第26話 魔界の常識

 太陽が中天を越えた頃、魔王一行を載せた馬車は見晴らしの良い草原に引かれた一本の道を走っていた。平らに均した土を蹴る馬の脚は出発時の騒々しさと一転し、のんびりとした歩調だった。


 それと同じくらい、荷台にはのどかな空気が漂っていた。各々食事を口にするなり食後の昼寝をするなりでゆるりと昼下がりを過ごす。


 御者の座る場所である、荷台の前方に座る魔王はその小さい口一杯に頬張っていた昼飯をごくりと飲み込むと明るい口調で感想を述べた。


「やはりイグニスが作る軽食は旨いのう!ついつい食べ過ぎてしまうのじゃ」

「あむ……そうだな。この肉厚なパンに挟まれたトマトが肉と絡んで旨い。瑞々しいレタスのおかげで喉が渇くということもないしな。毎食これでもいいかもしれん」


 彼女の左隣に座っていた魔法使いもそれに同意すると満足げに腹をさすり振り返る。後ろでは、イグニスを挟んで座っていたリィンとケルベロスがそれぞれ彼女にもたれるようにして寝ていた。


 唯一起きているイグニスはというと、二人のことを穏やかな笑みを浮かべて眺めている。邪魔しては悪いと前に向き直った魔法使いは隣の魔王に対し苦言を呈した。


「それはそうとしてだな……御者やれって言うのは分かるがせめて魔物の操り方位教えてくれたって良かったんじゃないか?」

「それを言う前にお主が普通の馬を扱うように発車させたからじゃろ。まったく……」

「あーはいはい俺が悪うござんしたよ。にしても、魔力でコントロールできるとは思わないだろ普通」


 そう言う彼の手には手綱は握られていない。空白のページが開かれた本とペンを両手に持ち、なにかあればすぐに書き留められるような体制だった。


「魔界じゃ常識じゃが?」

「魔界に昨日来たばかりなんだが?」


 これ以上張り合っても埒が明かない、と言いたげにため息を一つ吐いた魔王は語る。


「であればお主にはまず魔界の常識を身につけて貰わないといかんのう。地理、歴史、慣習から日々の挨拶まで。みっちりと仕込んでゆくからの」

「じゃあ地理から頼む。結局朝食の後さっきは森人の国しか紹介して貰えなかったからな」


 そう答える魔法使いの視線はまっすぐ前を向いており、その先には遠景ではあるものの先程言及された森があった。


「まずは今向かっているノトス大森林から詳しく説明してやろう。国土の8割以上が森で覆われていての、それ以外は今我らがいるような草原じゃ。今見えている森に入るとそれ以降はずっと森じゃい」

「間引きしたりして整備はしないのか?」

「そこは森人に管理を一任しておるが……年々拡大しておりこのままいけばもう300年程度で草原がなくなる試算じゃ」

「あと1000年もしたら魔界全土が緑に覆われそうだな……」


 そう答える彼の目線は手元の本にあった。右のページの端辺りに「ノトス、森8割」とだけ書き顔を上げる。魔王はそれを待ってから次の国の説明に入った。


「まぁ魔界にも永久凍土が有るゆえ緑に覆われる事はなかろう。北に目を向けるとやたら高い山がポツンと一つだけあるじゃろ?あれがこの旅の最終目的地でもある、龍人の国グラースじゃ」


 説明の途中、魔王は魔法使いの背後を指す。彼がその先を見ようと振り返ると、そこには遠景にそびえる一つの山があった。雪化粧をしたその山は浮かぶ雲がその中腹に漂っている辺り、かなりの高度が有ることが伺える。


「ここからでは一つの山にしか見えないが実際は複数の山が寄り添うように隣接している連峰での、登る際は一苦労するぞ」

「あれを登るのか?何の為に?」


 再度振り返り、魔王の顔を見ながら魔法使いは問う。対して魔王はやれやれ、といった様子で答えた。


「そんなもの戴冠式のために決まっておろう。女神アルマ様に謁見するのじゃぞ?魔界で一番高く、天界に一番近い場所で行うのが道理というものじゃろうが」

「そういうものなのか……ということは頂上まで行くんだよな?考えただけで憂鬱なんだが」


 魔法使いはため息混じりに答えると手元の本のページを跨ぐように「グラース、最終目的地」と書き記す。そして右にいる魔王の後ろへと目線をやり、彼女に質問する。


「南はどうなっているんだ?一見すると壁みたいになっているが」

「南は人間界との境での、到底登ることの出来ない高さの山がまるで壁のように二つの世界を隔てておる。頂上に何があるのかは我も知らんが、あそこにこそ天界があるのではないか、と考える学者もおる」

「じゃあ今すぐ登りに行こう」

「やめんか阿呆。アルマ様が機嫌を損ねてしまったらどうする」


 冗談だ冗談、と彼はおどけるが、内心は今すぐにでも向かいたいと思っていた。


 例え天辺の見えない山々だろうが、好戦形態アグレッシブで身体能力を強化すれば楽々登ることができ、もしそれに女神が腹を立ててもこの力で屈服させることすら可能。それほどの力を持っているのだから。


 そう、彼は魔法が使えるようになり、慢心していた。だがそれを顔には出さず、他の地方を紹介してほしいと頼み込む。


「それで、残るは西だが……もしかして獣人の国か?」

「正解じゃ。カンが鋭いのう。イルシールは穀倉地帯での、魔界の食糧事情の9割でここで賄っておる。今朝やさっき食べたパンの小麦や野菜はこの国で作られておる。さっきまで我らがおった魔都サタランから少し西に進んだだけで金色の小麦畑が広がっておるからの。壮観じゃぞー」

「となると、旅の大まかな順路は森人の国ノトス、獣人の国イルシール、龍人の国グラース……といった感じか?」

「そうじゃな。魔界全体は大きく分けると先の三つの国になり、各々10程度の村や町を持つ。まあそれぞれの町などは着いたときに説明してやろう」


 からからと笑う魔王の説明を聞き、魔法使いは「イルシール、穀倉地帯」とページの左端に書く。そして大方完成した魔界の地図を隣の彼女に確認してもらおうと差し出したが、彼女の答えは予想だにしていないものだった。


「文字が書かれていないではないか。記号じゃと後々見返したときに苦労するぞ」


 彼の文字は、汚すぎて文字と認識されなかった。

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