ヤマダヒフミ

第1話


 船は揺れていた。ヒロトとソウジの部屋も揺れていた。静かな揺れだった。ゆったりとした海原の中で眠る大きな子供の左右の揺れ。独特のリズムが世界を構成していた。

 ヒロトはベッドに寝転がっていた。ソウジはベッドの上で半身を起こしていた。二人がいたのは4等船室で最低ランクの部屋だった。狭い部屋にすし詰めに四人入るようになっていて、ベッドは上下で二人寝られる。上半身を起こせば上の人間は天井に頭が届くスレスレ、下の人間は上のベッドに頭をぶつける事になる。

 二人は、幸運だった。ヒロトとソウジはこの船旅で出会ったのだが(出港して随分時間が経っていた)、部屋は二人きりで、ベッドは二つ空いていた。どうしてそんな欠ができたのかはわからないが(船旅は人気で、最低ランクの船室ですら大抵いっぱいだった)、二人はそれを僥倖と受け取った。思ったよりも快適な旅が過ごせそうだった。ヒロトとソウジは年が近く、長い船旅の伴の相手としては最適だった。二人は出会いを喜び、長い旅に耐えてくれる友人を神が与えてくれたように思った。

 ただ、二人の性格には相違があった。ヒロトは楽観論者で、ソウジは悲観主義だった。ヒロトは大雑把で細かい事は気にならないタイプだったが、ソウジは細々と気に病む所があった。

 それでも二人は同世代の若者という事もあって馬が合った。食事や遊びの時も一緒だった。二人は今も、ベッドの上下に分かれて話し合っていた。ヒロトが上でソウジが下だった。

 「なあ、さっき大きな音がしなかったか?」

 ソウジが言った。ヒロトは、パラパラと雑誌をめくっていた。もう何百回と読んだ雑誌だった。

 「音?」

 ヒロトは雑誌を置いて、少し考えてみた。音なんてしなかったような気がする。

 「どんな音だ?」

 「ドーン、っていう大きな音。遠い所で何かがぶつかったような。そういう音がした気がする」

 「どれぐらい前の話?」

 「一時間くらい前」

 「……知らないなあ」

 またソウジの神経過敏だろう、とヒロトは考えた。ソウジはいつも過敏すぎるのだ。

 「なあ、この船、沈むんじゃないのか? そのうち?」

 ソウジが心配そうに言った。ヒロトは不満げに鼻を鳴らした。

 「おいおい、もうその話はやめにするって言っただろ? この前? もういいじゃないか。あんなのはデマだったってわかったじゃないか」

 「まあ…そうだけど」

 船が沈むかもしれない、という話は食堂で中年の男何人かが話していたのをソウジが耳に挟んだのだった。男達は、船長が精神を病んでいる可能性についてあれこれ話していた。

 「でも、大きな音はたしかにしたんだよ。それは確かだ」

 「ああ、そう」

 ヒロトは不満げに言った。ソウジの病気がまたぶり返したか、と思った。

 「というか、この船ってさ、そもそもどこに向かってるんだろうなあ」

 ソウジは独り言のように言った。ヒロトは、その話も以前にしたなとぼんやり考えた。

 「だからさ、それは新大陸だろ。そこに向かってるって話だ」

 「でも、あまりにも漠然とした話じゃないか?」

 「その理由ももう説明されてたじゃないか。新大陸はまだ解明されていないから、はっきりとは伝えられない」

 「でもさ、その割には期待を煽っていたじゃないか。新大陸に行くのはそのまま希望である、みたいに。今もみんなよく言うよな。『新大陸に我々は向かっている』って」

 「そりゃあ、まだわかってないからこそ、希望なんだろうよ。僕達だって全てを知るわけにはいかないさ。明るい未来っていうのは不確定なものの所にある。そうだろ? 仕方ないじゃないか?」

