第1部 2

 そこは、逃げるにはひどく不便な場所で。

 とんでもなく走りづらい、ただでさえ動きづらい。無事に逃げられるとはとても思えなかった。

 なんせあの男は空を飛ぶのだ。

 捕まる自分を想像していた。捕まりたくなくて、死にたくなくて涙が出る、

 とか、そんな感じではなかった。不思議だった。

 なにがなんでも逃げたいわけでもなかった。

 ただしそんなことが意識にあったわけではない。

 必死だった。逃げることに。生き延びることにではなく、死なないためにではなく、ただ逃げるために。逃げることが、必死だった。

 ただ逃げる自分の姿だけを思っていたわけではなかった。

 体の内側に、激しく波打つ心臓に、破裂しそうな血管を巡る、「あいつ」の姿があった。「そいつ」の姿を追いかけた。

「僕も死ぬから」

 心の中で言葉にした。逆さまに転がり落ちる。「僕」と「あいつ」……。

 世界が回っていた。

 すぐ近くでガサガサバキバキと音がした。

 背中からお腹に向けて重力を感じていた、自分が回っている感覚と裏腹に動かない体が腹立たしい、口が土や草を噛んでいることが不愉快だ。

 地べたに這いつくばっている自分がかっこ悪い、情けない。「死ぬ」という文字(意識)は既にない、当然の「生」と地面を噛んだ惨めな「生」の狭間。

「虚ろ」にいたのは一瞬。

 目の前に仮面。男は既にそこに。

 ペッ、ペッ、と土と草を吐き出した。きれいにはならない。

 逃げる力もなかったが、「死」に向き合う覚悟(悲愴感)もなかった。

 重力と地面の板挟みに身動きもとれない「僕」だけがいた。

「僕」はすぐに、ゆっくりと立ち上がった。ズボンをはたき、コートをはたいた。

 ペッ、また吐き出した。顔を掌で拭った、土や葉っぱでざらっとしていた

 仮面の男は、立ち上がった「僕」に背中を向けた、そして「僕」は言葉を待った。

「なんといったか、ああそうだ、カイ、佐藤カイ」

 その名前が出てくるのを、待っていた……。

 仮面の半分をこちらにみせて、口元にはまた笑みが浮いているように。

「知り合い、友だちか。似ているな、君たちは。君の名は?」

 そんな名前の映画があったな、といってまた笑った。

「リク、高橋陸」

「リクか。名前も似ていた」

 男が向こうをみながらいった。別に、似ていない。

 夕闇が一段と濃くなっていた。そこは草地になっていて、向こうの縁には杉の木が数本並んでいた。

 杉の木は黒い影そのもので、間からみえる東の空は、木の影と比べればまだ微かに明るさを残しているといえそうだった。寒さが体を震わせた。

「あの、口をすすぎたいんですけど」

「それはそうだ」

 草地を少し南に移動して舗装された坂道に出て、その坂道を上がっていった。上には水道があり、口に水を入れることができる。

 男に対する疑問が、いくつも言葉として胸に湧いてきたのは、漸くこのときだった。

 何者? なんで仮面? どうやって先回り? なんで背中? ……?

 口をついた問いとは。

「カイは、生きてますか?」

 背中は止まることなく進んでいく、明りを失くしつつある城山よろしく、静かなまま。

 影、足音だけが聞こえる様は、まるで幽霊か妖怪のようだった。


 家に帰ったのは夕方六時半過ぎだった。両親はまだ帰っていなかった。

 真っ暗な家に入り、電気をつける、台所にいってお湯を沸かしている間に風呂を掃除する。リクの日課だった。

 バスタブを洗い、シャワーで流す。ザァァァァァ、シャワーの水流が意識から「今」を洗い流した。

 ――カイは本当に、死のうとしていたのか……。

 橋の上から下をのぞく幼馴染の姿を思い浮かべた。


 高橋陸と佐藤海は、幼馴染で同い年の仲良しだった。

 だった。

 母親同士も仲が良く、それぞれの父は家に置いて母子でよく遊びにいっていた。

 小学六年のとき、事件が起きた。カイの父親が警察に捕まった。「強制わいせつ罪」だった。

 年末の忘年会、飲みすぎた同僚の女性をタクシーでアパートまで送り届け、二人で部屋の中に入り、水を飲ませたり介抱してベッドに寝かせた。そこで、女性の体を触ってしまった、という。

