今日という日に

 なめらかな肌に指の平を滑らせる。くすくすと笑い声が零れる、密やかな時間。

 艷やかな黒髪はさらさらと笑い声に合わせて揺れる。頭から爪先まで瑞々しい子供の愛らしさ。自分が搾取する側である事実がくらくらと酔いのように巡る。何もわからない子供。ただ、無邪気に愛を享受する。ずっとずっと欲しかった。


「せんせい」

 甘やかなねだる声。重ねた年月の分、この子は色を積んだ。幼子から少年、少年から青年。発育に不要な情欲が、その内に。熟れた果実の香りに、口付ける。

 少しすねたように、子は口付けられた額を押さえ唇を尖らせた。愛らしい。啄みたい、とは思うが、唇はまだだ。とはいえ体に口付けをしているのだからさほど意味は無い気もするが、私なりのケジメだ。

 でも、今日までだ。

「卒業したらね」

 情欲を孕んだ瞳が、うっとりと楕円を描く。明日、この子は卒業する。ついに私は、この果実を搾取する。暴力的な情愛。私のこの感情は、それでも確かに愛だ。愛しくて愛しくて、羨ましくてぐずぐずにしてしまいたい。私はすることができる。

 ざまあみろ。浮かんだ言葉はそのままにして、私は言い聞かせるようにもう一度、今度は頬に唇を寄せた。


 * * *


 しっとりとした道を歩く。舗装されない地面と、木立の常緑。夜の涼が揺蕩う道にあるのは気持ち程度の街灯で、そればかりがチカチカとうるさいような、それとも低すぎる忙しない星のような、違和と調和の間にいる。夜はまだ、その思いをを立ち去った雨に馳せている。

 せんせい、せんせいと繰り返していた子が静かになって、幾許経ったか。あえて私は言葉で時間と距離を埋めず、その期待と色を有した顔を見て笑むだけに留めていた。

 夜に紛れてしまう黒い髪と、夜を湛えた瞳。恨めしいほど美しいそれが、私だけを見ている。

 その暗い悦びを、この子は知らない。手折られることを喜ぶ純然な好意は、受ける行為との倒錯でただ危うく、私に言葉を失わせる。逸るような欲求を、この子は想像も出来ないだろう。

 可哀想な子。可愛い可愛い、可愛想な子。

「……あ」

 小さな声が愛らしい唇から漏れる。おそらくいつものようにきゅっと口を噤んだだろう子が、そっと私を見、距離を空ける。視線はその足元へ。いじらしい子の努力にじわりと愛しさが滲み、その逸した視線の元となったものを見る。

 ーー息を呑んだ。どうして。何故。

 短く刈り上げられた黒い髪。静かだが意思の強さを思わせるはっきりとした眉と、夜空と言うには黒すぎるように思える瞳。

 あの日から十年以上経っていてもはっきりと同じだ、とわかった。見上げた先、一文字の唇も、大柄な男がなにも変わっていない錯覚を持たせる。

 咄嗟に、かける言葉が出なかった。男は私を認め立ち止まるが、それだけでしかない。あの日の延長のように、当たり前のように黙している。いじらしい子が、私を案じるように見て、離れない。

 私が糾弾されぬよう近づき過ぎず、しかし私をそのままにしない。優しい子。その当たり前が愛しく、いじらしく、怨めしい。昔よりも随分うまく立ち回れるようになったと思う。なのに、目の前の男はあの日からそのままで、まるで私を断じるようだ。

 断じられる筋合いなどない。私は搾取する側になれる男だった。ただ、それだけだ。

 男の横を抜ける。男は、当たり前のように私の隣に並んだ。こめかみが痛む。男は何も言わない。あの日も、今も。断じる言葉を吐きもせず、ただ並ぶ。

 当てつけだろうか。ようやくこの子という果実を貪れるというのに、批難も疑問も言葉にせず並ぶ男を横目で見上げる。相変わらずまっすぐ前を向く男だ。近くでなにかあっても、きっと何も見えていない男。それが、何故。

