小説咲夜姫

山口歌糸

タケノハナの章

 江戸時代は中頃のこと。富士山の御膝元とされる駿河(するが)の国は富士の町の一角に、質素な竹職人の男がいた。名を甚六(じんろく)といい、代々続く職人一家の長男である。

 彼、齢(よわい)は三十手前にして、竹細工の職を受け継いだ。それというのが、先代である父が先年に身体を患い呆気(あっけ)なく逝ったからで、二人いた弟も流行り病などにかかりすでに亡くなっていた。元より跡取りの筆頭だった上、弟が亡くなり、いよいよ他の当ても消え、本人も異心はないとしてあっさりと継ぎ今がある。

 甚六はこの歳で今も独り身であった。

 二歳下の妹もいて、こちらは隣町の商家へ嫁いで久しい。その家がまあまあ裕福な方で生活も良いので、甚六らの母親もそこへ移り住んだ。本人は遠慮したが、甚六も勧めた結果である。縁談諸々で用があろうと隣町なので大した足労ではなく、残された者からすれば留守に心配をする必要がなくなるので都合は良かった。

 家には男一人、寂しい身の上ではある。毎日、自分で寝起きし、竹を取っては加工し、品を売るという暮らしで何とかやっていた。


 ある冬の日の午後、妹が家を訪ねてきた。

「甚六さん。御機嫌良う」

 玄関戸を慣れた手付きですいと開けると、軽々しい挨拶を述べた。甚六は畳に胡坐(あぐら)をかいて作業をするまま、知った声なので顔も上げなかった。

「ああ、お前か」

 甚六が朝には竹林へ行き、昼からは加工へ時間を取ることを、妹はよく知っている。頃合い上手く見計らって、家を訪ねてきたわけだった。

「変わりはないようですね」

 上がり框(かまち)に腰掛けながら、妹は懐かしむように、古びて潰れそうな屋内を見渡した。

 家屋の造りというのが、この地方ではそれほどの変哲がない。

 富士の麓(ふもと)の町には「富士おろし」と呼ぶ山風、それも日本で最も高い山から吹き下ろす風がびゅうびゅうと年中吹く。真北からその風、南東側には伊豆半島と挟まれてなる駿河湾を置き、とにかく風通しの良い地形である。夏は他方と比べて涼しく、山地らしい標高と眺望(ちょうぼう)も相まって避暑地とも捉えられた。

 一方、その風で冬の今時季にはそれなりに冷え込む。だが地形の特性から、雪はほぼ山に降り、町にはまず積もらない。北方の国々のように天地から冷やされて凍えるほどの暮らしは強いられず、当然に雪や冬に対して人々の対策や知識は乏(とぼ)しく、自然と家の造りも大層なものとはならなかった。

「仕事の具合はどうですか」

 妹は何の気なさそうに問うてきた。

「良くはないよ。この前も親父の鉈(なた)を一本、質屋に入れてしまった」

 細く切った竹の籤(ひご)を編み合わせながら、甚六は言った。

「まあ、何ということ」

「仕方あるまい。だけど親父をよく知る人だからずいぶんと色をつけてくれた。おかげで向こうしばらくは大丈夫になった。日頃の行いが良いから山神様も慈悲をくれたようだ」

 鼻を鳴らして笑う甚六に、

「何をおっしゃいますか」

 妹は呆れた声で言うと、持っていた手土産をはいと言って甚六の近くへ置いた。

「何だい、これは」

「御裾(おすそ)分けです。うさぎ餅」

「うさぎ餅だと」

 甚六が作りかけの竹から手を離したので、小ぶりな手籠の形をせっかく成した物がばらばらと少しほどけた。だが意に介せず、甚六は手土産の風呂敷包みをほどくのに夢中になった。

「ほう。久しぶりに見るね、これ」

 甚六は行儀悪く、それを一個つまみ食った。餅は三個入っていた。

「うん、甘い!」

 うさぎ餅は、国に留まらず江戸の東、京都の西まで知られるほど有名で、安倍川餅(あべかわもち)と追分羊羹(おいわけようかん)と並び駿河三大名物とも称された。駿河は富士山のおかげもあって澄んだ水の豊富な国で、食べ物の品質は総じて良いといわれた。

 うさぎ餅を作っているのは富士より海岸沿いを西へずっと渡ったところで、清水と呼ばれる地域にある。餅の生地は薄く作られ、中に小豆餡(あずきあん)が目一杯詰められる。天辺(てっぺん)に満月を模した丸い焼き印を押すことから名がつけられたともいい、これを提供する茶店が客引きのために軒先でうさぎを飼ったことから名がついたともいった。

