命のある場所

わた氏

命のある場所

 街の雑踏を、彼女は一人歩く。腕で紙袋を抱きかかえ、通り過ぎる人々の靴の音を聞きながら。紙袋からは買いたての野菜が顔を出している。

 歩く人の足元を見てみる。革靴の人もいれば、スニーカーの人もいる。高いヒールで背伸びした人もいる。だけど皆、地に足付けて歩いている。コツコツ、スタスタ……必ず音を立てて歩いている。等しく、影を従えていた。

例外などなかった。少なくとも、彼女には認識できなかった。目を凝らしても、宙を浮く人間の姿など知覚できない。

 彼女は足を速めた。胸の高鳴りが、足音と共鳴する。荷物は重いのに、足取りは軽い。


「あうっ」


 肩がぶつかる。


「ごめんなさいっ」


 当たった先には大柄の男。40代ぐらいか。碧い左目を失った、短い金髪が見下ろしている。


「気にしないでくれ、君こそ大丈夫かい」

「はいっ」


 謝罪もそこそこに、彼女は再び歩き出した。


 シャッターの前に辿り着く。雨雲のような悶々とする色が存在感を放っている。彼女は荷物を地に置き、ゆっくり持ち上げる。ガラララ……レールとこすれてなかなか昇らない。


「よい……しょ!」

 片手で支えられる程度には軽いのに、建付けが悪くなっているせいで開けにくい。非常口もあるのだが、狭い裏道を通らなければならないうえ鍵はどこかへいってしまった。

「こんなんじゃ客も来ませんよね……まあ、こんな場所に来る人なんて……」

 パンパンと手に付いた汚れを払う。シャッターの先には、薄暗い溜まり場のような場所と、階段がポツンと佇んでいるだけだった。それを上って、ようやく辿り着く。



 ——彼女の、仕事場。


 ここは、とある国の探偵事務所。ちょっと錆びれていて、ちょっと不安になる建物。でも、誰かにとっては、とっても落ち着く場所なんです。

 アタシ、チュベロサはここ、アオガネオフィスで助手として働いています。


「ただいま帰りましたっ」

「ああ」

 こちらの方は、アオガネ・イツキさん。アタシの尊敬する探偵さん。白いシャツに紺色のスーツを纏い、青いネクタイがトレードマークの、黒髪の小柄な男性です。


「紅茶はあったか?」

「はいっ。多めに買ってきましたよっ」


 濃淡のない声。ソファにゆったりと腰掛け、テーブルに肘をついて雑誌の端から端へ熱心に目線を動かしていました。読んでいるのは、母国から取り寄せてきた漫画雑誌。見せてもらったことがあるのですが、字は読めないのになんとなく人物の表情や気持ちが分かる、面白い本でした。


「また漫画読んでるんですかー? 書類整理はしなくて良いんですか?」


 紙袋を置き、書類に目を通します。


「もう終わらせた」


 パソコンで書かれた文字の羅列が、びっしりと紙を埋め尽くしていました。ほんとにちゃんと終わっているみたいです。アオガネさんの両脇にどっさり置かれた他の書類。紙同士が揃えられているところからも、彼の性格が垣間見えます。

と、このように要領が良い人なんです、アオガネさんは。

 

アタシの仕事は、事務所の掃除やお遣い、調査の手伝いなどなど……要は雑用です。こう言われれば聞こえが悪いですが、実際はそこまででもないんですよ。なぜって、アタシの知らない世界を垣間見ることが出来ますからねっ。


「聞いてくださいよアオガネさんっ。隣町の外れにおっきな館があるんですけどねっ」

「どうせ、曰くつきだとでも言うつもりなんだろう」


 顔も向けずにアオガネさんは言います。


「あれ? なんで分かったんですか?」

「これで何度目だと思ってるんだ?」

「えへへ~」

「俺はお断りだ。面倒事に自分から飛び込むつもりはない」

「え~、いいじゃないですか~。調査しましょーよ~」


 駆け寄って説得するも、結局それ以上は答えてくれませんでした。


 ——アオガネさんには、不思議な力があります。それは、あらゆる女性に干渉してしまう力。彼の目をもってすれば、幽霊を見通してしまうし、耳を澄ませば妖精の笑い声を聞くことができるのです。その気になれば、特定の霊を呼び寄せることができるし、他の霊媒技能もばっちりな、頼れるお方……のはずなんですが、その姿をまだ、見たことないんですよね。男性の幽霊や怪奇は、全く駄目らしいし。


