夕闇に沈むあの部屋に、光る海はさざめいて

如月 兎

夕闇に沈むあの部屋に、光る海はさざめいて

 真っ暗な雨がフロントガラスをたたいている。そのままへばりついた水滴は、ヘッドライトの明かりを浴びて、おどろおどろしく光る。

 とし子はワイパーを忙しげに動かし、それらを振り払いながら、帰路を急いだ。

今日も、雨だ。


 玄関の戸を開け、靴を脱ぐ。キッチンに入ると、佳奈はすでに帰ってきており、フライパンを持って料理をしていた。肉の香ばしい匂いが部屋中に漂っている。

 「おかえりなさい。お母さん」

 「ごめん、ごめん。ちょっと仕事が長引いちゃって」

 「全然。相変わらず忙しそうだね。疲れたでしょ」

 「そうね。佳奈も仕事終わりなのに悪いわね。料理ありがとう」

 「どういたしまして。あたしは久しぶりにお母さんやおばあちゃんとご飯食べるの楽しみにしてたし、全然大丈夫だよ」

 佳奈は笑いながら皿をテーブルの上に並べ、出来立ての豚の生姜焼きを盛り付けていく。キッチンには母(佳奈から見れば祖母)もいて、トントンとキャベツを切っていた。テーブルの脇には炊飯器が置いてあり、保温のボタンが点灯している。とし子はごはん茶碗を食器棚から三つ取り出し、それぞれに炊き立てのご飯をよそった。


 「いただきます」

 佳奈が帰ってきて、久しぶりに三人での食事。お互いの職場の話、休日の過ごし方、趣味のこと、親子のとりとめのない会話がとめどなく続いていく。それを隣でうんうんと頷きながら楽しそうに聞いている母。温かな時間がゆっくりと過ぎていく。

 きっとこんな日常こそ幸せと呼ぶべきものなのだろう。とし子は心からそう思った。大好きな母や愛すべき娘と一緒にいられるこの時間が本当に好きだった。しかし、光が強くなればなるほどに、影もより一層深く、濃くなるように、あの過去が、忘れもしないあの日々が嫌でも脳裏をよぎってしまう。


 仕事を終え、雨降る空の下、あの家に帰る。日は沈みかけ、外はもう暗い。でも家には電気もついておらず、外よりももっと薄暗い畳の部屋で、変に眩しく光っているのは、携帯型ゲーム機の小さな画面。

 「ただいま」

 薄暗い夕闇の部屋で一人黙ってゲームをしている幼い娘に、とし子は小さく声をかける。返事はない。よく構ってくれた父も、大好きな妹もいなくなった部屋で、佳奈はたった一人で母の帰りを待っていた。

 いや、あの子は私を待っていてくれたのか、私はまだあの子たちの母を名乗っていいのだろうか。家族がバラバラになったのは、やっぱり私のせいなのだろうか。


 「お母さん。どうしたの?」

 佳奈の声でハッと我にかえった。

 「あ、なんかぼーっとしてたみたい。ごめんなさいね」

 心配をかけさせないよう、咄嗟に笑い返す。

 「別にいいけど、働きすぎじゃないの?ちゃんと休んでる?」

 佳奈の心配りが嬉しい。でも、それと同時に申し訳なさもある。佳奈は私のことを恨んではないのだろうか。私の選択は、本当にこれでよかったんだろうか。もしかしたら、別の選択肢もあったのではないだろうか。何度も繰り返してきたどうしようもない自問自答に、また苛まれていく。でもそれを口に出す勇気はなかった。