 「だけど、僕は不確定だとは思ってないんだ」

 「不確定じゃない? どうして?」

 ヒロトは聞いた。ソウジは考える素振りをした。

 「本当は随分な事がわかっているって気がする。一部の人間には多くの事がわかっている。だけど、その真実を僕らには見せられない。どうしても見せられない。だから隠しているんだ」

 「隠している? どうしてだ? なんの為にそんな事をする必要があるんだ?」

 「ほとんどの人間は真実に耐えられないからさ。だから希望という妙薬を定期的に注入する必要がある。希望は真実を隠すための麻酔剤なんだよ」

 ソウジは考え考え話した。ヒロトは首を横に振った。

 「ソウジ、君の話はいつにもまして抽象的だな。そんなぼんやりした話じゃ、よくわからないよ。なんだか、わからない」

 「…いや、僕だって具体的に話したいさ。だけど、具体的にしていくのが許されないから、抽象的に語るしかないんだ。漠然とただ感じているだけでね…僕もはっきりと話したいよ。…でも、この船だってそうじゃないか。年がら年中、パーティーを開いている。トランプゲームを延々としている。だけどどうしてこんな遊興がずっと続いているんだろう? 一体どこから資金が出て、どうしてこの巨大な船が出港して、どこに向かって、何をしているのか、まるで誰もわかっていない。奇妙だよ。不安になるんだ。…なあ、ところで、君は覚えているか?」

 「何を?」

 ヒロトはソウジがじっとこっちを見ているだろうと思った。

 「僕らが何年前に船に乗ったのかを。不思議な事だけど、どうしても僕は思い出せないんだ。思い出そうとすると、頭が痛くなるんだ。まるで過去と今の間に巨大な壁があって、すり抜けられないみたいだ。思い出せるのは、船に乗った後の事ばかりさ。船に乗る前に何をしていたか。どう暮らしていたか。…断片的な、夢のような記憶はある。子供の頃、母親と遊んで怒られたとか、親父に肩車してもらった時、かすかに不安を感じていたとか。夢の断片だけは頭の内側にこびりついている。だけど、僕達は一体いつ、何年前にこの船に乗ったんだ? 君にはわかるか?」

 「……そういや、考えた事もないな」

 ヒロトは言われた事について考えようとした。すると頭に靄がかかって、思考が前に進もうとしなかった。次第に頭が痛くなってきた。

 「そう言えば、わからないな。でも、これについて考えるのはやめようぜ」

 「どうして? どうしてだ?」

 ソウジはヒステリックに聞いた。ヒロトは首を横に振った。

 「…どうしてもだ。こんな事は考えてもどうしようもない。どうにも、わからない事だらけなんだ。それに、そういう事について考えてもしょうがないだろう? 考えても仕方ない事を考えるのは労力の無駄だよ。僕も今、思い出そうとしたが、思い出せない。頭に靄がかかって…でも、別にいいんだ」

 「何がいいんだ?」

 「いいんだよ。これで。それ以上考えるな、考えなくても、十分幸福じゃないか、って誰かが囁いている気がする。…実際、僕達は不幸か? 確かに僕らは4等船室の住人だ。だけど3等に上がれる可能性もないわけじゃない」

 「あれか。このあいだの通達か」

 「そうさ。僕らだってうんと頑張れば、3等に上がれる。それに…実力だけじゃなくて、運もあるんだってさ。これは希望じゃないか。そうだろ? 大きなクジを引いて、当たりが出れば3等に上がれるんだって。それどころか、2等にも、いや、1等にも…」

 「そこも僕は引っかかるんだよ」

 「君は何にでも引っかかるんだな」

 ヒロトは不満げに鼻を鳴らした。ソウジがこれほどうるさく言ってきた事はかつてなかった。はじめて、執拗に食らいついてきた。ヒロトの見る限り、ソウジもまた、限定ある生活の中でせめてそれを楽しくしようと努力してきた。それが今、なんのきっかけか、堰が切れたようになっている。