「せんせい」

 控え目に問う子に、笑みを零す。大丈夫。そう言葉にせずとも伝わるように。本当に大丈夫なのかは分からない。私はこの男を理解したことなど無い。

 素直に言えば、当てつけのように邪魔しに来たのかと思う感情はある。けれどもその妄は、嘲笑を飲み込むことで消えた。この男は昔から愚鈍だ。何も見えていないだろうからある意味当然の推測で、理解できない男の唯一かもしれない。

「昔の知り合いだよ。将棋教室、みたいな場所に行ってたときがあったんだけど、その関係でね。こんなナリだが、女みたいな打ち方をする奴だった」

 言葉というものは単純で伝える以上の意味は無いだろうに、ある一辺では強いものだ。軽蔑が昇る。

 私の言葉は矮小な私をそのままにしている。自分より弱いものを見つけ、当たり前のように侮辱し、そんなことなど知らない顔をするのだ。少し眉を下げたこの子は賢い。その癖自分が搾取されるとは思っていない愚かな愛しさ。可愛想に。

 他者を侮辱する言葉で詰っても、男は私をそのままにする。この男は愚鈍だから、いつものことだ。私の罪悪にも社会の暴力的当たり前にも気付かない。

「まあ、打ち方はめちゃくちゃだったけどね。強かったよ。それは確かだ。同年代では一番だったんじゃないかな。私と違ってね」

 そもそも私があの場所に行ったのは、馬鹿馬鹿しい理由だ。少しでも普通の人間らしく見えるように。この土地に馴染むように。祖父の余計なお節介で、それに素直に従って、片隅にいた。ただそれだけ。

 私と同じ人間など、この男に限らず誰もいなかった。

「帰りが同じことは多かったけど、それだけさ」

 友人でもなんでもなかった他人。それだけでない。祖父が共に行けなくなってから、やけに同じ道を歩いた。それだけ。

 話す訳でもないのに隣に並べるのは、この男の愚鈍さを証明する事実だ。あの日の道が、今に重なりそうになる。

 重ねてたまるか。強い言葉が浮かぶ。だってそうだ。私はもう、あの日と違う。こうしてこの子と道を歩む事が出来るように、果実に歯を立てられるように。

 私はそう、もう、変わったのだ。

「先生?」

 私のなにかが溢れたのだろうか。案じるように問う子に、笑み、首を横に振る。大丈夫、大丈夫だ。

「同じ年頃と性別で、一緒くたにされていただけだよ。大人なんて、案外そんなものさ」

 大人に限らず、他人もだけれど。あの日を思い出し息苦しくなる呼吸を整える。もう笑って言えるのだ。そう言うように。

「大人は何もしない。勝手に押し付けてお仕舞で、その延長で私はーー」

「何もしない訳ない」

 低い断定が、隣からあったことに驚いた。喋るのか、なんて当たり前の感想は、真っ直ぐ過ぎる目に閉ざされる。立ち止まった男が静かにもう一度口を開くのを、なんともしようがなかった。

「大人はなにもしないわけではなかった。見守っていた」

 馬鹿馬鹿しいくらい薄っぺらい言葉なのに、男が静か過ぎるせいか、それは酷く当たり前のような顔で目の前に並べられた。

 そうだ、酷い。なんだそれは。そんなこと、知らない人間の勝手な妄で、

 だというのに、ああ、あの日が重なった。


 祖父が連れたあの場所は、私を何も変えなかった。私にとっての日常は当たり前で、私はあの場所でも同じにはなれず、相変わらずの私だった。石はそこにあったし、痛いと思った感情も覚えている。

 けれども、そう。私を嬲るあの石は、あの場所で、やけに少なかったのではないだろうか。

 大人は何もしなかった、そのはずで、ああ。

 思い出したのは帰り道。私にぶつかる石は、どこに行った?