「だって最近、全然依頼がないんでしょ? 暇じゃないですか~」

「良いことじゃないか」

「アタシは幽霊に会いたいんですよ!」

「お前には無理だろう」

「それはそうですけど……こうやって関わっていくうちに、見えるようになるヒントが掴めるかもしれないんですよっ」

「そう言ってもう1年だぞ」


 感情の起伏のない、面白みのない返事。


「ゔっ」


 図星な意見に、反論もできません。そっか……もうそんなに経ってるんだ。道理でやり取りも手慣れるわけですよ。


「それより紅茶をくれないか?」

「あっ、は~い」


 小さなキッチンに向かい、カップを棚から取り出す。湯を注いだ器にティーバッグを浸ける。


 アタシがここで働くのは、幽霊をこの目で見て、話したいから。だってそれって、面白そうだと思いませんか? 人間とは違う世界の一端を、知ることができる。この世界はいつだって退屈で、生きていても生きている心地がしない。だから、新しい楽しみが欲しいんです。そういうわけで、アタシはここで労働……もとい研鑽を続けているんです。


 色づいたら、砂糖を入れて完成。アオガネさん、甘党ですからね。小スプーン一杯分は必要なんですよね。トレイに乗せて運ぶまでが一連の作業。こぼさないよう慎重にっ。


「お待たせしました~……あれ……?」


 アオガネさんが誰かと話している。姿は見えないけど……もしかして……。


「幽霊ですか?!」


 カップの中で波が立ち、トレイにこぼれてしまい……残った紅茶は一割ほど。


「煩い、チュベロサ……」


 ため息をつき頭を押さえるアオガネさん。


「あ、アタシお茶とお菓子持ってきますっ!」


 再びキッチンに引っ込み、紅茶を二人分、あとアオガネさんお墨付きのコンペイトウを用意します。

 キッチンからは聞こえませんが、アオガネさんは多分アタシの非礼を謝っているんでしょうね。長い間一緒にいると、そういうことはなんとなく分かってくるんです。

 あの人は、そういう人だから。


 それにしてもお相手の幽霊。アオガネさんにはしっかり見えているみたいなんですが、アタシからすれば大きな独り言にしか聞こえなくて、なんだかむず痒いんです。こんなに近くにいるっていうのに。


「お待たせしましたっ」


 カップと皿をテーブルの中央に置きました。アオガネさんが動かしたのか、書類は端に寄せられています。

 コンペイトウが一粒消えてしまいました………ってことは、幽霊が手に取ったということ。


「あ……食べたっ!? アオガネさん、食べましたか?!」


 釘付けになります。なるのも無理ないですよっ。アオガネさんとは違って、アタシはこういうことでしか、幽霊の所在を確認することができません。実際はどの瞬間に食べたか、本当はまだ食べていないのか、そういうことは分かりませんが、それでも大事な情報です。


「チュベロサ……客の前だ」


 また怒られてしまいました。


「…………笑われたぞ。面白い子だと」


 呆れた口調のアオガネさん。


「ホントですか!?」


 幽霊からそんなこと言われるなんてっ。目には見えなくても、確かに自分が関われている。それだけで心が弾みますっ。ホントはアタシだって、幽霊と言葉を交わしたいんですけどね。今はそれだけでも満足です。

 アオガネさんは、喜ぶところじゃない、と眉間にしわを寄せていました。


「はあ……チュベロサ、記録」

「は、はいっ!」


 テーブルから少し離れた机に置かれた紙とペンを取りに行きます。書記もアタシの仕事なんです。アオガネさんの後ろに回り、準備完了です。


「まず、相談者の名前は……名前、リラク」

「はいっ」

「年齢……不詳」

「はいっ」

「生年月日……覚えていない」

「ふむふむ」

「性別……は、言わなくても分かるな」

「女性っと……身体的特徴って、何かありますか?」

「ああ……外見は十代後半ぐらい、薄紫のワンピースの青いジャケット。髪は短い金色で癖毛、瞳の色は碧」


 けっこうモダンな格好なんですね。軽く絵を描きながら、想像を馳せます。

 昔から変わっていないのかな。それとも、幽霊も流行りのファッションを気にするのでしょうか。


「それと貧乳……あだっ!」


 突然アオガネさんが仰け反りました。


「わわっ」


 何かが床に転げ落ちました。アオガネさんの額から跳ね返ったのは……コルクの栓?


「……あと、黒い短機関銃の玩具を所持……」


 額を押さえ、起き上がるアオガネさん。

 幽霊の持っている物は見えませんが、その手を離れさえすれば、アタシでも目視することができます。コルクが幽霊の手を離れ、アオガネさんに当たったってことで良いのかな……? 

