下旬

 8月21日 7時~19時

 宮野さんからお子さんはいますかと聞かれた。自分が既に結婚していることが当然かのような年齢である事実が頬を叩く。

 店長が遅刻をした。誰も遅刻の理由を問わなかった。

 タカユキがゲームをしたいと、押入れからWiiを取り出した。スマッシュブラザーズXをゲームキューブのコントローラーでプレイした。聞けば、日中、スマブラSPのゲーム実況を観続けていたらしい。Switchを買ってくれとねだられる。働いて貯め、自分の金で買うように言った。そして、明日、面接の希望を伝えるそうだ。

 図体のでかいドンキーコングにリュカの電撃をあてることは容易かった。タカユキは昔と変わらず、こちらを一撃で仕留めようと隙のある攻撃ばかりを好む。だからドンキーコングが得意とする間合いには入らず中距離から攻めるだけだった。


 8月22日 7時~18時

 残業時間の調整もあり、今日は早く帰ることができた。難波で途中下車し、BOOK・OFFに寄った。岩波の書籍を売っている本屋は、もはや新刊書店ですら珍しい部類だろう。狭量さを自覚しつつも、自社の執行役員が新入社員に対して好きな小説に『半沢直樹』シリーズを挙げたことは、未だに物笑いの種だ。サラリーマンの生き様を描いて爽快感があるとか。

 この世の小説なんか一切合切読む必要がない。世の中のことが知りたければ、新聞や週刊誌を購読することだ。頭が良くなりたければ学術書を読めばいい。安価に済ませたければ大学教授が書いた新書がいい。最低限、次に何を読めばよいかまで記されている。面白い文章が読みたければエッセイだ。自分と価値観が近い著者の文書は清涼飲料のごとく心地よい。未知との遭遇がしたければ哲学をするべきだ。人間に触れたければ、回想録、インタビュー、評伝の類いを紐解く。綺麗な文章で感性を磨きたければ韻文を読め。均整のとれた物語なら戯曲を読め。

 少なくとも俺にとって最良の小説とは、読者から言葉を奪う。人前で小説について語ろうと思えなくなる。最良の小説を読むとは、まるで言葉で出来た樹海の中で水死するかのような経験だ。


 8月23日 7時~19時

 ガナッシュのマカロンを、誰かの差し入れでいただく。チョコレートが好きなのは昔からだが、ここ数年、チョコレート以外を旨いと感じなくなっている。新海誠の『言の葉の庭』でもそのようなシーンがあったはずだが、今の俺は刺激の強い甘味でないと悦べない。

 タカユキが俺の誕生日を祝った。


 8月24日 休日

 赤ワインを飲むことにした。セブンイレブンで買った。

 あまり同意を得たことがないが、アルコールの種類によって、酔った時の心地がまるで異なる。日本酒やビールではハイになる一方、赤ワインはロウになる。ロウでいることが好きだ。


 8月25日 7時~20時30分

 タカユキにゴミ捨てを命じてみた。カラスがゴミ箱を漁らないようにするために、緑色のゲージにゴミを捨てること、という説明をタカユキは理解できないと言った。カラスが僕たちの家のものを漁ると思えないと言った。

 いつの日か異様な苦痛に見舞われたタカユキと因果関係があるとは毛程も思っていないが、あの日、隣の住人が孤独死したと聞いた。


 8月26日 7時~19時

 真っ黒のTシャツの上に白のキャミソールで帰ろうとする宮野さんに目を奪われた。唖然として瞬きすると、もう彼女はいなかった。着方を間違えたはずがないのは、俺がボクサーパンツをジーンズの上に履いたことがないことからも明らかだ。ワイシャツにタンクトップを重ね着したこともない。すぐさまグーグル検索をすると、そのようなファッションがあるとのことだ。最初に試した人に、インタビューすべきだと思う。

 タカユキがタンクトップでハローワークに行くのも、止めるべきではないのだろうか。答えは出ている。タカユキの服にはこれからも口を出す。


 8月27日 7時~20時

 桜庭(桜田かもしれない)さんを見かけた。カゴの中にサーモンの刺身が入っていた。笹木さんにその事を伝えておいた。まだ気にしていたのか、と呆れられた。

 東京のワクチンは抽選だ。批判が集まるのは十分理解できるが、ある一点の条件を満たした場合、むしろ抽選の方がよいと思う。全国民のワクチンが抽選であるならばの話だ。現状、職業、出身地域、年齢、コネクションで順番が決まってしまっている。抽選はよほど平等な方法だ。だが、もう遅い。今、抽選にするということは単なる無策を意味している。


 8月28日 7時~19時30分

 トーマス・ベルンハルトの小説が出たらしい。『推敲』というタイトルのシンプルさは『消去』でも思ったが、さっぱり内容の分からない小説だ。

 そもそも彼の小説は、なぜあそこまで世の中や身内への呪詛で溢れているのか。確かに面白いものの、なぜ彼がオーストリアを代表する現代小説の書き手と呼ばれるまでの評価を得たのだろうか。

 タイトルで内容の分からない小説は実用性に欠けるのだろうが、タイトルで分かることを突き詰めればAVになるだろう。

 安倍晋三が辞めて一年が経った。菅義偉もそのうち辞めるだろう。


 8月29日 7時~20時

 決勝戦に進んだ高校のうち、奈良の方は受験のため訪れたことがあった。真冬の田舎道をずっと歩いた。最寄駅の手前の坂で片足を捻って転び腕時計が割れた。

 関西同士の決勝、普段は売場か事務室にいる店長までをも惹き付けるようだ。笹木さんもいなかった。

 以前から考えていたことだが、高校野球が社会でどのような位置付けになっているのか。少なくとも、学業のひとつと見なすことができない。建前はそうなのだろう。しかし学業である以上、女子生徒に門戸が開かれていないことを、俺の心情は許さない。

 プロ野球のようなショーだとすれば、学生には給与が発生すべきだ。朝日新聞はじめメディアは彼らが得るべき富を簒奪している。


 8月30日 7時~21時

 店長が万引き犯を事務室に連れ込んでいた。以前から現れていた女だ。彼女がどうなるのか、俺たちには知らされることはない。二度とこの店には現れないだろう。

 入管で収容者への暴行事件があったという。事件はまだ起きるに違いない。あるいは、いまだ表沙汰になっていないだけかもしれない。

 何かの一存で、この国では罪人かどうかが決定するらしく、もはや俺たちは法の庇護下にいない。


 8月31日 休日

『NAMIMONOGATARI』というイベントは今まで知らなかった。常滑で行われるということは、つまり夭逝したラッパーのTOKONA-Xとなにか関係があるのだろう。

 明日、清掃員の面接を受けるタカユキは、鳴り止まぬ耳鳴りを苦に、うわ言を呟き続けていた。うるさいうるさいと一日中悶えていた。夕方、椋鳥の群が電線で騒いでいる。夕闇に溶け込む椋鳥は我々を嘲笑するかのように糞や羽根を撒き散らして明け方にはどこかへ消える。

 玄関のクモの巣に羽根が吸着されていた。気がつけば路上に蝉の死骸もいない。

 とりあえず、今日で8月が終わる。

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2021年8月 古新野 ま~ち @obakabanashi

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