21、言葉が落ちる
大学にさえ入れば、全て解決するのではないか、と思っていた。目の前にあった心配の種も、鬱々とした気持ちも、すべて晴れるのではないかと思っていた。
インフルエンザ以来ずっと関係が悪かったパチンコ屋はやめた。奨学金のおかげで、一応、食っていくだけの目先の金には困らなかったが、画材やら教材費やら、何かと出費はかさむ。キャンバスの大きさや素材といった自由度は上がったものの、課題をこなすために絵を描く生活はさほど変わらない。
俺には人を凌駕するような才能はない。後ろ盾も、特別な経験も、信念も、情熱も、知識も、信仰も、何もない。ただ絵が描けるというだけでは、美大では何も持っていないのと同じだ。受験絵画は捨てなさい。独自性を。あなたは何を表現したいの? 今までの二年間が否定され、教授は抽象的な言葉で作品に講釈を垂れる。
華々しい作品を作れる人間などいくらでもいた。自分一人だけが取り残されているような感覚は、初めて予備校に行った時のものによく似ていた。課題のための絵でも、自分のための絵でも、泥水を泳ぐような苦しさは変わらない。なんだかんだと締め切りギリギリまで課題が進まず、直前に焦って手を動かしたら、その焦りがもろに絵に現れる。そんなことばかりを繰り返す。美大受験、という大きな目標を通り過ぎてしまったとたん、どこを見ながら歩けばいいのかわからなくなった。
絵は俺のよすがなんじゃなかったのか。
好きなことをしているだけのはずなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
今にでも投げ出してしまいたいと思いながら、絵を描き続けなさい、という言葉だけが、どうにか俺を繋ぎとめている。
ある日のバイト中。ジョッキを運んでいたら、店のテレビに、見たことのある青年が映っていた。何かのオーディション番組。つるりとしたブラウン管の向こうに小生意気な笑みが映る。しばらくして、いつかの駅で何度も見た、路上ライブの青年だ、と気づく。
賞金をもらえたらどうしますか。そうですね、奨学金を返して、余ったら自分が育った施設に寄付しようかな。施設、という言葉だけ妙にはっきりと浮かび上がる。
右上には小さく、羽山タカト、の文字。
彼の名前を今更認識する。ギターの一音目が弾かれた瞬間。
空気が変わる。
叩いたり、弾いたり。爪でしゃらりと高い音を出したり。たった一本のギターが空間を呑み込む。彼が息を吸う。息が声になって喉を通った瞬間、審査員たちが一斉に表情を変えた。
圧倒的な何かには、引力がある。永野の使っていた黒みたいに。目や耳だけじゃなく意識ごと呑み込む、暴力的な波。喧騒にあふれていた店内が、いつの間にか皆一点を見つめたまま静かになっている。俺もジョッキを両手に持ったまま、画面に見入っていた。
彼が歌っている間、時間が止まっているような気がした。ギターも歌もひとつになって、画面越しにもこちらを食おうとしてくる。俺は言葉の一切を失う。殺されるとはこういうことだ。
この日、ひとりの天才の誕生を、画面越しに大勢の人間が見届ける。
歌が終わった瞬間、少し間を置いて、再び時間が動き出した。たちまちのうちに浮ついた喧騒が戻る。俺は慌ててジョッキを置くテーブルを探す。手に持った六つのジョッキはすっかり汗をかいて水を滴らせている。
彼が駅で歌っている時も、何か、の片鱗は見えていた。その時より洗練された音楽は、正真正銘の怪物に変わっていた。俺が停滞を繰り返している間に、あいつはあんなにも、前に進んでいたのか。悔しいはずなのに、彼の歌はなかなか耳の中から消えてくれなかった。
午前五時、閉店までのバイトを終え、締め作業をして、家に帰った。夜勤は時給が良いが体力の消耗も激しい。もう外はとっくに明るいのに、カーテンを閉め切った部屋で、俺は床に崩れ落ちる。
目が覚めた頃には外はもう暗くなっていた。起き上がる気力もなく、床から手の届くところにある文庫本を開く。文字の羅列がふわふわと羽虫みたいに漂う。読めない。
退廃と、凋落。休みの日に床から起きることができなくなる。直近の課題がまだ一つ、終わっていないことを思い出す。講評のことを考えると胃がきりきりと痛む。
あいつが前に進んでいる間にも、俺は重力に負けて泥濘に沈み込んでいく。
「君の絵はなんだか卑屈だね」と教授は言った。
「この場に偶然で立っている人はいない。君はちゃんと実力を見出されたからここにいるんだよ。もっと素直に描いてみたら?」
自分の展示の前で立ったまま、はい、という言葉だけが床に転がり落ちた。
付き合おうよ、などとひばりに言われたはいいものの、俺はとうてい甲斐性のある恋人にはなれなかった。好景気にあてられ、周りの同世代が――ひばりも含め――平然とブランドものを使うようになっても、俺には常に金がなかった。プレゼントなんてもってのほか、デートなんてものに出かけることもままならなかった。ひばりが外食に行きたいと言う時は決まって彼女の奢りだった。
彼女の破滅的な奔放さは留まるところを知らず、違う男の気配は、変わらずゆるゆるとまとわりついていた。バイト先の男全員と寝たとか、誰の彼氏を寝取ったとかいう噂も、アバズレという陰口も絶えず聞こえていた。どうしてあんな奴と付き合っているのか、なぜ別れないのか。そんなことを何度も聞かれた。俺が「さあ」と返事を濁すと、同情と軽蔑の入り混じった、汚いものでも見るような目を向けられた。よく身に覚えのある眼差しだった。
自分を愛する方法も、他人を愛する方法も、俺にはまるでわからなかった。ひばりが嫌いなわけじゃない。好きと言われれば嬉しいと思う。だけど俺の感情は、それ以上のものではない。俺の温度は低いままで、けれど身体を合わせることはできる。そんな自分の疚しさが、時折吐きそうなほど嫌になる。
俺の愛情表現の乏しさに、ひばりは少し不満そうだった。「もっと必死になってほしい」と面と向かって言われたこともあった。彼女が他に男を作るのも、寂しくさせる俺のせい、らしい。ひばりからしてみれば、俺が彼女の節操のなさを怒らないことも、執着しないことも、愛の欠如と思えるらしかった。
恋とは全身でするもので、もっとなりふり構わず相手を求めるものだ、というのが彼女の持論だ。彼女に言わせてみれば、愛とは激しく相手を欲することであり、時間や自由を奪って支配しようとすることだった。そうしていないと愛されている実感が湧かない、愛されていない自分なんか存在しない方がいいって思う。燃えるような激しい熱量に俺は気圧されるばかりだった。
「……ねえ、あたしが死んだら悲しい?」
自分を愛しているかと訊く代わりに、ひばりはよくそんな風に俺に尋ねた。死んでいいや、という雰囲気をいつだって纏っているくせに、「当たり前だろ」言った時だけ、ひばりは妙に安心したような顔をしていた。
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