第33話

「ぐっ、」


 抱き合ったまま硬い床に体を打ち付け、フィルの呻き声が漏れます。


 私には衝撃がきませんでした。

 こんな状態でも、彼は私を庇うように倒れ込んだのです。死にそうなのに。


「ふぃ、フィルっ!」


「俺たちの、勝ちだ。ユイ」


 死にかけのフィルが誇らしげに言います。荒い吐息が私の首筋にかかりました。


 そしてその途端、


「――な、なんだッ!?」


「――アアアッ!? このハゲ猿女ッ! どうして『聖剣』をォォッ!」


 風が逆巻き、吹き上がります。

 周囲に音が戻ってきて、リカルド様と、ミーシャ・フェリーネの怒鳴り声が聞こえました。


 床に描かれた複雑な魔法陣が、眩い輝きを放ちます。

 青白い閃光は渦巻き、逆巻き、まるで光が質量を持っているかのように、部屋を満たし荒れ狂い始めました。


「っ、ふぃ、フィル、これはっ!?」


「『排水溝の栓』が抜けるぞっ」


 ……また『排水溝』ですか。


 こんなときなのに笑ってしまいそうになり、でもフィルは死にそうで、渦巻く光は私たちを吹き飛ばそうとしてるみたいで、私は頬が引き攣るのを感じました。たぶんですが、変な表情をしていると思います。


「……っ、ユイ」


 弱々しい力でフィルが私の肩を押し、少しだけ体が離れます。

 苦笑いみたいな、泣き笑いみたいな、彼の顔が見えました。……きっと、今の私と同じような表情なのでしょう。


「お別れだ」


 フィルが言いました。

 私は何も言葉を返せずに、ただ頷こうとして、それもできませんでした。


「なんでッ、なんで『聖剣』を抜くのよォッ! そんな事したら、猿女が逃げちゃうでしょうがァッ!!」


 儀式のしすぎで老婆のようになったミーシャ・フェリーネが、眩い光を掻き分けるように腕を振り回してこちらへ向かって来るのが見えます。彼女はしゃがれ声で叫びました。


「リカルドォッ! なにぼぅッとしてんのよォッ! 私を愛しているならさっさとソイツを殺せェッ!!」


 私はハッとして、近くに佇むリカルド様を見上げました。

 魔法陣からの光を受けて妙に青白く見える彼の顔は、まるで打ちひしがれたような、痛みを堪えるような、苦い、苦い表情でした。


 リカルド様の視線が私を捉え、フィルが再び私を庇うように身を寄せてきます。そして、


「……すまなかった」


 リカルド様はそう呟きました。

 それはとてもとても小さな声でしたが、なぜか鮮明に私の耳に届きました。


 光の風が圧力を増し、周囲の景色はもはや白く霞んできます。

 リカルド様は振り返り、私たちに背を向けました。近寄ってくるミーシャ・フェリーネを遮るように、彼女に手にした剣を突きつけます。


「ミーシャ、僕はきみなど、愛していないよ」


「ッ、ガァアアアアッ!!」


 ミーシャの絶叫が響き渡りました。

 視界が、白く塗り潰されていきます。


「………っ、フィル?」


 ぐっと体に重みがかかり、私はフィルの顔を見ようとしました。

 でも、ぐったりとした彼の体は動きません。


 もしや死んでしまったのではないかと、思った瞬間、


 ――世界の、淀みの栓が抜けました。







 ――。


 ――――。


 ――――――。



 ……目を開けます。


 最初に見えたのは、電灯からぶら下がっている紐でした。

 壁にスイッチもあるから要らないのではないかと思うのですが、なぜか紐が付いているのです。


 引っ張ると消灯する他に、三段階まで灯りを調整できるので、やっぱり要るのかもしれません。私は寝るときに灯りは全部消す派なので、普段その紐を使う機会はないですけれど。


 次にエアコンが見えました。文明の利器です。

 離宮に軟禁されていたとき、あれが欲しいと何度も考えた覚えがあります。

 あの国にも四季はあったようなので、夏とか冬とか大変です。春先でも、朝方は肌寒いものでした。


 本棚が見えます。懐かしいです。

 向こうに面白い本でもあれば、軟禁生活も少しはマシだったのになと思います。


 そう考えると、急にお気に入りのマンガや小説を読み返したくなってきて、私は泣きそうになりました。


 帰ってきました。

 帰ってきたのです。


 ここは懐かしい、元の世界でした。

 安心できる、私の部屋でした。


「……夢、だった?」


 ふとそんな考えが頭に浮かび、独り言を口にします。


 私はベッドに横になっているようでした。

 身を起こそうとして、掛布団の上に何かが乗っている事に気付きます。


「……え?」


 それは黒い毛並みの小さな生き物でした。


 いえ、その種類の生き物にしては、少し大きい方でしょうか?

 太っているわけではなく、しなやかな体つきをしています。


 掛布団の上で丸まっているのは猫でした。黒猫です。


 じわりと、その体から赤い染みが広がりました。


「っ、大変!」


 私は慌てて身を起こし、スマートフォンを探して視線を巡らせました。


 ……見つけて手に取り、焦ります。

 獣医さんの救急車を呼ぶには、何番にかければいいのでしょうか?

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