 「どうも、これは壮大な茶番という気がするんだよ。大体、どうして船の中の生活の向上を希望するんだ? 船の目的地はどこかへ着く事だろう? その目的はぼやかされて、生活のディテールだけはいやに細かくなって…。僕らに回ってくる食料も、4等にしては随分豪華なものだな。肉だって、ずっとある。しかしなあ、あんな肉はどこから持ってくるんだ? もしかしたら肉じゃないのかもしれないな。もっと別の…いや、しかし…」

 「君は何でも考えすぎなんだよ」

 ヒロトはいい加減、うんざりしたという調子で言った。彼はひらりとベッドの上から飛び降りて、ソウジの向かいのベッドに座った。ソウジも上半身を起こし、二人は向かい合った。

 「おい、考えすぎだよ! しっかりしろよ。君は何でも深刻に受け取り過ぎなんだよ。それに、僕達は全然、不幸じゃない。それをもっと考えなきゃ。ほら、僕達みたいな4等だって、遊戯室で遊ぶ事もできる。恋愛だって可能なんだ。ほら、遊戯室で見かけたあの女、おっぱいでかかったなって二人ではしゃいだじゃないか」

 「ありゃ、2等の女だよ…」

 「2等でも構わないさ。あの女はいい女だったよな。顔もスタイルも最高だった。俺は隣の、アル中から聞いたよ。4等の男が、1等の女と寝たって話を。こればっかりは、本当の話さ。別に、俺達は閉じ込められているわけじゃない。生活に困っているわけじゃない。楽しい事は色々あるだろ? 深刻に考えるから問題なんだよ。深刻に考えなきゃ、それでいいんだよ。大丈夫だよ。いい事だらけさ!」

 ソウジはうつむいていた。彼は「でも、それだけじゃない…」と小さく言ったが、ヒロトがそれを掻き消すように声を出した。

 「おい、いいか。ソウジ、お前は考えすぎだよ。いくらなんでも考えすぎだよ。そんなに神経過敏なら、すぐにまいってしまうよ。どんな些細な事にでもまいってしまう。それにだな、いいか、ソウジ。お前のよくわからない杞憂が本当だとして、それについて考えた所でどうなる? おい、いいか? 仮にこの船が沈むとしよう。だけど、それは起こったら起こった時の話だ。その時にうんと考えりゃいいさ。この船がどこに向かっているか? それが嘘だったとして、それを嘘だと証明するものは、一体どんなものなんだ? 俺達には想像もつかない巨大な話じゃないか? 大きな話には目を瞑れ。そうして毎日を、一日一日を大切にするんだ。そうすりゃ、自然と希望が見えてくるよ。大きな希望を持とうとするから、絶望してしまうんだ。小さな希望を持って日々を生きていれば、生きるのは楽しくなる。この船だって、この巨大な船だって一つの世界だ。そう考えれば、そうだろ? 何を悲観する事があるんだ? 一体どこに悲観する事がある? この世界の外側なんて考えたって仕方ない。俺達は現に、この世界で生きているんだ。いいか、俺達はこの世界で生きている。ああ確かに、外の世界も実は存在していて、船はでかいクジラに飲み込まれる一瞬前かもしれない。だけどな、クジラの事なんて考えたって仕方ないじゃないか。今生きている俺達はこの世界の中で幸福になるしかないんだよ! お前の言っているのは無駄な悲観論だって、いつも言ってきたじゃないか! 無駄だよ。そんな無駄に考えても仕方ない。俺達は現に目に見えている世界で幸せになるしかないんだよ!」

 「…不幸よりも幸福の方が価値があるって、どうして言えるんだ?」

 「…なんだって?」

 「僕は幸福よりも、不幸でありたい。麻酔された幸福よりも、真実を掴んだ不幸者でありたい…」

 「だからさ、それは……」

 ヒロトは言おうとして言葉が詰まった。もぐもぐとあえいでいたが、落ち着きを取り戻すと話し出した。

 「それは…だから…言った通りだよ。何が真実なんかはわからない。だから考えたって無駄だって言っているんだよ。俺が言っているのはそういう事さ」

 「でも、兆候は至る所にある。…お前だって、本当は気付いているんだろう? 何かがおかしいって。何かの歯車が狂ってるって? この船はおかしい、って。どうしてこんなにみんな浮かれているんだ。新大陸って何なんだ? どうして誰も彼もが、行き先もわかっていないのに、この船に乗って、乗り続けて、それについて考えてもみないんだ? …まるで、頭にピンが刺さってて、どうしても抜けないようだよ。それさえ、抜ければ、本当の真実が明らかになる気がするのに…」

