1、はじまりの言葉

 ある秋の暮れに、母親が帰ってこなくなった。俺は小学校五年生だった。

 カレンダーを切って作ったメモに、ごめんね、という書置きだけが残されていた。何に対して謝っているのか、最初はまるでわからないまま、母親を待っていた。二日経ってようやく、鈍い子どもなりに、俺たちは置き去りにされたのだと気づいた。

 しばらくは弟とふたりで、スーパーで飯を買ったり、洗濯物の山から服を引っ張り出したりしながら、どうにか生活していた。相談できる大人はいなかった。俺と弟のお金をかき集めても、小銭はすぐになくなった。三日経つと、電気がつかなくなった。時折あることだったが、とことん間が悪かった。

 もう四日同じ服を着ていた。暑い季節でなかったことだけが救いだが、小汚くなった俺たちはますます愛玩動物としての価値を失った。

 放課後。もう日が暮れかけていた。俺は昇降口近くの段差に座り込んで、グラウンドでじゃれあう子どもを遠くから眺めていた。白球が夕日と嬌声の中に飛び交っている。からん、とバットの落ちる音。蹴られて舞うグラウンドの砂塵。彼らにはちゃんと親がいて、家に帰れば温かい夕飯や風呂があるのだろう。ひもじくて爪をかじりながら過ごすこともないのだろう。腹の底にある鬱屈が、ぐるぐると音を立てて唸った。

 家にまっすぐ帰る気にはなれなかった。帰ってもどうせ弟にイライラさせられるだけだ。つい先ほど、弟に「帰らないの?」と声をかけられて、「一人で帰れよ」と言ったばかりだった。弟はいつまでも不安そうに俺の方を伺っていた。その一挙一動が妙に俺の気分を逆撫でた。「俺がいないとなんもできねえのかよ、グズ」と言葉をぶつけると、弟はつぶらな目を潤ませたまま、のたのたと小走りで踵を返した。その動きまで愚鈍そのものだった。

 日が落ちてしまうと、風が冷たかった。袖から余った手首がひどく寒かった。野球をする子どもの姿はいつの間にかなくなっていた。剥き出しの膝が痒くて、力任せに掻いた。冬に近づくほど肌荒れは酷くなる。ぽろぼろに剥けた皮膚の間から、ぽつぽつと赤いものが見えていた。

 こんな時に限って、母親が薬を塗ってくれた時のことを思い出した。しばらくは触っちゃいけんよ、と言われて、むずむずするのを我慢していたのが懐かしかった。掻いたらますますひどくなるんやからね、と俺を諫める人はもういない。母親は俺たちを捨てた。肌を掻きむしる自由だけが残った。

「帰らないのかい」

 穏やかな声がして、誰かが横に腰掛けたのが分かった。茶色のカーディガンがちらりと視界に映る。年配の人しか着ないような、よくわからない柄。嗅ぎなれないにおい。

 先生だ、とわかるまでに、少し時間がかかった。

 拒絶をしない代わりに、俺は何も答えなかった。肘の内側を指でがりがりと擦る。

 鼻がむずむずして、ぷしゃん、とくしゃみが出た。洟をすすったら、先生がティッシュをくれた。洟をかむと、鼻の下が痛くて、少しだけ涙がにじんだ。

 先生はしばらく俺の返事を待っていたが、やがて根負けしたように立ち上がり、尻のあたりをゆっくりと払った。

「どれ、ずっとここにいるのも寒いだろう。温かいお茶でも飲みませんか」

 俺はしばらく答えに窮していた。放っておいてほしかった。どうせこの人も、俺の味方にはなってくれないと思った。けれど、あたたかい場所に入りたいのは事実だった。指先が痛いほどに冷たかった。

 迷った末に、俺は小さく頷いた。

 俺と先生は、児童が誰もいなくなった校舎に入った。踵を潰した上履きは、歩くたびにぱかぱかと足から離れる。その音に合わせて、こちらに向かってにょろりと伸びる影が、しゅる、と蛇のように縮こまる。

 図工室のさらに向こう、普段は立ち入らないような校舎の端。薄暗い一角で、先生は足を止めた。

 引き戸が開く。暖かい空気が肌に触れて、頬がちりちりと痒くなる。戸の先には、ごちゃごちゃとした本と銀色のデスクと、ぼんやり暖色に光るストーブがあった。それから、部屋の隅に、絵を描く道具と描きかけのキャンバス。緑色が多い。風景画のようだ。絵の具のチューブも筆の質感も、絵の具セットのものとはまるで違った。

 部屋は油性ペンのインクのようなにおいがしていた。先生はひとつパイプ椅子を出して、俺に座るよう勧めた。

「緑茶でいいかな。すまないね、子どもが喜ぶようなジュースとか、ここにはなくて」

 ストーブの上に乗っているやかんを手に取り、先生が言った。大人に謝られるのは変な気分だった。黙っていることを了承と受け取ったのか、先生は淡々とお茶の用意をし、マグカップにお湯を注いだ。

 初めて飲んだ緑茶は、熱くて、渋くて、苦くて、全然美味しくなかったけれど、身体の内側の深いところにじんわりと沁みていった。

 しばらく沈黙だけがあった。先生も、俺も、じっと何かを待ち続けているように、何も言わなかった。静寂を断ったのは、ぐうぅ、という俺の腹の虫だった。先生が耐えかねたように顔を綻ばせた。