 私が覚えているのは、無口な男の不可解さ、それだけで。


「大人は見守っていたお前を守りたかった、守りきれないことに心痛めながらそれでも必死でより良くなるように話し合っていた」

 それが届かなかったのだから確かに意味はないかもしれないが。そう言って、目を伏せ男は黙する。あの日の帰り道、男は何をしたのか。なんの為にいたのか。それを言わない男と、そのくせ大人のことと、誰もいなかったあの日の自分が重なる。

 馬鹿だ、と言うのはそのまま浮かんだ精査されない言葉だ。


 救ってくれたわけではない。私は苦しんだ。事実は変わらず、恩に着る必要などない。足りなかった事実をなかったことにする必要はない。

 けれども、ああ。あの日。私は一人でなかった。

 ああ、ああ、ああ。

「……先生」

 声に振り返ると、不安げな顔をする、自分を慕う少年。高校を卒業した、けれども、少年だ、と思った。

 私はこの子が好きだ。それだけは確かで、でも、それだけじゃなかった。

「大丈夫だよ」

 私の言葉は私だけの意味で、この子にはわからないものだったと思う。けれども言葉にして、音が沁みた。大丈夫だよ。

 私は搾取する側になった。もう、昔と違う。そして、ああ、あの日。記憶では昔なのに、あの日、あの場所は、おそらく何かが違っていた。今更で、でも、目の前の男の瞳は、ずっと変わらない。

 私には理解できない無機質な静寂。私を断罪することすら浮かばない、愚鈍な男。

 ーーいや、愚鈍は、私もだった。

「大丈夫」

 愛しい子の手を取る。まんまるの、愛らしい瞳。焦がれ欲した、『普通』の色。そこに映る私の顔は、小さくてわからないけれど。でも。

 でも私はきっと、悪い顔をしていない。だって目の前のこの子が、優しく微笑んでくれたのだから。

「どうもありがとう、と言うべきかい?」

 手を握ったまま、男を見る。意外にもよく話す男は、いや、と短く答えた。

「見たままを言っただけだ。それがどうだったかは、お前のものだろう」

「有難う」

 男の言葉にするりと出た言葉は、嫌味ではない。男はどう感じたか分からないが、あの日の続きのまま、静かに私を見ていた。

 視線が交わるのは奇妙なようで、当たり前でもあった。

「帰ろう」

「先生?」

 男に別れは告げない。そもそも出会ったとも言い難く、奇妙に思えた。代わりに愛しい子に告げれば、少しだけその夜が不安げに揺らぐ。

 ごめんね。身勝手を内側で詫びて、でも、私は今を選ばない。

「いいんだ」

 端的な言葉は、伝わらないだろう。そもそもこの言葉は、私に向きすぎていた。

 いいんだ。ごめん。しあわせになろう。なれるよ。

 内側に連なる言葉は、あの日の私に向かっている。でも、あの日のわたしには届かない。私は、私だ。今、この子の手を握り、愛し、思う。それだけは確かだ。

 身勝手な搾取を、暴力を、私は紡ぐに足りない。足りずとも良い。

 私は夜の子にはなれなかったけれど、夜の子を愛することはできたのだから。


 笑い声が溢れる。案じていた子は、私の声につられるように声を漏らした。それが、それだけで、私は胸が満たされる。

 きちんと向き合おう。暗い淀みも、愛しい光も。全てを晒す必要は無いけれど、私は過ちを、盲目を望まない形を。切な渇望の強さではなく、今ここにあるこの子とともにあるからこそ。


 ささやかな笑い声は夜に溶ける。あの男はやはり追いかけもせず、もう、会うこともないだろう。けれどもあの日は確かにあって、気付かなかった手の中の温もりは、暖かかった。


(2021/09/30)

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今日という日に 空代 @aksr

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