 こういう出来事の推測は正しいか分からないけれど、一つ確かなことは……。


「アオガネさん! 女性はセンシティブなんですよ!」

「申し訳ない……」


 簡単な応対の後、詳細な相談内容を聞かされました……アオガネさん伝いで。曰く、短機関銃の持ち主を探しているとのこと。その人はリラクさんの村に住んでいた人。強くて明るくて優しくて、色々なところに連れて行ってもらって、一緒に遊んだそうです。それはそれは楽しかった……。だけどある日、自分のことは忘れろと厳しい口調で言われ、会えなくなってしまった。そして安否も分からないままこの世にとどまっている。それでアオガネさんに見つけてほしい、ということだそうです。

 

 お相手の名は、ラウラス。リラクさんとはだいたい十歳ほど差があったらしいです。黄土色のショートヘアーで、身長は高いのが特徴、っと。

 ……でも、名前が分かるのならだいぶ探しやすいはず。案外見つからないものなのでしょうか。


「好きだったんですか? その人のこと」

「ア、アオガネさん?!」


 大胆な質問すぎますっ。


「……そうですか。失礼いたしました」


 なんて答えたんですか?! 他人のプライベートゾーンに入ってきて、その不愛想はなんなんですかっ。


「では、情報を掴め次第次第連絡させていただきますので、今日はここまでで」


 しばらくは出入口を見守っていたアオガネさんが、勢いよくソファに座り込みました。きっと幽霊が帰ってしまったんでしょう。


「やはり女性は苦手だ……扱いが分からん……」

「ホントですよ。特に身体的特徴を言うときは慎重にっ」


 アオガネさん、女心が分かってませんからねぇ。アタシが代われたら、もっといい感じに応対できるのに。


「それで、その……さっきの質問なんですけど……」

「なんのことだ。」

「ラウラスさんのこと……好きだったかって……。リラクさんは……なんて答えたんですか?」


 耳元で囁くように聞いてみます。大声で聞くのは恥ずかしいので。


「プライバシーだ。口留めもされた」

「ええ~!」


 ……でも、それなら仕方ないですね。気にはなりますが。


「調査はどうするんですか? やっぱり彼女……リラクさんの親近者や関係者を探して聞き込みを行いますか?」

「そうだな……。」


 アオガネさんは、何か気になることがあるようです。紅茶をグイっと飲み干し、コンペイトウを2,3個まとめて放り込みました。

 幽霊分の紅茶は飲み切られ、コンペイトウは半分ほど無くなっていました。

 アタシも残ったコンペイトウのうち一粒を口に入れてみましたが、幽霊が食べたからって味が変わるはずもなく、やっぱりただの硬い砂糖でした。




 次の日から、身辺調査が始まりました。これもアタシの仕事。人づきあいの苦手なアオガネさんの代わりに引き受けています。まずは出身地のイメージから大体の時代を推測します。その後、当時のリラクさんやラウラスさんを知る人を割り出し、聞き込みを行います。

 

 そこから分かったことは、時代が戦争直前だということ。リラクさんの村では、徴兵が盛んに行われていた。若い男性がこの地を旅立ち、多くの兵は銃弾の雨に倒れた。もう会えない……その可能性も、覚悟しなければなりません。

 

 実際に村を訪れます。バスで1時間ほど、さらに数十分歩いた先の小さな集落。緑の木々が空を見上げて立っていて、不親切にもアタシのことは見向きもしません。

 当時は銃の生産地として栄えていて、戦地に行かない女性や子どもも駆り出されていたそうです。今ではすっかり廃れ、工場跡が当時のまま放置だけ。蔦や木々で隠され、不気味な感じ。村そのものが廃墟と化し、暮らしている人もごくわずか。


「ああ、ラウラスか」


 彼を知るおじいさんから話を聞くことができました。そのおじいさんは白い髪に白い長ひげを携えており、今は一人で暮らしているそうです。ここから離れられず、息子さんや娘さんの収入の一部を送ってもらっている、とは本人の談。


「あいつは戦争に行ったっきり帰ってこんかった。帰ってこれんほどの大けがを負ったようでな」

「それで、ラウラスさんは今どこに?」

「さあ……。ワシも詳細は知らん……どこかで生きとったらいいんじゃがのぅ」


遠いどこか……町の向こうを眺めて、彼は言った。


「あの、ラウラスさんってどんな人だったんですか?」


 思い出すよう顔にしわを寄せて、おじいさんはひげに埋もれた口を開きました。


「一言で言えば……馬鹿じゃった」

「馬鹿……と言いますと?」

「鉄砲好きで、それに水を入れて持ち歩いては、いたずらばかりしとった。悪ガキと言った方が良いかもしれんな。あいつが幼い頃は、よく𠮟りつけてやったものじゃ……」


 ひげを弄りながら、おじいさんは思い出に耽っていました。

 アタシはそれを、黙って聞いているだけでした。おじいさんがとても心地よさそうに話しているのに、水を差すわけにはいきませんでしたから。


 結局、所在までは分かりませんでした……。リラクさんのことも聞いてみましたけど、よく覚えていないと返されてしまいました。「そんな子、いたかのぅ。」って。   こんなに小さな村なら、女の子一人の名前ぐらい、覚えてると思うのですが。それとも、ボケちゃってるのかな。