 「例えば、みんなが実はゾンビだって明かされるとか?」

 ヒロトはふざけ半分に言った。

 「それも十分ありうるね」

 ソウジは真面目に言った。

 ヒロトはからからと笑った。演技臭い笑いだったが、生活の潤滑油として必要な笑いでもあった。

 「君はふざけるのがうまいね。…だけど、そんな風にしてたら疲れちゃうぜ。考えたくない事は考えないようすればいいさ。クジラの事なんて…クジラを君は信じているのか?」

 「クジラ?」

 「ソウジ。君が信じているものを、僕はクジラと名付けたんだ。いるはずもない、この船を飲み込もうとするクジラさ。クジラは宇宙よりもでっかくて、全てを飲み込んでしまう凶暴な奴。だけど、そんなものは誰も見た事がない。見た事がないから、恐怖するのさ。君はクジラを飼っている。頭の中に一匹、想像力という名のクジラをね」

 「僕はクジラなんて信じない。ただ僕が信じているのは現実から導き出される兆候だよ。そもそも、考えようとして考えられない事ってなんだ? 今、君も体感しただろう? 考えようとすると頭が痛くなる…それって何なんだ? 生活のディテールは毎日毎日細かくなっているのに。食堂でみんなの持ち出す話題はどうだ。すべて細々したくだらない話でしかない。昨日の昼飯はまずかった。隣の女の息が臭い。あそこのおじさんは髪を整えていない…そんな全てはどうだっていいだろう! だけどそれ以上の話を許さない何かがあるんだよ。この世界には」

 「それ以上の話、って一体何だ? それ以上っていうのは何なんだ?」

 ヒロトは尋ねた。ソウジは答えようとして、詰まってしまった。何も思い浮かばなかった。

 「それ見た事か。君は何も思い出せない。君が信じているのは…クジラなんだよ。ありもしない、誰も見た事がないクジラなんだ。君の言っているのはいつも『頭の中のクジラ』なのさ」

 「……それだったら、それでいいよ」

 「なんだって?」

 「それだったら、それでいい。クジラ。クジラを信じよう。だけどね、僕にとってクジラの方がでかい船よりも真実なんだ。それでいいだろう! 僕は嘘を信じたい。その事によってどんな目に会おうとね」

 「…とうとう言ったな。君は君が信じているものを白状した。そら見た事か。……だけど、こんな議論はもううんざりだ。なあ、そろそろ遊戯室に行かないか。新しい物が入っているって言うじゃないか!?」

 ソウジは答えなかった。うつむいて、じっと考え込んでいた。ヒロトはソウジを見つめていた。

 ソウジの頭の中には様々な観念が入り混じっていた。思い出せそうでどうしても思い出せない何か。自分を構成している大切なパーツが外れているのにその事がどうしても思い出せない。そんな感覚が、ずっと彼を苛んでいた。それさえ思い出す事ができたら、スッキリとしそうだった。

 だが、日々の生活は、そんなモヤモヤを忘れさえすれば、ヒロトの言うように快適なものだった。4等船室の人間でも、それに見合った楽しみがたくさんあって、いくらでも時間を忘れる事ができた。そうした遊戯に浸っている間は麻酔がかかったようになる。ヒロトが言っている楽しさはそれだと、頭ではわかっていた。

 ソウジは考え込んでいた。ヒロトは(一人で遊戯室に行こう)と考えていた。ただ、二人共に了解していた事がある。それは、『今の喧嘩は一時的なもので決定的な決裂ではない』という事だった。まだまだ航海は続くし、二人で暮らし続けなければならないのは決まっていたから、ここで本気の喧嘩を演じるのは愚に過ぎないとも二人共心の奥底で感じていた。二人はその内に和解するだろうという予感を持っていた。