「食べますか?」

 煎餅やあられの入った木の器を差し出された。どこか恥ずかしいような苛立たしいような気分で、誘惑に逆らえず、俺は手を伸ばした。乱暴に袋を開ける。一口かじると、煎餅のかけらがぼろぼろと腿の上にこぼれた。一袋目がなくなるのはあっという間だった。胃にものを入れてから、自分が思っていた以上に空腹だったことを知った。二袋目も、三袋目も、黙々と貪り食った。

 一瞬だけ、弟の顔が浮かんだ。食べるものもない家で、ひもじさにうずくまっている弟。運動が嫌いで、給食をたくさんおかわりするせいで、デブ、豚、とクラスメイトからいじめられている弟。筆算の繰り上げがどうしてもできない弟。母親によくなついていた弟。母親が帰ってこなくなってしばらくは、夜になるたびにすすり泣いて、「うるせえよ」「ウジウジしてたら帰ってくんのかよ」と俺に叩かれた弟。

「帰らなくていいのかい」もう一度、先生が訊いた。

 ためらいが喉を塞いだ。帰りたくない。ごく小さい声で、やっとのことで絞り出した。

 先生は言葉を待っている。決して急かしたりはしていないけれど、急かされているような気分になる。

「お母さん、心配してるよ」

 お母さん。その言葉が不快だった。ざらざらした感覚とよどみが、身体にまとわりついた。体の内側を無遠慮に触られているみたいだ。痛みを振り落とすように、俺は牙をむいた。

「……してねえよ」

「どうして?」

「帰ってこないもん」

 憤りながら、言ってはいけないことを口にした気がしていた。怒られるんじゃないかと思った。いつも俺を叱っていた言葉が、一気に脳裏をよぎった。

「……いつから?」

 先生の声は静かだ。

「先週の火曜」

 そっか、と言って、先生はしばらく考え込んでいた。その間がひどく恐ろしいものに感じた。

 六時を知らせるチャイムが遠くで鳴った。夕焼け小焼けの歌のメロディーが、やけに間延びした調子で広がっていく。帰る家のある子どものための音。

「久人くん」

 名前を呼ばれて、びく、と肩がこわばった。先生の目はまっすぐ俺を見つめている。

「僕はたぶん、君を助けてくれるところに電話をして、君の今の状況を変えることができます。でも、変わる、ということはそれだけで大変なことです。君にとって辛いことも、たくさんあるかもしれない」

 先生の言っていることは、難しくて半分もわからない。

「だけど、ここで見て見ぬふりをしないことは、大人としての僕の責任でもあります。君のされていることは育児放棄であり、虐待だからです。――わかるかい?」

 虐待。面と向かってその言葉が吐かれたのは初めてだった。言葉の強さとまがまがしさ、それが自分へ向けられたことへの戸惑いは、俺を混乱させるには十分すぎた。

「ちがう」

 声が震えた。咄嗟にそう思ったのはなぜなのか、自分でもわからない。捨てられてもなお、愛されていると思っていたかったのか。ほんの少しのあたたかな記憶さえ、塗りつぶされてしまう気がしたからか。胸の中では拒否感だけが膨らみ、俺は冷静さを欠いていく。喉の奥が狭くなる。

 先生は少しだけ悲しそうに笑った。ごめんね、と頭に手が伸ばされた時、顔を何度も叩いてきた母親の影が重なって、ぱしん、と鋭い音がした。少しして、俺は先生の手を払ったのだ、とわかった。先生の傷ついたような顔まで、どこか母親を思い出させた。

 息が上がっていた。泣きそうだった。みっともなく泣き崩れるのが嫌で、ぎゅっと唇を結んだ。血がにじんでしまうほど強く。

 耳の際で心臓の音が鳴っている。その音に合わせて、周りの景色が膨らんだりしぼんだりを繰り返す。

「ごめんね。過ぎたことを言いました」

 先生の口調はまるで宥めるみたいだった。その顔に陰を差した悲しみに、なぜだか俺も傷つけられたような気分になった。

 先生は俺の前でゆっくりと膝を折った。

「――いいですか、久人くん。僕は今から、君に呪いをかけます」

 先生が俺を仰ぎ見る。先生の真っ黒な瞳の中に、貧相な自分の像が映る。その目を見ていたら、少しずつ、強かった拍動が落ち着いてくる。

 俺が鎮まるのを待って、先生は言った。

「絵を描き続けなさい。それが君と世界を繋げてくれる」

 先生はそっと俺の手を取った。がさがさしているけれど、とてもあたたかい手。俺よりもずっと大きな手が、同じくらいがさがさの俺の手を包んだ。

「君は口数こそ多くないけれど、すごく豊かな内面を持っている。これは天性のものです。そして宿業のようなものだ。やっかいなものだけれど、上手く使えるようになれば、きっと君のことを助けてくれます」

 きょとんとするばかりの俺に構わず、先生は続ける。熱いくらいの手のひらの熱が、指先からぼんやりと伝わってくる。

「絵を通して世界を見ることです。陰影の色、形。空気の色。絵を描くためには、たくさんの観察が必要です。たくさんのものを見て、触れなさい。美しいものは、僕たちが知るところにも知らないところにも、数えきれないほどあるものだから」

 口調こそ落ち着いたものだったが、先生はどこか必死で切実だった。俺は整理できないなりに、先生の言葉を呑み込んだ。

「断言しますが、君にはこれからたくさん、辛いことや苦しいことがあります。君の出生に由来するものも、そうでないものもあるでしょう。だからこそ、君は、絵を描くのをやめてはいけない」

 絵を描き続けなさい。先生はもう一度、はっきりと、念を押すように言った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る