 帰りのバスに揺られながら、アタシはメモを見返していました。

リラクさんが持っていたらしい短機関銃はラウラスさんから貰ったもので、ラウラスさんの鉄砲好きとも繋がります。突然いなくなったっていうのは、徴兵されたということ。戦地で大けがを負い、今はどこにいるか分からない。その間にリラクさんは亡くなってしまった、と。


 辻褄は合うんですが……これ以上どうやって調査しましょう。村にはあのおじいさんしかいないし、身内の情報も分からずじまい。

「やっぱり一筋縄じゃいかないかあ」

夕日のある方角へ、バスは走っていきました。




「ただいま帰りました~……ってあれ?」


 帰ってみると、ぐったりとソファに寝そべるアオガネさんの姿が。

 パソコンは電源が点きっ放しで、書類は散らばっていました。タオルを目にかけ、迫力のない唸り声をあげています。


「うーん……」


 活動中のアオガネさんはだいたいこんな感じで、そこもフォローする必要があります。電源を消そうとパソコンの前に行くと、画面上には大きな銃が映っていたんです。


「これって……」

「ああ……銃の種類を調べていたんだ」


 ゆっくりと起き上がるアオガネさん。ずり落ちたタオルを気にも留めず。


「何か分かったんですか?」

「あの銃、改造品なんだ。コルクが入るように調整を入れたようだ」

「そうだったんですか? なんで言ってくれなかったんですか?!」


 秘密なんてじれったいですよ、1年の付き合いなのに。


「俺も自信がなかったからな」


 アオガネさんは痛そうに目頭を押さえていました。相当頑張ってパソコンとにらめっこしてたんでしょうね。


「アオガネさんの国じゃ、銃より刀が主流ですもんね」

「いつの時代の話だ……まあそれはさておき、その品の類似品が……もう一つのウィンドウにあるやつだ。」

「これ……ですか? あれ、クリックってどっちですか?」

「右……一回でいいからな。遅いからって何度も押すなよ」


 言われた通りクリックしました。すると出てきたのは、画像そっくりの玩具でした。


「サイズは一回り小さいぐらいで、軟らかい専用の弾を発射するものだ」

「なるほど」

「で、お前にはその製作者に会いに行ってもらう」

「はあ。それで、どこの誰なんです? その人」

「下を見ろ……ああ、マウスの真ん中にあるタイヤみたいな部分を、下に転がすように動かすんだ」

「えーっと……これで良いのかな?」


 下に画面が移り、製作者の名前と顔写真が現れました。


「あれ? この人……どっかで……」


 覚えがありました。そこに映る、片目を失った男の姿に。




 次の日出かけたのは、国を跨いだ先。電車を乗り継ぎ、一泊し、さらに乗り継いでようやく辿り着きました。


「それにしても、アオガネさんも来るんですね」


カードをオウギ状に持ち、アオガネさんの表情を窺っていると、


「そりゃそうだろ」


 表情一つ変えず、4枚あるカードの真ん中を引き抜いてしまいます。

アオガネさんは何事もないかのようにカードを捨てています。アタシもとカードを引き抜くものの、手札が増えただけでした。

 うぐぐ……全然そろわない……途中までは順調だったのに。もう5連敗。ここで挽回しないとなのに……。


「今まで散々やらせておいて」

「それとこれとは話が違う。お前切符の買い方も知らなかっただろう、流石についていく」


 次はお前の番だ。視線がそう言っていました。大人の割に幼い顔がじっとアタシを見ていて、なぜだか笑いがこみあげてしまいました。


「ふふっ、優しいんですねっ」


 端っこのカードを引き抜きました。


「からかうな。」

「……あ~もうっ。また揃いませんでした~。」


 捨てられたカードが増えるたび、減らない手札にもどかしさを覚えます。


「さっきからアオガネさんばっかり減ってる気がするんですが……」

「そうだろうな」

「ズルいですよ~。ひょっとしてカード、見えてます?」

「そんな力はない」


 いっそ見えてるって言われたような良かったような気がします。純粋な実力負けって認めているようなものじゃないですか。


 結局この回もアタシが負けてしまいました。6連敗。賭けがなくて良かったです。


「ちなみに、今回はリラクさんも同行している」

「ええっ!? いるんですか? どこです?!」


 ずいっとアオガネさんに詰め寄ります。

 全然気づきませんでした。そんな素振りも見せてなかったから、てっきり二人旅かと思ってました。幽霊との旅なんて、途端に胸が躍りますっ。


「俺の横に立っている」

「そうだったんですか?! あ、そうです、お菓子いります?」


 大体この辺りという所に菓子ケースを差し出しました。


「アタシの大好物、チョコパイですっ」


 もっと持ってくれば良かったですね。幽霊に空腹感覚はないと思われますが、シチュエーションで満たされることもありますし。


 少しすると、パッと一つ消えてしまいました。きっと食べてくれたんですね。


 窓から外を眺めていると、アタシの知らない山や海や町並みが、次から次へと通り過ぎていきます。初めてだから、目が離せないんです。微動だにしない風景を、視野から外れるまで見つめてしまうんです