 それでもソウジはあまりにも長く考え込んでいた。彼は過去を思い出そうとしていた。船に乗る前の事を、頭痛に耐えながら思い出そうとしていた。ほんの僅かな記憶の断片が漏れ出てきたが、それ以上はどうしても思い出せなかった。彼の視野からはもうヒロトの存在は消えていた。彼はただ己の思念と差し向かいになっていた。

 ヒロトは「俺は遊戯室に行くよ」とひと声掛けようと思った。そのまま、部屋を出ようと思った。彼は立ち上がりかけた。腰を浮かして、言葉を発しようとした。その瞬間、どこからか大きな音がした。

 ドォォォォン

 という、遠くで重たい物が巨大な何かにぶつかったような、鈍い深い音だった。部屋も揺れた。ハッとソウジは顔を上げた。二人は目を合わせた。

 ソウジは何か話そうかと思ったが、もう一度音が聞こえてくるかと思って黙った。ヒロトも顔つきが変わっていた。二人は警戒していたが、それ以上音はしなかった。ソウジが口を開いた。

 「聞いたか?」

 「…ああ」

 「ほんとだったろ?」

 「ああ……でも」

 ヒロトは考えた。確かに音はした。空耳ではなかったようだ。だけど、それは何か違う音の可能性もある…船が沈む気配もまだないし……。

 「でも、ただの音かもしれないだろ?」

 「ただの音って?」

 「『ただの音』だよ」

 二人は黙り込んだ。ヒロトは口ではそう言ったものの、気になっていた。ソウジの言っていた音は、本当だったのだ。彼は音の正体を確かめたい気持ちに駆られた。

 「ソウジ、今の音、前に聞いたのと同じだったか?」

 「…ううん、そうだな。大体同じだったと思う。こんどの方が大きいけどな」

 「そっか。これがあれか…その…君の心配していた…いや…よそう」

 ヒロトは言おうとして、言えなかった。ソウジもそれ以上追求したいと思わなかった。

 「俺…ちょっと遊戯室に行ってくる」

 ヒロトが出し抜けに言った。

 「何しに行くんだ?」

 「うん、ちょっと気になって…いや、まあ、ちょっと。新しい物も入ったって言うからさ…。うん、まあ。…とにかく、俺は行くよ」

 ヒロトは立ち上がって出て行った。ソウジは後ろ姿を見つめていた。ソウジはヒロトのぼろぼろの擦り切れた服が妙に気になった。彼自身も同じような服を着ていたのに。ドアは音を立てて閉められた。

 (あいつ、正体を確かめに行ったな)

 ソウジは考えた。彼は、自分の杞憂が本当になったのに喜びを感じていたが、不安も感じていた。それは彼一人だけが抱えていた心配ーー心配の種であり真実でもある事が、他人に共有されるかもしれないという不安だった。

 (あいつも口ではああ言いながら、やっぱりどこか気にしていたんだ。だからこうやってすぐに音の正体を確かめに言ったんだ。…僕が色々吹き込んだせいかな?)

 ソウジはごろりと寝転がった。枕近くの読書灯をつけて、自分の手を光に当てて眺めてみた。手は青白い。あまり陽に当たっていない色だ。

 (それにしても…今の音は本当に「クジラ」の音だろうか? クジラが、船に当たったのだろうか? …いやいや、待て。クジラについて言い出したのはあいつの方だ。クジラの正体はわかっていない。だけど、「新大陸」だって何だかわかっていないし、僕らがいつ船に乗ったのかすらわからない。…ああ、この船は沈むのだろうか? いくら僕が心配性だからって、心配が好きだからって、船が沈没していいとは思わない。クジラに食べられていいとは思わない。…不安になってきたな…)

 考えている内、ソウジは本当に不安になってきた。本当にクジラが船を飲み込もうとしているのではないかと疑心暗鬼に陥ってきた。心配そうな表情で部屋を出て行った友の顔を思い出した。

 (僕も確かめに行くか?)