 久しぶりと思わず声に出したのは、甚六が幼い頃にはよく誰それとなく貰って食べたからである。大人になった時分に御目にかかれなくなったのは、懐具合が理由に他ならない。

 一個を喉に詰まる勢いで飲み込んだ後、もう一個を頬張り、甚六は作業を再開した。ほどけて行き先を見失った竹籤を慣れた手付きで掴み取ると、また手籠を編み始めた。

「御茶を淹れますよ、せっかくなので」

 妹は座敷へ上がると茶の用意を始めた。

 茶葉は買っても中々使わないので古い。甚六は自分で好んでは飲まなかった。だが、茶は駿河の名産である。妹が慣れた手つきでさっさと淹れた茶を頂くと、さすがに美味い。腐っても鯛とはまさにこのことだった。

 妹は茶を淹れたついでに火鉢へ炭を足し入れると、自分の分の湯飲みに口をつけ、一息ついて家の中を見渡した。時折訪ねてくるのだが、嫁いだ身にとって生家は特別な懐かしさを感じさせるらしかった。

「守らないとねえ」

 妹の呟くような言葉を、甚六はしっかりと聞き取った。茶の後味が、妙に苦く変わって感じた。

「守る。うん、まあ」

 意味も至極(しごく)わかるので自信なさげの返事が口をついた。

 せめてあと一人でも職人がいたなら稼業も上手い具合に運ぶだろうが、甚六の生半可な技術では、先代の名に少しずつ傷をつけ、やがて廃れさせてしまうかもしれないという不安は始終消えなかった。

 何も男手でなくとも良いのだ。そう考えると、甚六が三十路近くなって独り身でぶらぶらと生きていることにも責任の一端がある。家族の早死にを責めるわけにはいかない。

 縁談も以前はよくあったが、いずれも不首尾だった。甚六の性格に特段の問題があったわけではない。家計が頼りなさそうだとか、今回は縁がなかったとかいう漠然とした言い訳によってまとまらなかった。そのうちに勧める役目の母や妹も諦めたのか、話をよこさなくなった。よこすものいえば手土産の菓子くらい。いくら三大名物に名を連ねるといっても、うさぎ餅と縁談とでは比べようもない。

 実は甚六も、甲斐性にあまり自信はなかった。最後に貰った縁談、その相手というのが出戻りの同じ年頃の女性で、いかにもつっけんどんな態度をされてこちらも機嫌が悪くなった。その後に向こうから破談を申し立てられ、ますます自信がなくなった。あのときのことがまだ記憶に新しい。当然、次への期待など持てるはずはなかった。

「仕事のことですが」

 家を眺めるのに飽いたのか、妹は話し始めた。甚六は手籠を編みながら聞いた。

「今度、うちの近くの地主様が、家の竹垣を一新したいそうなのです。だから竹をたくさん仕入れてほしいそうです」

「へえ、それはすぐにでもやらせてもらえるのかい」

「もちろんです。うちの兄なら慣れていますよと紹介しておきました」

「さすがだね。明日にでも二、三本取ってくる」

 甚六は出来上がった手籠を持ち上げ、下から横から眺めた後、小さく頷いた。出来栄え悪くない。妹にはい、と手渡した。紹介料、手数料の意味合いとしたのだが、妹は当然のごとく懐から銭を出して甚六の元へ置いた。

「受け取りに来れば良いですか、またこの時刻くらいに」

「そうだねえ」

「わかりました。長男に持たせますよ」

 妹には男児が二人いて、長男の年かさは青年というに近い。下手をすると甚六など置き去って、先に妻を娶るかもしれない。

「うん、頼む」

 そう言うと甚六は、うさぎ餅の残り一つをつまんだ。

 妹は家の仕事があるといって、腰を上げた。風呂敷はたたみ、受け取った手籠へ入れた後、その籠をまじまじと眺めては、

「腕は悪くないと思います」

 と、意味深長な激励をした。

 言い換えれば後は心次第、性格次第などと聞こえて甚六はあまり嬉しくなかった。てんで腕のない職人でも人当たりの良さで出世することはしばしばある。しかしそれも性格なのだから、ある意味で技術を習得することよりも変えるのは難しい。

「有難(ありがた)い。皆によろしく伝えて」

 甚六は玄関まで妹を見送った。昼下がりの日差しの下を小股で進む後ろ姿は、いかにも母親の風体である。幼い頃から見てきたよりも、彼女は少し肥えてたくましい。


 駿河の国では、方々に良い竹林があった。そこで竹を採るために多くの人間が出入りした。作られる品々は国名に因み「駿河竹」と呼ばれた。甚六も一介の職人とはいえ、その技を生業とする身分である。

 竹というものはそもそも、木材と比べて扱い易い。伐採から加工までの仕事が一人でも何とかやれてしまうので、甚六や先代の父のように家を工房にする者の他、この頃、兼業したり、武士が内職で担ったりすることも多かった。

 甚六は翌朝早くから、近くの竹林へやってきた。そこは富士おろしがたっぷりと吹き込む、広い土地にある。大人の何人分もの高さに茂る竹の枝葉は、風にいつも揺られてはざわざわと騒いだ。若くまだ細い竹は時に、倒れそうなほどにしなった。