「ずっと景色を見ていると、見えなくならないでって、つい思ってしまいます。でも新しい景色も楽しみで、心の隅では移り変わってほしいって、そう思っている自分もいて……薄情ですね、アタシ」


 繊細な気持ちになっていたアタシに、アオガネさんは言いました。


「そういうものだ」


 アオガネさんも、同じように景色を眺めて、


「世界なんて何度も生まれ変わっている。人間だって、円を巡るように生まれて死んでを繰り返す。それを我々は知らない。知らないまま生きている。お前は気づいているんだろう? 薄情であったとしても、無知でないなら恥ずべきではないと思うが」


 淡々と語っていました。


 駅に着くと、人がいくつもの群れをつくっていました。会話する女子学生たちのグループ、同じ方面に向かう人たちの列、子どもと手を繋いで歩く男性。

 そんな中、アオガネさんはというと……。


「こんなに多いとは……聞いてない……」


 雑踏を流れていく人たちに、酔ってました。ただでさえ人混みに強くないのに、本来見えないものを見えているんです。気分を悪くするのも無理ないですよね。


「しっかりしてくださいっ。多いのは駅周辺だけですからっ」


 でもここで止まっているわけにはいきません。

 アオガネさんのだらりとした腕をしっかり掴みます。リラクさんは見えませんけど、着いてきていると信じて歩みを速め、目的の場所へ向かいました。




 ——町の隅っこに建つ、木でできた小さな小屋。地図を見ても、ここで間違いないようです。


「あなたが、アルスト・サイリンガさんですね」


やっぱり、


「おや、あの時のお嬢さんじゃないか」


 左目が塞がったままの、金髪の男性。あの時ぶつかった人でした。さわやかな笑みを浮かべる男性、アルストさん。この人こそが、リラクさんが持つ銃の類似品を作っている張本人でした。


「なんの用だい?」

「ラウラスさんについて、お聞きしたいことがあるんです」

「おっと、せっかくだ。広い所でどうだい」


 案内するように背中を見せるアルストさん。


「長くなるだろう?」


 見透かしたような微笑みを湛えていました。雲が群がる中、自分の境遇を知ってもなお輝く太陽みたいで。まるで、アタシたちが来ることを分かっていた……そんな風にさえ思えてしまいました。


 室内には、様々な銃が取り揃えられていました。光沢感のある黒い銃、玩具感の隠れていないカラフルな銃、担ぐのも一苦労な大きな銃、手のひらサイズのものまでありました。どれもガラスケースに入れられ、埃一つ付かないよう保管されています。


「ラウラスは、僕の師匠なんだよ。鉄砲の師。あの人の腕前は凄いんだ」

 ラウラスさんのこと、尊敬してるんですね。楽しそうな口ぶりから見て取れます。

「……戦争のことじゃなければ、称えられたかもね」


 少し寂しそうに、アルストさんは言いました。


「……さて、師匠のことを聞きたいんだよね」

「はいっ」

「どこまで知ってるんだい?」


 アタシたちは、ラウラスさんについて知っている限りのことを話しました。

 うんうんと頷いていたアルストさんも、口を開きます。


「師匠は、とにかく勢いのある人だった。戦場でも、自分の身も省みず仲間を支えていた。かくいう僕も、命を救われた一人さ。あの人が助けてくれたから、目の傷だけで済んでいる」


 アルストさんは開かない目をそっと押さえ、静かに語りました。


「面倒見の良い人でさ。僕たち後輩が落ち込んでいたら酒を交わしてくれたものだよ。戦果を譲ってくれたりもした」


 さらに続けて、


「あとは、そうだねえ。ここに来る前から、小さい子の面倒を見ていたそうでな……名前は確か……リラク……だっけ」


 彼女の名前を、聞き逃すはずもありません。

 リラクさん……。


「その子のこと楽しそうに話すもんだから、ちょっと妬いてしまったよ。師匠がここまで目をかけてたんだ、さぞ可愛らしい子だったんだろうね」


 アルストさんは、苦い粉薬を飲んだみたいにちょっと悔しそうな、でもやっぱり嬉しそうな表情を浮かべていました。


「冷たく引き離したことを気にかけてた……でも、そうでもしないとついてきそうだったー、て。ほんとにその子、師匠のことが好きだったんですね、って皆で笑いあったさ」


 ……リラクさんは、今何を思っているのでしょうか。どんな顔をしているのでしょうか。アオガネさんは、珍しく気遣うような表情をしていました。瞳に光沢の入り込む隙はありません。静かに、誰もいない場所に目を向けて——それが、答えなのでしょう。


「あの人は、戦争から帰ったらになりたい、そう言ってた」


 ……女性?


