第1部 21

 城山を離れてから二時間ほどが経つ。

 夜十時を回って、アユムは薄暗い部屋のベッドで横になっている。落ち着いている、というか眠っていた。

 ベッドの傍らで、少年をみている人間、その男は山田タクヤだった。

 その横にはタクヤの同級生もいる。ここはその同級生のマンションである。

 山を降りてすぐに連絡を入れたのは、消防や警察ではなくこの同級生だ。

「どうだ?」

「今は普通に眠っているだけだろう。メタンフェタミンが入ってるみたいだが、この量なら副作用にしろ依存にしろ、問題にはならんと思う、このデータが正しければ、な」

「そうか」

 タクヤの表情から険しさが消えていた。

 だからといって、中学生に飲ませていいものではないだろう。

「そもそも信用できるのか、これ」

 聞いてきた、同級生の手にはタブレット。

「信用していい、と思う」

 城山からマンションに移動中にタクヤのフェイスブックに書き込みがあった。

 含まれている細菌の種類、薬剤の種類と量が書き込まれていた。

 コメント主はそれだけ書いて既に退会していた。

 タクヤの脳裡には「仮面」。城山で詰め寄った黒仮面ではなく、白い仮面。

 ――あいつは……。

 仮面というよりむしろぼんやりとした素顔のよう。

 面識はなく、顔をみたこともない、でも名前は知っていた、自分とどんな関係がある人間か、知っていた。


「マッド、マークに含有する細菌の組成比は、ある人間の細菌組成比をモデルにしている」

 中島が加藤に語る、加藤の直接の疑問にはまだ答えない。

「七〇を過ぎて、山中で仙人のような生活をしていた老人だ。山の中を自在に動き回り、獣や魚をとって生活していた、超人的に健全な老人」

 三年ほど前になる。

 さすがに癖のある人物だったが、不思議と中島やその師匠にあたる人と馬が合った。

 基本、人と交わるのが好きな人間が山にこもったりはしない。噂を聞いて中島と師匠は二人で山に通い詰めた。

 同じような生活をして、漸く胸襟を開いてくれた。やっとの思いでデータをとらせてもらった。

 とんでもない苦労だったが、思い出は不思議と笑みが伴う。

 それっきり連絡を取り合うこともないが、去年亡くなったということは聞いていた。

 一度は線香をあげて手を合わせなければならない、ふっとそんな思いに駆られることがあった。

「老人の名を伊勢秀綱。無論本名ではない」


 山田タクヤがその封筒をみたのは、祖父の葬儀の後だった。

 タクヤに祖父の記憶はほとんどない。特にタクヤが成人になってからは。

 そもそも祖父は家にいなかった。祖父は、剣道界では知られた剣士だった。剣士というより剣豪といったほうがしっくりくる。

 山ごもりをしていた、という、武者修行と称して。そんな漫画のような人物だった。

 その祖父が病で帰らぬ人となったのは去年のことだ。ぶっ飛んだ祖父だったが、亡くなったときは山の中でも、前のめりでもなく、家の、自室の畳の上だった。

 暑さの中にふと秋を感じる、そんな季節のこと。

 亡くなる一週間ほど前にひょっこり帰ってきて、横になったと思うとそこから二度と立ち上がることなく、そのまま亡くなった。

 仰向けで、俗にいう「寝ているような」穏やかな死に様だった。

 死期をさとり、家が恋しくなったのだろうか。何を言い残すでもなく、ほとんど黙っていってしまった。

 晩年はほとんど山で暮らしていたのに、死ぬときは屋根の下畳の上、そんな「都合のいい」祖父の法要は、しめやかというより和やか、むしろ笑いの多いものだった。

 タクヤがその封筒をみつけたのは、祖父の葬儀が終わり、祖父の部屋をなんとなしぶらぶら物色していたときだった。

『東日本マイクロバイオーム健康研究所』

 なんだろう?

 祖父が病院にかかっていたという話は知らない。

 嫌な感じはしなかった。後ろめたさはほとんどなく、興味だけで封筒に手を入れた。

 中の資料には、遺伝子的なデータや体力的筋力的数値、体内体外にいる細菌など(これは後ほどいろいろ勉強してそれとわかったのだが)、祖父の身体について調べられることはほぼ全て調べつくされてデータになっていた。

 さらに食事や睡眠時間などまで。

 ――設計図か。

 祖父という人間を、分解してまた作り直しでもするかのような。

 その封筒の中に入っていたのは、生きていない祖父だ。

 ついさっき別れを済ませてきた祖父がむしろ人形、偽物であったのか。驚きよりも苛立ち。

 我々家族よりも祖父のことをよく知っている人間がいる、はるかに詳しく知っているものたちが。

 タクヤは『東日本――』についてすぐさま調べを始めた。

 最近の祖父をほとんど知らない、正直興味もなかった、法事の席で「ちゃっかりしている」などと笑っていた、故人に対する思いは曖昧で薄く、先入観に満ちていた。

 模糊とした気持ちに重みをくれたのが東日本なんとかいうわけのわからん機関だった、という悔しさ、惨めさ、情けなさ。

 東日本なんとかに対してムカつくって?

 怪しいって?

 祖父が死んだのは、その東日本なんちゃらのせいじゃないか。祖父は殺された、人体実験のマウスにされて……。

 怒ってる?

 それこそ「都合がいい」「ちゃっかりしてる」ってもんだ、山田タクヤ!

「老人の名前は山田二郎という。さっききみの仮面をはぎとった男の祖父だ」

「え!」

「あの若者は山田タクヤ。警察官としてこの町の交番勤めをしているというが、なるほど、あの仙人の血を濃く受け継いだようだ」

 実際、顔を合わせたのは初めてだったが(中島は仮面を被っていたが)、山田タクヤのことは知っていた。姿は写真でみていた。いろいろ調べてもあった。

「運命」

 という言葉が思わず口をつきそうだったが、外には出なかった。

 山田タクヤが、孫がそれを意志するなら、遅かれ早かれ顔を合わせることにはなるさ。「わたし」が「わたし」である限り、「彼」が「彼」である限り。

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