第4話 恋は焦らず

 初恋の子。

 簡素にして完結、陳腐で在り来りな表現をしてしまうならその一言に尽きる。 


 僕の初恋の子はたまたま同じ高校にいて、もちろんそれは始めから存じ上げていることだが、そんな彼女がたまたま開かずの下駄箱にそっと手紙を忍ばせたのだ。

 口から魂が飛び出そうなところをぐっと飲み込んで現実に戻る。

 耳鳴りとめまいが同時に襲いかかってきて、よろけそうになったところで大きく息を吐いて踏みとどまる。

 心臓はこれ以上無いほどに鼓動が早くなり、すでに手紙をもつ指の感覚は無くなっている。


 それでも何とか自分に嘘をついて平静を装い、恐る恐る宛先を確認する。

 ――残念なことに、相手の名前は書かれていなかった。

 そういう手紙もよくあったので、それは別段変なことじゃない。

 だが、そうなると中身を開けないと彼女が誰に手紙を書いたのか確認できない。


 それは出来なかった。

 二重の意味で、僕には出来なかったのだ。


 一つは中身を見るのが怖かったから。

 そこに綴られている言葉が、愛のメッセージが、誰かへ宛てられたものであると認識してしまうことに僕の心は耐えられない。

 むしろ誰かと付き合っているんだって、なんていう噂を聞かされたなら諦めも付くというものだが、これからやろうとしていることは恋のアシストである。

 知らない誰か、もしかしたら知っている誰かかもしれないが、そんな相手との恋を成就させるための役回りなんて、死んでもゴメンだ。


 そして二つ目は、差出人の彼女の文字を見ただけでわかる。

 昔から相変わらずとてもきれいで美しい字をしている。

 僕はずっとこの文字に憧れていた。

 彼女からたった一度だけ「君の文字は特徴的で、それでいてきれいだね」なんて褒められたことがあるのだけれど、なんてことはない。

 彼女の方が僕の何倍もきれいで美しい字を書いているのだ。

 ずっと追いつきたくて努力して、それでも追いつけなくて、結局諦めてしまった。


 だから僕に、彼女の文字を書き直すことなんて出来るはずがないのだ。

 この手紙は開けても負けだし、開けなくても負けなのだ。


 僕はそっと手紙を彼女の下駄箱に戻した。

 宛先が書いてないのだから、宛先不明で記載不備の郵便物は返却するのが通例だ。

 正解は放置することかもしれないが、もしも他の誰かにその手紙を読まれてしまうということも許せない。


 こういうのなんだっけ、最近習ったな。

 臆病な自尊心と尊大な羞恥心だったっけ。

 ちっぽけな自尊心はへし折られ、悔恨が押し寄せてきた。



 家に帰り、高校生にもなって情けなく声を押し殺していた。

 ああ、自分はなんて愚かなことを続けていたのだろう。

 さぞ愉しかっただろう、他人の言葉を真似て己が愛を語るが如く書き記す行為は。

 他人の為と嘯いて他人の恋路を嗤っていたのだ。

 このまま虎にでもなってしまおうかと呻いたが、残念ながらそんな勇気もない僕はせめて人で在り続けたいと矮小な心で嘆くのだ。

 ああ、愛の天使なんて面倒な役回りはもうおしまい。



 それからは開かずの下駄箱に何か入っていても全く無視した。

 それでも恋が実ったという話はたまに聞こえてきたので、自分と同じような世話焼きがいたのかもしれない。

 だが、それも次第に聞かなくなっていった。


 人の噂も七十五日。

 それよりは多少長かったような気がするが、夏休みが明けて二学期も半ばになると教師を始め、一年以上先にも関わらず早くも受験生モードに突入し、色恋沙汰に浮かれている余裕すらなくなってきた。

 そんなこんなで三学期にもなるとめっきり開かずの下駄箱に関する噂など忘れ去られていった。



 そして三年生になると複数人がクラスを移動することになり、新しく上位クラスに栄転する者と下位クラスに落ちていく者が現れ、三年間変わらないクラスにも多少の変化は訪れる。

 そして大きく変わった名簿に合わせて下駄箱も一気に動いたため、開かずの下駄箱は正真正銘消滅したのであった。


 何も知らない者からしてみれば、まるで都市伝説のようであっただろう。

 学校の七不思議というのはこうやって生まれては消えていくのだと思う。



 ああ、それにしても。

 色恋とは無縁の、灰色の高校生活だった。

 救いがあるとしたら、希望した大学に進学できたことくらいだ。

 あれから必死に勉強して、本来ならば身の丈にも合わない大学を目指して、見事に掴み取った。

 人生の転機としては、人に言えないような恥ずかしい出来事だが。



 ――数年後、同窓会で真実を知ることになるのはまた別のお話。

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彼女の手紙を書き直したら いずも @tizumo

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