「あの人にもそんな一面があるのかって思ったよ。「そういえば女でしたね」って言ったら、げんこつもらっちゃったよ。微笑ましい話だ」 


 うん……? 


 ……ひょっとして、リラクさんの会いたい人って——。


「こんな男っぽい軍服じゃなくて、お洒落をして、リラクに見合う人になりたいって」


 ……非常に、とても、気が引けるのですが……。


「失礼を承知でお聞きしますが……ラウラスさんって、男性じゃないんですか?」


 聞くや否や、アタシ……ではなく、アオガネさんにコルクの弾が飛んでいきました。


「なんで俺!?」


 アオガネさんは自身の額を擦り、リラクさんのいるであろう場所に睨みをきかせています。


 ……アオガネさんには申し訳ないですが、アタシはリラクさんに干渉できませんからね。


「よく間違えられてたが、女だ。まあ無理もない、俺も最初は迷ったしな」


 腕を組み、懐かしむようにアルストさんは言いました。

 極少数ではありますが、女性でも兵士として戦争に赴く例はあります。ラウラスさんも、その一人だったのです。


「アオガネさんは、気づいてたんですか?」

「ああ。本人から写真を見せてもらってな。と言っていたから、女だろうと分かった」

「会いたいなら、この場所に行けばいい」


 ポケットからメモとペンを取り出し、さらさらと筆を進めています。手渡したのは、手書きの簡易地図でした。この町の病院への道順だそうで、そこに、ラウラスさんがいるとのことです。


「だけどね、覚悟しておいた方が良い」

「覚悟……?」


 アルストさんは、おずおずと言葉を紡ぎました……聞かなければ良かった……そうとさえ思わせてしまうような事実を——。




 ——師匠はね……戦争のケガで、記憶の大部分はない。




 いつの間にか、笑みは消えていました。


「えっ……」


 じゃあ、リラクさんのことも……?


「僕のことも覚えていなかったからね……ははっ、まいっちゃうよねぇ」


 白い歯を見せ、口角を上げて。笑っているはずなのに、どうして痛ましく見えてしまうのでしょうか。


「師匠はもう師匠じゃない……それでも構わないなら、行っておいで」


 そしてアルストさんは、誰にも聞こえないほどの小さな声で、呟いたのでした。


「…………ほんとに……、なれたらよかったよね」


 成すすべがないほど乾ききった笑みが、アタシの耳の裏を噛みつきました。虚しいことに、まったく痛みがありませんでした。




 アルストさんの小屋を出て、宛てもなく歩くアオガネさんの後ろをついていく。アオガネさんが言うには、宛てが無くなっているのはリラクさんらしいんです。歩いて、歩いて、歩いて……。どこまで行くの? なんて聞けるはずもありません。

 草原に差し掛かり、緑を踏みしめる音が規則的に聞こえます。


 自分には思い出があるのに、相手には無い。自分だけ置き去りにされてしまったみたいで、寂しいはずです。辛く当たった理由も聞けないかもしれません。やるせない気持ちにもなります。なんて言葉をかけたら良いかも分からない。どんな励ましも、口の中で暴発してしまいます。


「……リラクさん。これ食べてください。元気、出るかも……」


 チョコパイを一つ手に乗せ、差し出しました。やはりというか、何時まで経っても消えませんでした。そんな気力も、起こらないんですよね。


「ごめんなさいっ、余計なことでしたね」


 差し出した手を引っ込めようとすると、


「——あなたは、大切な人が覚えていなくても、会いに行くか」


 頬を冷たい風が擦り、うっすら寒気がしました。しかし、そんな風に逆らうようにアオガネさんが立っていました。


「聞かれてるぞ」


 アタシの顔を真っ直ぐ見つめ、アオガネさんは問いました。


 もし、アオガネさんがアタシのことを何も覚えていなかったら……?


