第1部 22

 夏休みが終わって学校が始まっても、学校でリクやカイが小林アユムの姿をみることはなかった。

 アユムは転校していた。母方の実家は県外へ。

「どうなるかしらね」

「完全に潰れることはないだろうがな」

 両親の会話を、リクは夕飯を食べながら、テレビから顔を離さず黙って聞いていた。

 厳しい残暑。それでも、城山から蝉の声が薄らぎ、林の底を流す風の涼しさに時折はっとした。

 二人の中学生の表情に前ほど汗と疲労が濃くないのは、やはり季節の移ろいのせい……。

「まだ余裕がありそうだな。同じことを同じようにやっていたのでは強くはなれんぞ!」

「鬼」ふぅふぅ。

「手を抜くなといっている。データはリアルタイムで把握している!」

「悪魔」はぁはぁ。

 相変わらず仮面にどやされながら、中学生二人はヘトヘトになる。

 トレーニングの時間は変わらず、内容の密度は上がっている、即ち体力が上がっている、即ち、二人は確実に強くなっていた。

 その実感は二人にはないが。仮面も二人にそんなこといったりしないが。

「暫くこれなくなりそうだ」

 地面に腰をおろしてゼイゼイ肩で息をしている二人に対して、仮面が、やはり背中で話し始めた。

 八月中から、既に毎週というわけにはいかなくなっている。

「わたしは暫く顔を出さない、マークも渡さない。宿敵も遠くへいってしまった、トレーニングを続けるかどうか、きみたち自身で判断することだ」

 言葉にした仮面の奥に寂しさがほんの微か湧いたようだが、一笑に付した。


「中学生を使ってのデータは十分に集まった。今後はあのうるさい連中を静かにさせることに注力せねばならん」

 城山からの帰りの車の中で、仮面を外した中島がいった。独り言のように。

「巻き込みたくないですからね」

「誰かのおかげでマッドのデータまでとれた。彼らはわたしにとって既に用無しだ」

 自衛隊はマークのデータ、詳細な、被験者の個人的な情報まで開示するよういってきていた。

 無論、彼らの個人情報など教えるつもりはない。

 中島がこれ以上子どもたちと接触を続ければ、二人にもなんらか手が及ぶことは必至。

 戦力とは兵器だけでなく情報でもある。

『自衛』のためにはときには手段を選ばない。そんな不気味さを中島と加藤は感じている。

「暫くこれない」と中学生にいった。もう二度と会うつもりはなかったのに。そういう言葉がいえなかった。

 そんな甘さを切り捨てなければならない。こちらも、目的のためにはどんな手をも使わなければならない。

 使えるものは使う、使えないものは切り捨てる、躊躇いなく、そうしなければならない。

 そんな強い思いと同時に、どこかで「またいずれ会うことになるだろう」そんな思いがあることにも気付いていた。

 そんな人間臭さまで切り捨てることは、できそうになかった。「仮面」の功罪だと思った。


 一二月のある日の昼過ぎ。

「県内の大学生の陸上部に協力してもらい、マークの効果を実験してもらった」

 地下会議室で、この日も仮面、いや中島がプレゼンを行っていた。ここは農業大学ではない。

 脇で加藤がパソコン操り、中島の話に合わせて画面を変えていく。

「ロの字」型に組まれた座席には、やはり自衛隊の林旅団長や飯島の顔。自衛隊の面子はその二人だけ。

 他に六名ほどの出席者の顔ぶれは、警察関係、県の役人、法律の専門家など。

「効果時間の非常に短いマークであるが、一〇〇メートルまでの短距離ではタイムが上がっている。これは有意な効果とみていいと思う。それ以上長い距離でタイムが落ちている。これはある種のリバウンドのようなものと思われ、こちらも有意なデータとみなせる。続いてマッドのデータを示す。二〇歳前後の若者では副作用や依存が大きく出る恐れもあるため、こちらは三〇歳代前半の自衛隊員の方々に協力頂いた。結果は」

 会議は一時間半ほどで終わる。質疑の時間もとっていたが、手はほとんどあがらなかった。

 普段はうるさい飯島なども、この日はだんまり。

 周りに遠慮したわけではない。飯島たち自衛隊サイドには、このプレゼンの内容は事前に確認済みだった。

 質疑の手を上げるものはなく、「報告」だけで終わる、というのは予想通りではあったが。

 定位置、中島の左手一番近いところにいる林旅団長と飯島、飯島が林に耳打ちする、今にも席を立ちそうな気配を、中島は感じると、

「三年以内」

 飯島と林だけではない、誰もが席を立ちかけていた、その「誰も」に対する嘲りとも侮りともつかない思い。

「警察、役人、法律の専門家、方々の頭をきっと悩ますであろう時間、三年以内。今わたしが説明した、報告したクスリが、世間を騒がせるようになるまでの時間」

 飯島の睨みが場違いで滑稽にすら感じたが、わかっているのは飯島と林の二人だけであり、中島と飯島たちはある意味では同志であり、飯島の睨みは中島の既に出口に列を作っている六人に向けた中島のものであり、またその滑稽さでもあった。

 研究所のある学校のに戻ると、夕方四時を少し回っていた。

 ここから三〇分ほど北に道を登った山にはまだ白いものが残っていた。昨夜、雪が降った。

 朝みせた真っ白な姿は、清冽な空気の中でまさに「はっ」とするほど美しかった。

 この学校の辺りも朝方うっすらと白くなっていたが、この時間は既に消えている。山の雪も、恐らく二、三日中に消えるだろう。

 この辺りはそれほど雪は降らない。

「久しぶりに城山にいきたくなった」

「走っていくんですか? 送りましょうか?」

「いや、いい」

「でも、仮面を被らないと」

 そうか、と中島は心の中で手を打った。

 忘れていた。暫く忘れていた。城山にいくのを「やめよう」かと反射的に思った。

「いってくる」

 パーカーのポケットに仮面を忍ばせる。間抜けではある。

「あの二人、いますかね」

「さあな」

 中島、努めてそっけない。

「気をつけて」という加藤の言葉を背中に聞いて、中島は走り始めた。

 マークやマッドの研究開発は、実は県が主導するプロジェクトだった。予算も一部県から出ている。 

 しかし、役人やらを相手にプレゼンを行えばあの体たらくだ。

 まさに「形ばかりのお役所仕事」だった。飯島たちにすればそのほうが都合がいいのかもしれないが。

「三年以内」という中島の言葉は脅しや気を引くためのものではない。彼らは暢気にすぎる。

 三年以内に、間違いなくマークやマッドは表の世界に影響を及ぼし始めるだろう。

 研究が進み、技術が進歩すれば、それはきっと魔法のクスリになるに違いなかった。

 腸内細菌由来のドーピング。

 それは恐らく血液ドーピング以上に摘発され難くかつ安全なドーピングになるに違いないのだ。世に出ないはずがないのだ。

 犯罪にだって利用される。

 それが「三年以内」に起こる。警察機関、法律の整備など、準備すべきことは山ほどある。

 ――実際に起きてみなければわからんだろう。

 皮肉でもあるが、事実でもある。

 三年以内に、世界が変わる。

「わたしが変えてみせる」

 いつの間にか、中島は仮面を被っていた。

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