 彼はそう考えた。…だが、彼はすぐに頭を横に振った。(いいや、別にいらない)

 ソウジは考えた。ヒロトの言う通りじゃないか。仮に、本当にクジラに食われるとしたって、どうにかなるものでもない。きっと助からないだろう。ここでじっとしていても、外に出ても変わらないだろう。もし、本当に船に何かアクシデントが起こったとしても、船を動かしている人はそれについて教えてくれないだろう。それに、この船を助ける他の船も存在しないだろうし、船が壊れたとしたら、立ち寄れる島も近くにはないだろう。…いや、近くどころか、きっとそんなものはどこにもないだろう。この船は一体、いつ寄港した? どうしてずっと航海しているんだ? そうだ、助けは来ない。真実も誰も教えてくれないだろう。僕にできる事は何もない。きっと、ない。船は沈むか、助かるかで、その選択を僕らは決定できない。沈むとあれば、沈む事は教えられずに沈んでいくだろうし、助かるとしたら、助かる事は教えられず、そのまま昨日が今日に続き、今日が明日に続く。要するに何も変わらないだろう。

 彼は、甲板の光景を思い出した。甲板は週に一度だけ出るのを許されている。それも一時間だけ。どうしてそんなに厳しく取り締まるのか、その意味もさっぱりわからなかった。

 ソウジは先週見た、甲板からの海の光景を思い出した。強烈な日差しの下に、永遠のように海が横たわっている。海は荒い波を繰り返していて、どれだけ覗いても生物の影も見えない。空を飛ぶ鳥も見えない。ソウジには何だか不気味な気がした。一体この船はどこに向かっているのだろうか? 海を見つめていると、海の真ん中に自分がまっすぐ落ちていくような気がして、手すりに深くもたれかかっていると、船員に注意されて引き戻された。

 (今は甲板に出られないだろう)とソウジは思った。何事も、誰も教えてくれないだろう。もしかしたら、船を運転している人間すら、真実は何も知らないのかもしれない。例えばだ、洗脳する人間が最後に自分を洗脳してしまったら、これは完璧な洗脳だ。それに一人とか、少数の人間だけ目覚めているだけなんてあまりにも辛い事ではないか? 人が一番耐えられないのは真実だ。それ以外ならなんだって大丈夫。どんな悲惨の、死ぬ一歩手前の人間でも、明日には鳥になって天の国を飛び回っていると思えば、希望が芽生え、生きるのを喜ぶ事すらできる!

 悲観的な考えをわんさかと紡ぎ出して、ソウジは「はあ」とため息をついた。頭の中で再びクジラが船を食べてしまう映像が流れる。(もうどうにでもなれ) 彼はそう念じて、目をぎゅっとつむり、まぶたを上から手のひらで強く押した。すると目の裏の闇からパチパチと、花火のような光が現れた。

 (この花火だって綺麗じゃないか)

 彼は妙な考えをした。(この花火が実在のものじゃないって、一体誰が言える?) 彼はそんな風に目をつむって、闇の中に色々な火花を生み出して遊んでいた。そうする内に、眠気が襲ってきた。それでも彼は寝ないだろうと思っていた。精神が緊張しているから眠るわけがないと思っていた。が、彼は眠りの中に滑り降りていった。闇の中に滑り台で落ちていくように、夜の海に落ちていくように、眠りの中に落ち込んでいった。

 彼はその中で、現実とは違う夢を見た。それは船ともクジラとも全然違う、ソウジも遊戯室も全く出てこない夢だった。その夢は極めて心地よい、温かい優しさに包まれた夢だった。

 それでも、次に目を覚ました時にはその夢を覚えていなかった。そうして、彼はその夢を覚えていないのを残念だと思う事すらなかった。彼は夢を見た事すら、完全に失念していたのである。

 

 

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ヤマダヒフミ @yamadahifumi

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