(un)welcome

うつりと

堀幸

「お前、これ直ぐにやらなきゃいけないのが分かんねえのかよ」

 私に向かって大声で罵声が浴びせられる。

 私はリンディ出版という中堅の出版社で営業主任を務めている。国立市にある小さなマンションの一室に、愛犬と共に暮らす四十も半ばを過ぎたくたびれた男だ。

同期には部長、局長クラスに昇格した者も多くいる。勝ち負けを付けるならば大きく負け越している側だ。

私にそんな技量や裁量が自分にあるはずも無く、こつこつと仕事を熟し、自身と愛犬が日々暮らしていけるだけの糧を得られればそれで良かった。

そして私に罵声を浴びせたのは、同じ課で同じ主任職にある板井氏。

私より十は年下の男性で、常に勝ち気でどこから湧いてくるのか分からない自信に満ち溢れている。常に大声で弱きを叩き、強きに上手く取り入る人だった。茫洋としている私に比べて頭の回転、切り替えが速い事は羨ましく、認めていた。

年を食って未だに同じ職位の私を、何かに付けて目の敵にする。受け入れられていないのをひしひしと感じた。

先程の罵声も理不尽な話で、私は課長に判断を仰ぐ必要が有る書類を机上に置いていただけで、課長は今電話中である。一挙手一投足を見張って叩く時間があるならそちらこそ仕事をしろと言えたならどんなに清々するだろう。

そんな毎日のストレスはその日その日で何とか耐えしのぎ、解消されていると思っていた。それが自分の心身の中に蓄積されているとは思わなかった。

四月、国立の大学通りの桜も散り若葉が茂り始めた頃、仕事帰りに身体中の痛みと激しい眩暈に襲われた。何とか我慢していたが、下車した国立駅構内で転倒した。大勢の会社帰り、学校帰りの人々が傍を通り過ぎたが差し出される手は無い。自力で何とか起き上がり帰宅した。

翌日から幾つもの診療科を転々と受診し、処方薬を飲むも体調は思わしくならない。

検査を繰り返しても特に異常はなかった。

最後に辿り着いた精神科で、心の不調から身体に異変が生じているのだろうとの診断を受け、私は長く会社を休むことになった。

 休みを取り始めて身体の異変は徐々に治まっていった。心を休めている間、多くの人達からの支えが有り、ありがたかった。

そしてもう一つ、心の支えになったものがあった。それは“w e l c o m e”というタイトルの楽曲だった。この曲はSという作曲家が書いた、ピアノメインのオーケストラ曲である。タイトルとは裏腹に、心底の揺らぎや深い悲しみの中を漂っている様な、ゆったりと流れる不思議な曲だ。

まだ穏やかに過ごしていた頃から、音楽を聴ける状態にある時はずっとこの曲ばかりリピートして聴いていた。

 何故こんなにも悲しい旋律を持った曲のタイトルが“w e l c o m e”なのか、私は聴きながら考えていた。やがて、この世に生まれ出でた一人ひとりに向けて書かれた曲なのではと感じるようになった。

生まれたばかりの無垢な一人の君、ようこそこの世へ。おめでとう。これから君は自分で立ち上がり、考え、悩み、苦楽を受け入れながら生きて、そして君自身も多くの人々や出来事に出合い、受け入れなれながら生きていくんだよ……。ピアノとオーケストラが呼応し合うように流れる旋律の波間から、そんな感情が溢れているように聴こえた。

 どうにか復職できるまでに寛解し、年を跨いだ初雪の日、私は復職することが決まる。しかし、復職先として告げられたのは、休職前と同じ部署だった。聞いただけで無理だった。治ったばかりの脆い心では、また同じことを繰り返すだろう。    

復職当日の朝、私は愛犬に行ってくると一言挨拶を残し、早めに家を出て国立駅まで歩く。いつもはバスに乗るが、少しでも広い空間で呼吸をしていたかった。やがて復元された三角屋根の旧駅舎が見えてくる。駅舎を見上げ深呼吸を繰り返す。久しぶりに身に着けたワイシャツとネクタイが息苦しい。今日からまた、毎朝電車に乗ってこの武蔵野の地から山の手へと向かうのだ。会社の有る方面へ向かう電車に乗るのは未だに抵抗がある。もっと身体を慣らせておけば良かった。私はオレンジ色の電車に身を滑り込ませた。

駅に着く毎、乗客が増えていく。私は立ったまま車窓から外の景色を眺めて気を紛らせる。武蔵境駅の手前、左側の車窓から、近隣にある大学の馬術部の馬場が見える。いつも馬が颯爽と走っている姿を見ることが楽しみだったことを思い出す。

混み始めた車内の圧迫感に耐えられず、三鷹駅で降りてしまう。水筒から冷たい水を飲んで気持ちを落ち着かせた。黄色の各駅停車に乗り換えよう。当駅始発で座れるし、少しは乗客も少ない。私は運良く座ることが出来た。イヤホンを装着し、目を瞑る。

やがて電車は会社の最寄り駅に到着する。しかし私は電車を降りる事が出来なかった。私の心と身体が全力でそれを拒絶する。座席から微動だに出来ない。扉は閉まり、電車は次の駅へ向けて走り出した。イヤホンからは“w e l c o m e”が繰り返し流れている。