 「大丈夫よ。それより明日が楽しみね。久しぶりにみんなでお出かけできるんですもの」

 「そうだね!あたし行って見たい場所があって、明日はあたしが運転するからそこ行ってみよ!」

 「いいわね。今度は山?それとも海?」

 「今回は海。石川の奥能登にね、すっごく素敵な景色の見れる海があるんだって」

 「それは楽しみ。佳奈、本当に自然が好きよね。そういえば、由美もそろそろ帰ってくる頃かしら」

 「うーん、どうだろ。夜遅くなるかもってメールで言ってたからねー」

 「そう、私は由美が帰ってくるまで起きてるから、佳奈は好きな時間に寝なさいね」

 「うん、そうする。おばあちゃんも早く寝なよ」

 「そうしたいんやけど、ばあちゃん、最近全然眠れんでなー」

 「えー。おばあちゃん大丈夫なの?」

 「大丈夫よ。いつも同じこと言ってて、もう口癖みたいなものだから」

 心配そうに祖母を見つめる佳奈に、とし子は笑いかけた。佳奈も由美も本当にいい子に育ってくれた。人を気遣い、人の幸せを願える、心優しい人に。でも、この子たち自身の幸せはどうなのだろう。今日、同じお店で働く女の子と話した内容が、まだ心に重く残っている。そういえば、あの子もちょうど佳奈と同じくらいの年だ。佳奈は、由美だって、やはり彼女と同じようなことを思っているのだろうか。だとしたら、やっぱり、私は・・・

 瞼を閉じると、またあの薄暗い畳の部屋がぼうっと浮かび上がってくる。少女は今も、たった一人でそこにいて・・・

 雨が、止まない。


 「そしたら、部屋戻るね」

 夕食を終え、お風呂も上がり、佳奈は二階の寝室に上がっていった。キッチンと隣接するリビングでは母が寝っ転がりながらテレビを見ている。とし子は先ほどまで食事をしていたキッチンテーブルの椅子に座り、もう一人の娘の帰りを待った。

 由美は県外に、それも少し遠い土地に住んでおり、地元に戻ってくることはまれだ。とし子が前に会ったのも、もう一年近く前のことだった。それでも由美と年に数度、顔を合わせられるようになったのは、彼女が就職して一人暮らしを始めてからで、それ以前は全くと言っていいほどに会うことはなく、中学、高校時代の由美を、とし子はほとんど知らなかった。

 由美はいつだって笑顔で帰ってきて、楽しそうにしゃべり、また自分のアパートに帰っていく。とし子はたとえたまにであっても、笑顔の由美を見られて本当に嬉しかった。しかし同時に、彼女はその笑みの裏側で、実は暗い影を落としているんじゃないだろうか。そしてその原因は、私にあるんじゃないだろうか。どうしてもそんな考えに苛まれてしまうのであった。


 夜の11時を過ぎ、紅茶を入れ、カップを口に運ぼうとしたとき、ふいにカラカラと玄関の開く音がした。そして、ただいま、という声と共に由美が顔を出した。とし子はどくんと一度大きく脈打った心臓をなだめるようにゆっくりと息を吸い、最愛の娘に笑いかけた。

 「お帰りなさい。遅かったわね。夜ご飯は大丈夫なの?」

 「友達と食べてきたから大丈夫。疲れたから今日はもう寝るよ〜」

 「お風呂は?」

 「明日の朝〜」

 「そう、分かったわ。ゆっくりお休みなさいね」

 「あーい」

 由美は大きなあくびをしながら、部屋を出ていった。誰もいなくなったキッチンで、まだ熱い紅茶を飲む。テレビの音がやけ大きく聞こえた。リビングに顔を向ければ、母は電気もテレビも付けたまま、ぐっすりと眠っている。とし子は眠る母のそばにそっと座った。

「ねえ、お母さん。私、今とっても幸せよ。佳奈がいて、由美がいる。それだけで十分なの。あの子たちが心の奥底で私を恨んでいたとしても、憎んでいたとしても、それでも、私は幸せなの」