 受け入れられなくて、受け入れたくなくて。この人はアタシの知ってるアオガネさんじゃないって、突き放してしまうかもしれません。目を合わせると、アタシしか知らない思い出で溢れてしまう。息もできないほど苦しくて……。


 ——もしも、アタシがあなたに触れられれば、その身体を抱きしめられるのに。手を繋げるのに。


「あのっ、リラクさん!」


 ありったけの声で呼びかける。どこにいるか見えないけれど、リラクさんには、聞こえるはず。


「……アタシがあなたと同じ立場だったら、多分立ってもいられないと思います。息が出来なくなるほどに、泣いてしまいます」

「会っても苦しいだけかもしれません」


 アタシだってアオガネさんに忘れられたら、会いに行きたくないって思うかもしれません。


「でも……! ラウラスさんは、あなたに会いたいと願ったんです!」


何処までも続く空に、声が吸い込まれていきました。


「……今すぐに決められないなら、迷っていても良いと思うんです。アタシが一緒にいます。アタシ、記憶力に自信があるのでっ。アオガネさんもついてますし」


 俺を巻き込むな。言葉にせずとも伝わってきます。でも、いつもよりもその表情は柔らかい。心強いですっ。


「だけど!! ラウラスさんの命は、確かにあるんです! ラウラスさんの中に思い出が無くても、あなたの中にはあるんです! アタシなら、どれだけかかっても会いに行きます!! 一生会わないままだと、あなたと過ごしたラウラスさんが、報われないと思うから……!」


 鼻の先にこみ上げるものがありました。内側から外側へ解き放たれようとしている高ぶりを、無性に押さえたくなるんです。


 ただのエゴかもしれない。本当にそれで、昔のラウラスさんの願いが叶おうとは言い切れません。根拠もない、ただの感情論です。でも、そうする以外、思いつきませんでした。アオガネさんがアタシのことを忘れても、きっと会いに行ってしまいます。思い出せなくても、命だけは変わらないから——。


 風が舞い上がりました。髪がなびき、草木は思い思いにさえずっています。アオガネさんが、まっすぐ彼女を見つめていました。

 風がやむころ、手の中のチョコパイが消えていて、


「……ついてきてくれますか?」


 アオガネさんの声がしました。


「はいっ!!」


 今にも掴めそうな空は、アタシたちを等しく見下ろしていました。リテラさんは見えないし、声も聞こえない。それでも、彼女の気持ちが繋がった気がしました。それが、ただただ嬉しかったんです。じんわりと胸を張る糸が、ほぐれていくのを感じました。雲一つないこの空みたいに、晴れ渡った心地でした。


 病院に着くころには、建物も木々も赤く染まっていました。カラスが日暮れを告げ、飛び去って行く。有無を言わさず人センシティブさせる光。覆われた場所はじんわりと温まっていきました。街灯は目覚める時間。まだ町は明るいけれど、道路を照らす光は存在感を放っていました。風がアタシたちを抱きしめてきて、ここに居ようと誘ってきました。アタシたちは抗うように、足を運びました。


 アタシたちはあくまでも部外者。そうアオガネさんには言われたけど、さっきから緊張が治まりません。身体を動かす鼓動が耳から聞こえ、心臓が飛び出そう。ドアに手をかけたまま、固まってしまいます。


「どうしましょうアオガネさんっ。胸がバクバクいってますっ」


 助けを求めるも、


「お前が焦ってどうする」


 アオガネさんは冷静に跳ね除け、ドアを開けてしまいました。

 夕日が差し込む病室。ベッドの上で上半身を起こし、窓の外を向いているのが、ラウラスさんだそうです。アタシたちが来たことに気づいていないようでした。


「間違いありませんか」


 アオガネさんが、小声でリラクさんに確かめている。そうですか。とだけ囁いた彼は、ずかずかと前に出る。


「ラウラスさん。あなたに用があってここに来ました」


 アオガネさんに続きます。


「同じくですっ、アタシ、チュベロサって言いますっ。こちらがアオガネさんですっ」


 無言で表情も変えずこちらを振り向き、会釈をするラウラスさん。話で聞いていたよりもおとなしい……ですね。


「そう……」


 儚い雰囲気をまとった女性。髪は腰の辺りまで垂れ下がっていて、皺が目元に伸びていました。瞳はどこか違う場所を見ているようでした。アタシたちを見渡ししているのに、目が全然合いません。


「“リラク”という名前に、心当たりはありませんか」

「……知らない……そんな人……」


 冷え切った回答。肝心のラウラスさんは、無反応で知らない場所を眺めっぱなし。それも、どことも焦点が合っていないんです。何を見ているんでしょう。


 ……何も見ていないような気がしました。


 アオガネさんは銃を手に取り、ラウラスさんに手渡しました。


「この銃に見覚えがありますか」


 ゆっくり視線を落とし、ぼんやりと銃を見回している。初めて持つかのようにおぼつかない手つきで銃を触っていました。

 この人が、本当にこの銃の持ち主なんでしょうか……。全然そう見えなくて、別人みたい。


 昔のラウラスさんは、悪ガキで、鉄砲が好きで、面倒見が良い人で————目の前にいる女性とは正反対なんです。リラクさんが言うには本人らしいのですが、少なくとも、会ったことないアタシにとっては、人違いと言われた方が納得できてしまうんです……なら、目の前にいるこの女性は誰かって話ですけど。


