぶは無傷のまま、俺はタカトから依頼された絵に向かっていた。

 そのうち帰ってくるだろうと思っていたが、一週間経っても、二週間経っても、ひばりは戻ってくる気配がなかった。もう三年近く一緒にいるのに、居所の心当たりはおろか、俺は連絡先すら知らない。ふらりと消えたらそのまま連絡さえできなくなるのだと、俺たちの関係性の希薄さにいまさら気がつく。なぜだか不意に、母親が消えた時のことを思い出して、憂鬱になる。

 そんな中、一か月後に控えた個展の打ち合わせのために、タカトが家に来た。アパートのドアを開けた途端、彼は部屋の足の踏み場のなさに驚いていた。「すごい部屋だな」と苦笑。足元には俺の画材や服だけでなく、ひばりが残していった服や雑貨の類もあちこち散らばっていた。カーラー、マニキュア、化粧のときに前髪を止めるクリップ。持ち主をなくした雑多なものたち。

 服とものをかきわけ、俺は座布団を敷けるだけの空間を作る。タカトはそこに躊躇いがちに座って、「ここ暑くない?」と首元を仰いだ。エアコンどころか扇風機もない部屋は、猛暑に蒸されてイカれた暑さになっていた。窓からは絶えず埃くさい空気が入ってきては、電車が通るたびに細かに揺れる。

 お土産、とタカトが冷えたサイダーを差し出してくる。まとわりつく水滴が買ってからの時間を思わせる。俺は短く礼を言って、ペットボトルを受け取った。

 個展を提案したのはタカトだった。来年には卒業制作も教育実習も採用試験もあってそれどころではない。学生のうちにやるならこのタイミングしかないだろう。彼が俺を目にかけることになった絵――『言葉』という大判の絵だ――は、実際に見て初めて本当のすごさがわかる、あれは生で見られるべき絵だと彼は熱弁した。画家としての仕事をもらえることは、気後れもあったが、素直に喜ばしい。

 ――絵は続けてほしいな。画廊とか見に行きたいし。

 不意に透明な声が蘇って、サイダーで強引に喉奥に流した。あんなの口約束もいいところだ。俺のことなんてとっくに忘れているはずだ。きっと。

 雑多な打ち合わせを終えて、ぬるびた静寂が部屋に漂う。「何これ、ピアッサー?」小さな卓の上に置かれたそれを、タカトが目ざとく見つけた。「ヒサ、ピアス開けるの?」

「あー、」どう説明したものか。俺は軽く頭を掻く。「買ったけどやり方わかんなくて放置してた」

「なんだよそれ」肩をすくめて笑うタカト。「なあ、あけてくんない」と言うと、きょとんと目を丸くした。

 自己破壊。自暴自棄。自分の身体をやたらと粗末にしたがったひばりの気持ちは、彼女が眼前から消えた今になって、痛いほど身にしみる。

「えー俺があ?」

 タカトは冗談めかしながらも戸惑う。俺は髪をかき上げ、ん、と耳を差し出す。

「ったく」

 まんざらでもなさそうなのが可笑しい。べりべりと包装をはがして、タカトがこちらに手を伸ばしてくる。耳のそばに手が添えられる。ぐっと顎をあげた体制。「どの辺に開ける?」「どこでもいい」「なんだよそれ」誤魔化すような会話。じっとりと湿った剥き出しの首。自分がひどく無防備な気がしてくる。俺は痛みをやり過ごすためにぎゅっと目を閉じる。

 沈黙。

 耳に冷たい感触が当たったまま、時間も空間も静止する。

「……まだ?」

「じゃ、あけるぞ」

 そう言って再び、焦れるような沈黙。眉間にぐっと力がこもる。どうせ痛みがあるなら早く終わってほしい。まだ痛みは訪れない。

「……おい」

 遊んでいるな? 薄く目を開ける。タカトはふふっと小さく笑って、今度こそ開けるぞ、と言う。そしてまた、静止。

 うるさい蝉の声。電車が通って部屋がかすかに揺れる。おいタカ、と声を出そうとしたとき、がしゃん、と機械じみた大仰な音と、電流の走ったような鋭い衝撃があった。

「いっっって」

 じぃんと痺れるような痛みと熱。金属に貫かれたのだ、とはっきりわかる痛みだった。痛みはずるずると尾を引く。一瞬で済むだなんて大嘘だ。

「注射される子どもみたいだな」「んだこら」「何キレてんのさ」「痛えんだよクソ」

「そっちがあけろって言ったんだろ」

 へらへらと柔らかく笑うタカト。腫れているのか、耳たぶが熱を持っている。俺がへそを曲げたと見たのか、反対側はすんなりとあけられた。ばちん、と貫く衝撃にはやっぱり慣れない。しばらく耳はじりじりと熱をもったままで、時折疼くように痛かった。冷たいタオルを当てながら、この痛みが別のところの痛みを引き受けてくれたような気がしていた。


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