ふふっと小さく笑った。母に掛け布団をかけ、部屋の電気とテレビの電源を切る。それからキッチンの電気も消して、部屋を後にした。


 「おー!やっぱり思った通りに素敵なところ!」

 目の前に海の広がる草原に立ち、年甲斐もなくはしゃぐ佳奈。

 「不思議な感じのする場所だね〜。とりま写真撮っとこ」

 そう言ってスマホを取り出す由美。

 天気はよく、涼しい風が秋の始まりを告げている。今日、とし子たちは佳奈に連れられて能登の海にやってきていた。

 見れば海には飛び石が設置され、歩けるようになっている。調べてみると、ここは磯の観察路と呼ばれており、飛び石は海の生物を観察しやすくするために作られたらしい。その目的はともかく、青い海と青い空の狭間に並ぶ石の道は、どこか非現実的な風景に思われ、この心もまた、日常では感じ得ない、不思議な高鳴りを覚えていた。

 「こんないいとこに連れてきてもらって。ありがたや、ありがたや」

 隣で母が手を合わせる。とし子はゆっくりと海に向かって歩き、海岸から続く飛び石の少し手前に腰を下ろした。

 「お母さん、行かんのー?あたし、ちょい歩いてくるわー」

 由美はとし子のそばを通り過ぎ、飛び石を渡っていく。

 「あ、あたしも」

 その後ろから佳奈もやってきた。由美の後に続き、飛び石に足をかける。その後ろ姿をとし子は優しく見送る。ふいに佳奈が振り向いてこちらを見た。足の向きを草原に戻し、とし子の目の前まで戻ってきた。

 「どうしたの?ティッシュ?」

 ううん、と笑って、佳奈はとし子に手を差し出した。

 「お母さんも一緒に行こうよ!」

 「佳奈・・・」

とし子の心が空に舞う風船のように軽くなる。それに引っ張られるように、佳奈の右手をつかみ、ふわっと立ち上がった。

 「おばあちゃんも行こうよー!」

 「ばあちゃんはここで見てるさかい、行ってこられー」

 母はそう言って少し離れた場所から手を降っていた。

 「えー、うん、分かったよー!」

 佳奈は少し残念そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻り、再び飛び石を踏んだ。とんとんと軽いステップを踏んでいく娘の後ろ姿を瞳に映し、とし子の心は波のように揺れ動いていた。

海と空の狭間で、光も影も同じ重さで釣り合って、目の前に佳奈がいて、この先には由美もいて、だから、きっとだから、今日だけは、特別で・・・

 「ねえ、佳奈」

 気づけばとし子は、自分でも分からぬ内に、佳奈を呼び止めていた。

 「どうしたの?お母さん」

 一瞬の長い静寂の後、とし子はためらいながらも、佳奈に尋ねた。

 「佳奈はさ、今、幸せ?」

 佳奈は、え?と要領を得ない顔をした後、クスッと笑った。

 「どうしたの?急に。あたしは今、幸せだよ。こんな楽しい時間を過ごせてるし」

 「ごめんね、急に変なこと聞いて。えっと、あ、そう、昨日さ、職場の子と話しててさ、・・・」


 その子には夢があった。たくさんの夢が。でも親に反対され、仕方ないから親の言う通りに高校、大学と進学し、就職する道を選んだらしい。でも、その職場環境が自分には合わず、結局数ヶ月で辞めてしまった。それからいくつかの職場を転々とし、今はとし子と同じ職場でアルバイトで働いている。彼女は口癖のように何度も繰り返していた。

 「全部親のせい」

 彼女がやりたいこともできずに今こんなところにいるのも、親が彼女の人生を決めたかららしい。

 「私はあの人たちの言うことをちゃんと聞いて、その通りにしてあげたのに、なんで幸せになれないのよ。親を選べないってほんとに辛いわね」

 そう言って彼女は不満そうに仕事に戻っていった。


 佳奈は時折相槌を打ちながら、とし子の話にじっと耳を傾けていた。そして全て聞き終わった後、少し間を置いてはっきりと言った。

 「それは、違うと思う」

とし子の目が大きく見開く。その瞳に映る佳奈は真剣な表情で真っ直ぐと、とし子を見つめていた。

 「そう、思うの?でも親を選べないのはその通りで、もしもっといい親だったらもっと幸せな人生を送れたかもしれないのよ?」

 「確かにね。あたしはその人のこと知らないし、もしかしたら本当に子を縛り付けるような親なのかもしれない。それは分からないから、その人の主張を全否定するつもりはない。でも、」

