第8話 魔物の出現と一触即発

 その日、わたしとイリヤさんは居間で香草茶ティザンを飲んでいた。婚約する前に彼とよく飲んでいた、カミツレを煎じたものだ。ちょっと濃い口当たりが、果物の蜂蜜漬けとよく合う。

 堪能しすぎて花嫁衣装を仮縫いする前に太ってしまったら悲しいので、ほどほどにしておく。


 そんな時だ。イリヤさんの銀色の耳がぴくりと動いたのは。

 扉を叩くのもそこそこに、血相を変えたセルゲイさんが入室してきた。


「どうした、セルゲイ」


 イリヤさんが尋ねると、セルゲイさんは険しい顔で告げた。


「北の国境付近に魔物が現れたらしい。ツチグロトカゲだ」


「何だと……?」


 神聖リュピテール王国は国土を結界で覆い、強力な魔物の侵入を阻んでいる。魔物の中では魔獣に分類されるツチグロトカゲは異能を持つ毒トカゲで、結界内には入れないはずだ。


 北の国境といえば、マーンツ王国との間に流れる大河カーシズで、カリストの領境でもある。

 カーシズの南岸にはリュピテールの砦があり、外敵を見張り、有事の際に周辺の村落の人々を収容する役目を帯びている。


 しかし、実際に北の国境の防波堤となっているのは、堅牢な城塞都市アルシーであり、イリヤさんが率いる軍隊だ。

 渡河が不可能ではない以上、王都からそれほど離れていないアルシーは国防にとって重要な地だといえる。武に秀でた王族のイリヤさんが、このカリストの領主に任じられたゆえんだ。国王陛下のイリヤさんへの篤い信頼が窺える。


 まあ、見方を変えればイリヤさんは、天然の要害に守られ、王都に比較的近いカリストを任されたということになる。

 国王陛下が初孫であるイリヤさんをどれほど大切に想っておいでになるかがそれだけでもよく分かり、大変ほほえましい話だ。


 それにしても、なぜツチグロトカゲのような強力な魔物の侵入を許してしまったのだろう。

 まさか、魔物を一時的に弱体化させる魔法や魔導具を使って、マーンツがツチグロトカゲを送り込んできた……?

 イリヤさんがさっと立ち上がる。


「被害は?」


「遭遇した村人が一人、重症を負ったそうだよ。毒を受けて高熱が出ているって。目撃情報によると、ツチグロトカゲは森に入っていったらしい」


 イリヤさんの顔色が変わった。


「俺が指揮を執る。兵を集めろ」


 セルゲイさんは頷き、退室した。

 わたしは、同じく部屋を出ようとするイリヤさんに声をかける。


「イリヤさんが行くならわたしも行きます」


「ダメだ。ツチグロトカゲは魔法防御力の高い魔物だぞ」


「それなら、戦闘の補助役と回復役を務めます。毒を受けた領民の解毒と治癒もしたいですし」


 イリヤさんの顔に逡巡が走る。

 無理もない。領民同士の口論にさえ、わたしを立ち入らせようとしなかった彼のことだ。それに、傭兵として魔物退治に携わってきたイリヤさんには、ツチグロトカゲの恐ろしさがよく分かっているのだろう。


 でも、多分、イリヤさんはわたしを連れていきたくないと本心から思っていながら、わたしの魔法を必要としている。だからこそのあの表情だ。


「イリヤさん、わたし以上に治癒魔法を使える魔法使いがいますか?」


 わたしが畳みかけると、イリヤさんは沈黙のあとにため息をついた。


「……仕方ないな。危険だと思ったら、すぐに逃げろ。いいな?」


「はい!」


 元気よく返事をしたわたしは、イリヤさんとともに居間を出た。扉の脇には警衛中のエヴァリストさんが姿勢よくたたずんでいる。イリヤさんは彼に話しかけた。


「北の国境付近に魔物が出た。エヴァリスト卿、そなたもついてこい。実力が見たい」


「ご命令ならば従いますが……」


 エヴァリストさんの視線がわたしに向けられる。


「まさか、大聖女さまもご同行なさるのですか?」


「はい。補助役として戦闘に参加します」


 わたしの答えに、エヴァリストさんは眉をひそめた。


「それは、殿下のご命令ですか?」


 ちらり、と剣呑な眼差しがイリヤさんを刺す。

 エヴァリストさんが獣族を嫌っているかもしれない、という話を思い出し、わたしは慌てて否定する。


「違います! わたしが無理を言って、同行を許可していただいたのです」


 エヴァリストさんの顔に非難するような色が浮かんだ。その表情を消さないままに、イリヤさんと目を合わせる。


「だからといって、ご自分のご婚約者を危険な場所にお連れになるというのは、いかがなものでしょうか」


 イリヤさんは正面からエヴァリストさんの目を見返した。


「……わたしが彼女のことを大切にしていないとでも申すのか。そなたは」


 静かな口調だったが、怒りを帯びているように感じられる。イリヤさんは自分のことを悪く言われても基本的にやり過ごす。ところが、近しい人のことを悪く言われたり、わたしへの愛情を否定されたりすると強い怒りを覚えるらしい。


 以前、「イリヤ殿下は自分の立場を強化するために大聖女と婚約した」という陰口を叩いていた貴族に凄んだこともあるくらいだ。

 それだけ、わたしはイリヤさんに想われているのだ。場にそぐわない気持ちだけれど、なんだか嬉しい。


「大切にお想いなら、そもそもお連れにならないでしょう。こちらでお待ちになるよう、ご説得なさるのが道理かと存じますが」


 エヴァリストさんも譲らない。イリヤさんが凍てつくような声を出す。


「取り消せ」


 まずい。本格的にまずい。この前は領民の仲裁をしたイリヤさんが、今回は完全に仲裁される側だ。

 わたしは二人の間に割って入った。


「お二人ともおやめください! エヴァリスト卿、普段から殿下は誰よりもわたしのことを案じてくださいます。ただ、今回はツチグロトカゲが出たというので、領民の安全のために、一刻も早く事態を解決しなければ、とお思いになったのです。戦場で魔獣と戦った経験もあるわたしなら、必ずお役に立てますから。それに、ツチグロトカゲによって毒と傷を負った領民がいるのです。わたしなら治せます」


 エヴァリストさんの顔が強張った。


「ツチグロトカゲが……」


 イリヤさんが目には冷たい光を宿したまま、口角をつり上げる。


「どうした? 怖気づいたか」


 挑発するような表情と口調だ。こういう時のイリヤさんは得も言われぬ危険な香りがして、そこがまた、たまらなくかっこいい。

 エヴァリストさんはキッとイリヤさんを睨めつけた。


「そのようなわけがないでしょう。仮にも、わたしは栄誉ある神殿騎士です」


「ならば、黙ってついてくることだ」


 イリヤさんはそう言い捨てて立ち去ろうとした。わたしが彼とエヴァリストさんを交互に見やり、おたおたしていると、イリヤさんに手を掴まれた。といっても、乱暴ではなく、どこか労るような触れ方だ。

 人前にもかかわらず、わたしは胸をときめかせながらイリヤさんに手を引かれ、歩いていく。


 しばらくして、うしろから長靴の音が聞こえてきた。

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