 戦争で頭の撃たれどころが悪ければ、性格に変化が起こることもあり得ます。だけど、こんなに劇的に変わるんですね。

 胸がキュウウっと締め付けられました。

 ——師匠はもう師匠じゃない。

 アルストさんが言ってたこと……そういうことだったんですね。


 リラクさんの表情が、姿が見えないのが歯がゆいです。アタシは、ただ立っていることしかできないんです。その事実が、ひしひしと身体を蝕んでいきました。


「……ご存じありませんか」


 もう一度問うアオガネさん。アオガネさんですら、これ以上の追及は無駄かと尻込みをしていました。声色が何時にもまして、硬くなっていました。


「知らない…………」


 ラウラスさんは、じっと銃から目を離せないでいました。


「なのに……」


 小刻みに手が震えていました。


「どうして……」


 ——涙が出ているんですか?

 頬に透明な線が描かれる。顎から落ちた雫を、黒い銃が受け止めていました。差し込む光に反射して、小さな水晶は儚くもまばゆく輝いていました。


 ——命は、ここにあったんです。


 目から溢れ出すものに、ラウラスさんは戸惑っていました。零れた雫を手のひらで掬い、信じられないといった形相で見つめていました。

 ただそれは、ラウラスさんだけではありませんでした。


「……!?」


 突然、アオガネさんは声にもならない驚きの声を漏らしました。ラウラスさんのいる方向に視線が凍りついていました。


「あ……」


 唐突に首を横に向け、彼女は徐に手を伸ばしていました。おそるおそる。彼女が見ていた人。掴みたかった人。抱きしめたかった人。

 ——聞くのも野暮ですね。


 ラウラスさんはそのまま、手を伸ばしたまましばらく微動だにしませんでした。風は鳴きやみ、一時停止の魔法でもかけられたみたいに誰も動きませんでした。

 やがて、伸ばした手のひらを胸元まで引いて、銃をそっと両手で包み込みました。

 ラウラスさんは、静かに微笑んでいました。頬を銃に優しく擦り付けて、大粒の涙をこぼし続けていました。柔らかな西日が、彼女を包んでいました。


「会えたんですよね、きっと——」


 遠く懐かしく、恋焦がれたあの日々に——。




 ——あの時、ラウラスさんには何が見えていたんでしょうか。

 気になって仕方ありませんでしたが、聞かないことにしました。なんとなく聞きづらかったというのもありますが、二人だけの秘密ってことにしておきたかったというエゴも混じっていました。あ、そういえばアオガネさんもいましたね……まあ、あの人は例外ってことで……。


 数週間後、病院関係者から写真が送られてきました。あの銃を大切にしているそうです。時々眺めては、どこか幼い笑顔をこぼしている、とのことです。アルストさんからの手紙が同封されており、「奇跡でも起こしたのか?!」 って書かれていました。奇跡と一括りにして良いのかは迷いどころですが——、その中にあなたもいたんですよ、アルストさん。あなたがラウラスさんの技能を引き継いでくれたから、結びついたんです。


 そして——アタシとアオガネさんは、今日も今日とて相談待ちです。


「ここんところ相談もないことですし、一回ぐらい良いじゃないですか~」

「断固拒否」

「今行かないと、幽霊いなくなっちゃうかもしれないんですよっ」

「良いことじゃないか」


 ソファに座り、漫画雑誌を読み浸るアオガネさん。アタシはというと、その周りで熱烈なアピールをしています。以前知った幽霊屋敷の噂。気になって気になってしょうがないんです。夜7時間しか眠れません。こんなに勧誘してるのに、プレゼンの勢いもアオガネさんの返答でもみ消されてしまいます。


「行きましょうよー、お屋敷~」


 こうなったら、チラシを近づけてやりますっ。顔を塞いじゃうぐらいにっ。


「うーるーさーいー……」


 アオガネさん、突っ伏してしまいました……しばらくは口も利いてもらえそうにありません。


 ……と、このように暇なんです。だから、どんな相談でも極力ご協力いたしますっ。ペットの捜索から悪霊退散まで、末永くお任せくださいっ。女性限定ではありますが、アタシもいるので安心ですっ。寡黙で不愛想な探偵・アオガネさんのサポートを、全力でさせていただきますっ。


 どうぞ、お越しくださいっ、アオガネオフィスへっ!

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命のある場所 わた氏 @72Tsuriann

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