 佳奈はスッと息継ぎをして言葉を続けた。

 「でもね、少なくとも私は、たとえ何があろうとも自分の人生を選んだのは自分自身だと思っているから。だから、例えば誰かに何かを勧められても、決められても、最終的にそれを決めるのはあたしで、その結果が何であろうと、それはあたし自身の責任だと思ってる。それを都合が悪いからって親や環境のせいにしたりは、絶対にしない、したくない」

 一際高い波が寄せる。波の狭間で、胸に手を当てるとし子の姿が大きく揺らいだ。

 「そう、なの?佳奈や由美だって、ある日、急に離れ離れになってしまったじゃない。あなたたちの想いなんて関係なく。それでも佳奈はそれを受け入れているというの?私を、家族をバラバラに引き裂いた母を、恨んでは、いないの?」

 佳奈は一瞬驚いた表情を見せ、それからふふっと笑った。

 「恨むって何?笑。こんな娘想いの素敵なお母さん、感謝はしてもし尽くせない程だけど、まさか恨んでるわけがないじゃない」

 「ほん、とに?由美はどうなのかしら。仲の良かったあなたたちを離れ離れにしてしまって、二人には本当に寂しい思いをさせてしまって、由美には何もしてあげられなくて・・・」

 「由美のこともそんな気負わなくていいよ。ほら見てみて、由美ったら海に手を突っ込んで遊んでる。あの子はあんなに自由に生きてる。それにあの日だって、あの子は自分の意思でそれを選んだの。あたしに言ってたよ。新しい生活が楽しみだってね」

 夢中で海と遊んでいる由美を見ながら、佳奈が笑った。その光景を見つめるとし子の中から、これまでずっと押し込めていた想いが言葉になって溢れてくる。

 「そっか・・・そう、なのね。お母さんね、ずっと悩んでた。もし、家族が家族のままいられたら、本当はもっと幸せになれたんじゃないのかなって、私の決断が、家族を、そこにあったはずの幸せを壊してしまったんじゃないのかなって。あなたたちは、きっとお母さんを恨んでるんだろうなって。・・・ずっと、苦しかった、謝りたかった。ごめんなさい。ごめんなさい・・・」

 佳奈の伸ばした手が、とし子の髪に優しく触れる。

 「謝らないで。言ったでしょ。どんな環境にあったとしても、あたしはあたしの意思でこの道を選んだの。由美だってそう。そして今、うんうん、今だけじゃない、あたしはずっと幸せだった。それはきっとお母さんがお母さんでいてくれて、家族のみんながみんなでいてくれたから。だからあたしがお母さんに伝えたいことがあるとしたら、それはたった一つ」

 青く輝く世界で、佳奈はにっこりと微笑んだ。

 「いつもありがとね。お母さん」

 心の奥底に溜まっていた暗く重い何かが、まるで羽でも生えたかのように胸を飛び出し、大空に吸い込まれていく。とし子は、泣いていた。

 「ありがとう。ありがとう・・・!」

 「行こ!由美も待ってる」


 その光景を、とし子の母は草原から、嬉しそうに眺めていた。

 「ようやく帰ってきたようだね。一人で寂しかったろうに。さあ、行ってらっしゃい。とし子や」


 瞼の裏には、あの畳の部屋がある。でも、窓からは光が差し込み、もう、暗くはない。少女は一人。窓の外を眺め、そっと耳を澄ます。その向こうから響く波のさざめきに、そして、愛しい娘たちの笑い声に。少女はゆっくりと窓を開け、澄みきった青空を仰いだ。それから、懐かしく、新しい光の中へ、幸せそうに駆けていくのであった。

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夕闇に沈むあの部屋に、光る海はさざめいて 如月 兎 @UsagiKisaragi

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