閑話 秘め事

「はい、はい。本当に大丈夫です。お金の方も足りてます」


 電話相手の相変わらずの心配性ぶりに、ひめのは少し苦笑しながら応じていた。

 なにせ、向こうからかけてきたぐらいだ。もともと、ひめのからかけることになっていたというのに。


「うん、友達できた。結構たくさん、かな。とにかく本当に心配いらないよ、


 意識して、言葉遣いを崩す。あくまでも自然に、違和感なく、時には愛想笑いも交えて。独りきりの部屋の中でも、その笑顔は完璧だった。

 でも最後の2文字を、ひめのは未だに言い慣れていなかった。どこかぎこちなさがあって、頬が薄桃色に染まっている。

 ふわふわして、しっくりこない。言葉が自分のものになっていない感覚に、いつも彼女は襲われている。


 通話を切ると、彼女はふーっと長く息を吐いた。そのままソファに沈み込む。ご自慢の長髪が、少しベールのように垂れる。

 確かな疲労を感じていた。肉体的にも、精神的にも。まさに目まぐるしい一日——瞼を閉じてしまえば、そのまま眠りの世界に落ちてきそうなほど。

 微睡の中で、彼女はなんとか意識を繋ぎ止めていた。


 桐川ひめのは、人前に立つことも慣れているし、人見知りもしない。

 外の場で上手くを装う。比較的周りに好かれやすい理想像を。

 それが、ある種職業病のような彼女の特技。もはや癖のようなもの。


 だからこそ、ここまでの疲弊は予測していなかった。いつも通りにと思っていたが、思いのほか肩に力が入っていたらしい。


 その甲斐あってか、転校初日としてはほぼ最高の成果を彼女は挙げた。

 知り合いはクラスの内外に大勢できた。一応イケてるグループに組み込んでも貰えた。しばらくは、順調に学生生活を送れそうだ。


「……あとで返そ」


 握ったままのスマホがまたしても光った。

 メッセージアプリ――リィンの通知。さっきからひっきりなしに来ている。

 さすがに張り切りすぎたかもしれない。自虐的な笑みをこぼして、ひめのはスマホを遠ざけた。


 学校ではあれだけ人と繋がろうとしたのに、今や少しだけ億劫になっている。殺風景な部屋を見ながら、ひめのは自己矛盾に浸る。

 社交的に振舞うのは苦ではない。けれど、ときおり本当の自分とのギャップにひどく堪らない気分になるのだ。埋めようのない孤独感のようなもの。


 けれど、自分らしく振舞うなんて、もはやできなかった。

 本当の桐川ひめのはみんなの思うような人間ではない。あの輝きは全部が紛い物なのだ。

 であれば、せめて外だけでもと思う。結局は、誰かにとって必要とされたい――


「仙堂凱、か」


 身体を起こすと、テーブルの上にあるノートの山がひめのの目に入った。

 一冊は広げたまま。父からの電話が来て、というよりはその前から解読作業は停滞気味だった。


 多少は謙遜だと思ったのに、凱のノートは事実とても汚かった。本人も本当に読めるのか、不安になるほど。

 それでも、ひめのはなんとか内容を把握できている。だが、作業が進めば進むほど、あの男の言う通りにすればよかったと思い始めた。授業内容を理解する助けは特に見当たらない。


「仙堂君……? ああ、ひめのちゃん隣の席だもんね、気になるよね。――うーん、一言でいうと、みすてりあす?」


「そうだな、話しかければ、意外と話せる奴だぜ。暗いってわけじゃないけど、なんとなく近寄りがたい感じはする」


「ちょっと怖い。いっつもブッチョーヅラだし」


「あれだ、あれ。イッピキオーカミ」


 と、隣りの席の男の評判は様々だった。

 ただ総じていえるのは、成績が学年トップなこと。

 そして、誰かといるところを見たことがないということ。


 仙堂凱は、周りとは孤立して生きている。

 しかも、それをよしとしている節すらある。


 他人を求めがちなひめのとはまるで真逆だ。水と油、決して相容れない。

 実際、彼女は少しだけその男を苦手としていた。雨の下、初めて会ったときから、特に根拠があるわけでもなく。


 一方で、どこか気にもなるところもあるのだった。よくもあれだけ周りと自分を切り離して生きることができるものだ、と。

 それは、決してひめのには選べなかった生き方だ。我を貫き通す。たとえ周りと衝突しても――ちょっと大げさかもしれない、と彼女は頬を緩めた。


 とにかく、そういった理由もあって、ひめのは凱のノートを借りたのだった。


「残りのノート、どうしよっかな……」


 相手の方から、判断は委ねられている。それに乗るのは容易い。

 でも、あんな大見得を切った手前、不用意に相手を傷つけてしまうのではないか。いわゆる、上げて落とす。

 そんな相手ではないか、ひめのの形のいい眉が少し寄った。

 

 これもまた後で――彼女は開きっぱなしのノートを閉じると、山にそっと積み上げた。Mと無骨なアルファベットが表紙に殴り書きしてある。


 立ち上がると、ひめのは真新しい制服のスカートを少し手で払った。着替えるのをめんどくさがったのもあるが、このかわいいデザインがお気に入りだった。

 ついでに、近くにある手鏡を手に取る。乱れた髪を整えるために。


「…………かわいくない」


 鏡の中にあるほほえみは、どこかくすんで見えた。

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