俯いた顔を上げた時、電車は千葉県を走っていた。

やがて千葉駅に到着する。私は改札を出て直ぐに時計とネクタイを外し、携帯電話の電源を切ってリュックにしまう。それだけで酷く疲れを感じた。特に思うことも無く、身体を引き摺るように歩き始めた。

 一時間程歩いた頃、海が見えてくる。引き寄せられるように海へ向かう。

 海辺に着く。

冬の浜辺には殆んど人影はない。腑抜けて力尽きた私はリュックを下ろすとただ座っていることしか出来なかった。何も感じない。感じられない。全身の感覚が壊れてしまったかの様だった。私はここに居て良いのか分からないまま、静かに佇んでいた。

やがて日が暮れ、辺りは闇に包まれた。漆黒の闇だった。次第に、私は今意識があるのか、ここは何処なのか、全ての境界が曖昧になり、天地のない、安心感と絶望感が共存する空間を漂っていた。

 その時、右方から私を容赦なく照らす光があり、眩しさに耐えられず目元を手で覆う。

「おお、びっくりした」

暗闇の中から男性の声が聞こえた。こちらからは男性の姿かたちは見えない。男性は手にしているライトを私の顔に向けて照らす。

「どうしたよ、こんな時間に。大丈夫か」

「大丈夫です。もうすぐ帰りますので」

「そうか、大丈夫なら良いが……ちゃんと帰るんだぞ」

幼子に諭し聞かせる様に、男性は私に言葉を掛ける。男性の声の下から動物の呼吸音が聞こえる。犬の散歩をしていたのだろう。

「じゃあな、俺たちは行くから。本当に気をつけてな」

そう言葉を残し、男性と犬は暗闇へ歩き去ってしまった。

私は「俺たち」と呼ぶほどに深い、男性と犬の絆を羨ましく思うと同時に、こんな暗闇の中を、こんな時間に犬の散歩をしているあの男性も孤独を抱えているように感じた。

ライトの残像がしばらくちらついてたが、闇が戻ると私の意識はまた遠のいていった。

 空を覆っていた漆黒の緞帳がゆっくりと上がっていく。空は蒼黒、紺青へと色を変えていった。やがて、紺青の空を押し上げるように、水平線から曙が立ち上がる。海も呼吸を合わせる様に色を染めていく。そして、曙の中に一際眩く輝く一点の光が現れ、そこから堂々と朝日が昇り始めた。

私は無意識にイヤホンを外すとゆっくりと立ち上がり、靴と靴下を脱いで、一歩海へ向かって進み、海水に素足を浸した。

 刹那、まるで雷に打たれたかの様に、全身に生命力が広がっていくのを感じた。壊れていた五感が一気に甦り押し寄せてくる。

足元を洗う冷たいさざ波と踏みしめた緩い砂の感触、潮騒、風を捉えて舞うカモメの鳴く声、頬を撫でていく潮風の匂い、朝日の眩しさと暖かさ、眼前に広がる海原の煌めき、明けていく大空。潮風を胸一杯に吸い込む。涙が溢れ、身体が震えてくる。自分は今確かに生きている。何とかまだ生きていたい、この世と繋がっていたいと強く願った。私にとってそれは奇蹟としか言い様が無かった。

 「やっぱり、まだいたな」

声の方を振り返ると男性と犬が立っている。昨夜、暗闇から聞こえた声の持ち主だと分かる。

男性は高齢と思われた。短髪の胡麻塩頭で良く日焼けした皺の深い穏やかな顔つきをしている。痩身ながら力強い骨格を感じさせる体軀で矍鑠としていた。地元の漁師だろうか。隣には痩せた白い長毛の中型犬が、男性に身を寄せて尻尾を振りこちらを見つめている。

「にいさん、これ」

男性は、私にアルミホイルの包みをそっと渡す。これは……と思いながらアルミホイルを解くと、武骨に握られた大きな握り飯が顔を覗かせた。

「悪いな、中には何も入れてねえよ」

届けてくれたのか、私に。

夢中で頬張る。飯が美味いと感じたのはいつ以来だろう。こんなにも腹と胸に沁みる握り飯を食べたことはなかった。

「うちでとれた米だ、美味いだろう」

にっと笑う日焼けした男性の顔は、一層皺が深くなるも愛嬌があり、前歯が欠けているのが見える。食べながら様々な気持ちや出来事が心の内を去来し、堪らず嗚咽した。

白い犬が心配そうに近寄って来て、私の素足の甲を舐めた。

「お、ユリが誰かに懐くなんて珍しいな。にいさん、犬が好きだな」

ユリと呼ばれた白い犬の頭をくしゃくしゃと撫でた。尻尾を激しく振りながら、まだ甲を舐めている。

 そして、ああ、そうだ、ハナ!

愛犬の事まで忘れていたなんて、私は余程どうかしていたのだ。帰らぬ主を、腹を空かし、じっと伏して待っているだろう。本当に申し訳ない、ハナ。

 私はこの穏やかな空間から現実へ、国立へ帰らなくてはならない。

 握り飯を作ってくれた細い指、大きな掌をした手が差し出される。

「にいさん、また来いよ。俺たちはこの辺りをよくうろうろしているから」

差し出した私の手が力強く握られる。心が解き放たれていくのを感じる。

きっとまた会える。

黄色の各駅停車に乗り換えて。

手を強く握り返しながら、微笑んだ。

                  終

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