22、言葉に詰まる
いつの間にかニ十歳になっていた。
身体だけは何もしなくても歳をとる。目の前の一日をやり過ごし続けていたら、精神的なものは何一つ変わらないまま、気づくと大人と呼ばれるものになっていた。
消耗品を補充しに出かけた画材屋で、久しぶりに懐かしい顔を見た。ひょろりと高い背丈は、店の中で随分と窮屈そうだった。そいつは筆先の感触を指で確かめながら、相変わらず、虚空を孕んだ目をしている。――永野だ。
部屋から出られないんじゃなかったのか。素知らぬ顔ですれ違おうとしたら、「随分変わったね」と声をかけられた。「ますます不良だ」
「……お前は変わってないな」
「そうかもね」
少し話さない? と言われた。怖いくらいに柔和な笑顔で。彼が何を考えているのか。今の彼の状態。色々と測りかねていた俺は、永野の申し出を受け入れた。
喫茶店に入った。狭く丸いテーブルに、真っ黒なコーヒーが二つ並んだ。泥水と墨を混ぜたような味。ただ苦いだけの黒い液体を俺は淡々と嚥下する。コーヒーの美味しさは大人になってもわからないままだ。なのにブラックコーヒーばかり頼むのは、そういうものだ、という刷り込みになんとなく従っているからかもしれない。
「ひばりは好き?」
単刀直入な言い方だった。俺はぴしりと固まる。永野は息だけで笑って、優雅な所作でカップに口をつける。
「君はすごく素直だよね。感情がもろに顔に出る」
「……んだよ」
「褒めてるんだけど?」
絶対に嘘だ、と思う。
「やめた方がいいよ、あの子は。本当にろくでもないから」
聞きなれた台詞。兄から言われると重みも違うというものだ。そうかよ、と俺はコーヒーを啜る。
「ひばり、最近引っ越したんだ。父さんから髪掴まれて引きずり回されて、啖呵切って家出。まったく、かっこいいよね」
「知ってる」
「整形三昧に引っ越し。デートはいつも奢りなんでしょ? 羽振り良すぎると思わない? 居酒屋のバイトなんてそこまで儲からないのは君も知ってるでしょ」
ひばりの部屋には一度行ったことがある。俺のアパートよりも広々とした、瀟洒な造りの部屋だった。袋を被ったままの鞄や靴がそこかしこに置いてあった。腕時計も最近新しいものになっていた。少し、金の使い方が派手になったな、とは思っていた。世の中全体がそんな風だったから、たいして変だと思いもしなかった。
「あいつ、AV出てるよ」
コーヒーが気管に入った。「うわ、ベタな反応」と永野が面白がる。まじで、と咳の間でどうにか口にした。
「うん。ビデオがうちに送られて来るんだよ。会社にも送られたっていうから父さんへの嫌がらせなんだろうね。お前のせいで自分はこんな人間になりました、って」
愚痴をこぼしている時の兄妹は、びっくりするくらいによく似ている。
復讐。ひばりの行為がもしそうなのだとすれば、それはたぶん、俺に対しての復讐でもあったのだろう。思うように自分を愛してくれない恋人への報復。事実俺は、自分が思っている以上にショックを受けているらしい。そんな資格などまるでないとわかってはいても。
「父さんがそんなことで反省するような可愛い人間なわけないのにね。いいことは全部自分のおかげ、悪いことは全部お前のせい、って思考の人に悔い改めさせようなんて無理だよ。あの子はそれがわからないから馬鹿なんだ」
永野は淡々と吐き捨てる。
「仲悪いなお前ら」
「ひばりのことは別に嫌いなわけじゃないよ。昔から頭が足りない子だから、可哀そうだとは思うけど」
「へえ」
散々な言い様だ。なのに、怨嗟や怨念といった、強い負の感情はそこにない。それが逆に怖い、気がする。
「見てみる? ひばりの出てるやつ」
「嫌だよ」俺は即答する。
「だよね。普通は」
乾いた苦笑い。「父さんはさ」永野は一口ぶん、ゆっくりコーヒーを飲み下す。
「最初にビデオのパッケージ見た時は、めちゃくちゃに罵倒してゴミ箱に捨ててたんだよ。あいつは本当に救いようのない馬鹿だとかキチガイだとか言って。――でも夜トイレに起きたらさ、電気もついてないのにリビングが明るくて。何だろうって思って覗いたら、真っ白な裸がテレビに映ってんの。ニヤニヤしながらビデオ見てた。わざわざ音消して。ありえないでしょ」
そういう人のところで二十年歪められたんだよ僕たちは。そう口にした永野は何もかも諦めきったような顔をしていた。