 女性が警察に相談したのは翌日のことだった。

 おぼろげな意識の中で、はっきりと体を触られた感触があった、という。

 カイの父親は、すんなりと認めてしまった。無論、それは罪の意識からだが、父親は人が好すぎた。

 弁護士が入って示談が成立し、起訴されることはなかったが、父親は職を失った。

 そして妻も。

 誰もがみたことあるような人生転落再現VTRの主人公になりきってしまった。カイの父親は人が好すぎた。

 その事件の後、カイはイジメられるようになった。


「はっ」

 として我に返った。仮面がいた。

 リクは周りを見回した、そこは自分の家の風呂場であり、窓ガラスに人影、もない。

 一人だった。一つ溜息を吐いた。

 風呂掃除を終えて台所にいくと、薬缶(やかん)のお湯はすっかり沸いていた。

 七時にはまだ少しある。今からカイの家にいってみようかと思った。一緒に仮面の話ができると思った。それともう一つ……。


 坂道を上がった先は舗装されていない広場になっていて、駐車場だったり、ベンチがあったり。

 隅にある水飲み場で口をすすいだ。高台から見下ろす、灯りが煌いていた。

 全部作り物だ。

 足元の少し向こうから自動車やバイクのエンジン音が沸きあがり空へと吸い込まれていった、湧き上がり空へと吸い込まれていった、湧き上がり空へと……。

「家まで送ろう。車はすぐそこにある」

「だいじょぶです、歩いて帰ります」

「子どもが遠慮するものではない。まあ、わたしの得体の知れなさをみながら、迷わず車に乗り込むような中学生もどうかと思うがな」

 その声はなんだか楽しそうだった。相変わらずの背中。

「そんなタフな子どもなら、わたしが仮面を被って声をかけたりせんさ」

 男の呟きは、断片をリクの耳に届けただけだった。拾った断片を、リクはこの場に相応しい言葉に組み上げることはできなかった。強いてしなかった。

「君の友だち、カイくんは生きている」

「生きてますか」

「今日も、明日も明後日も。彼は、生きる。彼は生きる道を選んだ」

「選んだ?」

 一瞬、リクはムッとする。

「車の中で話そう。君も車に乗りたまえ」

 君も?

 駐車場に車が一台停まっていた、エンジンがかかっていた、その車をリクはみた。

 ――カイも、乗っているのか。

 躊躇、心の強張りと逆に足は車に向かって歩き出していた。

 後部座席に男と並んで座った。カイは乗っていなかった。

 ルームランプがスゥッと消えて暗くなる、車は動き出す。

 ヘッドライトが闇をくりぬいた。大人の人と車の後部座席に座ると、なんとなく、自分まで大人になったような、偉くなったような気がした。

 仮面はカイにも会ったという。同じように車で家まで送ったという。

 カイを送り終えて帰る途中に城山に寄ってみた、そこでリクをみた。

「近いのだな」

 ここでいいとリクがいうと、仮面がそういった。リクとカイはご近所さんだ。

 カイは、橋から飛び降りようとしていたらしい。

 城山の東を通る道を北へと上がっていく、農業大学の横を通ってさらに北へ上がると、谷を越えて西へ渡る大きな橋があった。

 下の川まで数十メートル。見晴らしはいいが、落ちればもちろん死ぬ。カイはその橋の欄干に身を寄せていた。

 いきなり声をかけると、その拍子で落ちるかもしれない、そう思ったのでこっそり後ろから捕まえたという。

 ――ずいぶん遠くまでいったんだな……。

 リクは驚いたような関心したような。城山で済まそうとした自分とは大違いだ。

 仮面の男は、たまたまそこに通りかかったという。

「イジメにあっているのだろう」

 仮面の口から「イジメ」の言葉が出てきて、リクは若干驚く。カイがそんな話を、この仮面にしたんだろうか。

 カイがイジメられていることを知っていても、リクにはなにをすることもできなかった。一緒に苦しんであげるくらいしか。

 黙ってみてる、みてみぬ振りをする、そんな自分を責めることくらいしか。

 自分で自分の頬を自分なりに思い切りつねる、引っぱたく、ほどの痛みを自分に与える、くらいしか。

 イジメられるカイをみ続けて一年ほどが経った。

 ――カイが死んだら、僕のせいだ。

 ――カイが死んだら、僕も死のう。

 そんなことを考え続けた一年だった。

 そんなことを考え続けた中学一年がもうじき終わろうとしている。

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