「ろくでもないクズだって言われ続けてたからさ、自然とそうなってっちゃうんだと思う。ひばりは自分からどんどん破滅してくよ。君まで付き合ってあげる必要はない。性病とかなる前に別れなよ」
永野の顔には、自嘲的な笑みがこびりついていた。
人間は扱われたようになっていく。それは残酷なまでに不可逆だ。良くも悪くも、言葉はそれだけ人を強く縛る。
「……永野も、家出た方がいい」
「言うほど簡単じゃないよ」
「ひばりはやったろ」
「何? 僕も身体とか売ればいい?」
煮詰まったような声。「全員ができると思わないでよあんなこと」震える唇の下、顎のあたりに深く皺が寄る。真っ黒で大きな目からぼろぼろと涙が落ちる。
俺は焦って何か言葉を探そうとする。自分の無神経さがまたひとつ嫌になる。気の利いたことの一つでも言えればいいのに、こんな時に限って言葉が出てこない。クマの時と同じ。
ごめん、と嗚咽を殺しながら、永野が言った。ごめん最近涙腺おかしくてさ。本当にごめん。口元に当てられた指の間から、言葉が零れ落ちていく。
「よくなったと、思ってたんだけどなあ……」
一時は部屋から出られなかった永野は、ひばりに引っ張られて行った精神科で、抗鬱剤を処方されたらしい。父親から隠れて薬を飲んでいたら、徐々に、外に出られるようにはなってきていたそうだ。
「だったら、なおさら、身体が動くうちにどうにかしないと。本格的に壊れたら一生引きずるぞ」
「……知ったようなこと言ってさ」
「俺の母親はそれで働けなくなった」
永野はおずおずと顔を上げる。
いつかの寝物語。母親が、父親と姑からひどい仕打ちを受けていたことは聞いた。毎日のように、金食い虫だとか母親失格だとか、山のような罵詈雑言を浴びせれ、何時間も正座で説教をされた。どれだけ具合が悪くても休むことはできず、洋服一枚買うことも許されなかった。子どもを病院に連れて行ったときでさえ、病院代が幾らかかったと報告すると、「そんなに高いわけないやろうが」と叩かれた。次第に何も考えられなくなり、夜のたびに涙が止まらなくなった。それでも、自分が我慢をしていればいいのだと、母親はただ耐え忍んでいた。DVなんて言葉も助けてくれる場所もなかった。
俺と弟がまだほとんど赤ん坊だった時、泣きじゃくる俺をうるさいからと父親が蹴り飛ばし、鼻血が出て顔が腫れるまで殴った。その日の夜、皆が寝静まった後、母親は俺と弟を抱えて出て行った。子どもを殺されると思った一心のことだった、らしい。
関東へ移り住み、しばらくは女一人で必死に子どもを養った。学歴のない女でもできる仕事は限られており、肉体労働と育児と家事に追われ、休む暇もなかった。働くために保育園に子どもを預けても、「小さいうちから預けるなんて可哀そう」と、周囲から心無いことを言われるばかりだった。騙し騙し必死に働いていたら、身体と心が同時に壊れた。
ある日ぷつんと糸が切れ、それまで何の問題もなくできていた雑事が、何一つできなくなった。できることは部屋に横たわって眠ることだけ。部屋はどんどんゴミで埋まり、生活は瞬く間に行き詰った。生活保護と治療を受けられるようになると、日常生活はなんとか送れるようになったが、買い物に行って帰るだけで、どっしりと疲れて動けない。
俺の知っている母親は、週に三日は調子の悪い日があった。精神の不安定も、家を出て行く最後の日まで治ることがなかった。出来の悪い子どもだった俺と弟は、母親を追い詰めてばかりだった。
そして母親は、俺と弟を置いて、山中で自殺を図った。結果は失敗に終わったが。
「俺は永野に母親みたいになってほしくない」
大きな背を小さく丸めて、何かから身を守るみたいに、永野は身体を強張らせている。しゃくりあげて、窄めていた肩がかすかに跳ねた。中性的な永野は泣き顔さえどこか絵になる。
「できるならまた絵も描いてほしい。俺は永野の描く黒が好きだったから」
唇をぎゅっと結んだまま、永野はやけに素直に頷いた。目も鼻も真っ赤にしている永野を見ていたら、クリスマスにプレゼントを壊されて泣いていた弟や、卒業式の次の日のクマの切実な顔が、ちらりと頭によぎった。
俺たちはいつも、想像以上に、どこかギリギリを生きているのかもしれない。
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