 今回は竹垣に使うというので、体良く見積もって三本切るつもりで来た。普段なら一、二本程度をその場で短く何等分かにして背負い籠で持ち帰るのだが、今朝は大八車(だいはちぐるま)を引いてきてある。それにどっさりと積み、昼までに戻って妹とその長男が受け取りに来るのを待つ、そんな予定でいた。

 甚六は道具を持って早速、竹を見定め始めた。

 竹の取り方にはいくつかの注意が要る。竹というのは地面に根を張るのでなく、地下茎(ちかけい)を作り、別の竹とつながって生える。それが地面の上では隣り合わせるわけでもなく、地下茎同士が地中では交差したり、張り巡らされたりする。同じ地下茎の兄弟なら色や模様も似るので、それを頼りに選び、親竹と呼ぶ地下茎の大事な一本を必ず残さなくてはならない。竹材に適すのは大体三年から四年物とされ、それ以下だと若過ぎて頼りなく、それ以上だと丈夫さと色味に欠けた。

 時季は、今くらいの冬が良いとされる。他の時でも取れなくはないが、良質とは限らない。寒い時季には竹は地から水を吸うのを止めるので、硬質で長持ちする物が手に入りやすい。対して、春以降に切った竹は、後に水分と油分、汚れなどもしつこく浮き出て良い品にできないのだ。

 甚六は養ってきた勘で見定めた竹を、まずは一本、鋸(のこぎり)で切り倒した。竹の胴体を成す稈(かん)は、中が空洞なので、切るのは容易い。竹は切られた瞬間から硬くなり始めるので、作業としては、枝を素早く落とさないと後で偉い目に遭う。倒れた竹を支えながら、伸びる枝を全て根元から鉈で落とす。その枝は竹穂として別の用途があるので取り、葉は取り除いて竹林へばら撒く。これらは林の肥料となる。

 高さを見積もって切ったところで、竹取りの一連が完了する。今回はそれを三本、甚六は手早く済ませると大八車の荷台へどかどかと乗せ込み、縄で縛りつけた。

 それらを見下ろしながら、甚六は腕組みしてしばし佇(たたず)んだ。三本程度では地主屋敷の一辺にもなるまい。ひとまずはよしとしていたが、欲が出てもう一本行こうと決め、竹林をまた歩き始めた。

 普段は足を踏み入れぬ奥まで何とはなしに進むと、甚六は妙な一帯に出た。

「む、何だ」

 その辺りには、人の入った形跡が感じられなかった。足元は落ちたままの葉が敷かれ、見るからに古く年寄った竹が立ち並んでいる。

 その竹のどれもが、低い枝に鮮やかな桃色の花をつけていた。上向きに伸びた枝の先が、びっしりと花に覆われる。その花からは、だらりと提灯(ちょうちん)のようにぶら下がる何かが数多くある。栄えた町の賑やかな軒先、明るい喧騒(けんそう)をも思わせるそれは――、

(竹の花と、竹の実だ)

 話にだけは聞いたことがあった。竹の花は一説に百年に一度つけるかどうかといわれる幻のようなもの。見れば不吉なことが起こるとされた。竹の実を食べに鼠(ねずみ)が大群で押し寄せることから生まれた説とも聞くが、総じて不吉の前兆とされた。

 甚六は持っていた鉈を構えてはみたものの、今さら切り落としたところで地に実が落ち、鼠が食うだけであろうと思い直し、結局、鉈は元に収めて、

(触らぬ神に祟(たた)りなし、だ)

 と、背を向けて逃げ出した。

 大股で落ち葉を踏みしめると、がさがさと音が出る。音が立てば居場所は知れてしまうが、それでも構わずとにかく逃げる。富士からの北風が背にぶつかり、追い立てられるように甚六はひたすらに逃げた。今朝方、竹を取っていた地点まで戻ると、やり残しなどないか適当に見回してからさっさと竹林を出た。三本分の竹の積まれた車を早足でごろごろと引いて、町へと向かった。


 帰りの道中、甚六はうんざりした。それでなくとも調子の悪い仕事の中で、どうしてさらに不吉と呼ばれるものに出遭うのかと。百年に一度の現象は、見方を変えれば幸運と言えなくもないが、結局それはこじつけ、取り繕(つくろ)いに過ぎない。やはり不吉なことに違いないだろう。

 縄の内でもがらがらと音を立てる竹を振り返り、甚六は車を止めた。後部へ回ると、縄をきつく縛り直した。だが動き出すと隙間はわずかながら、またできてしまう。こうなったらと褞袍(どてら)を脱いで間に詰めた。防ぎようもない北風が身体に突き刺さるほどに感じた。歯がかちかちと震えた。

 とにかく音を立てずに町へ戻らなくては…。どうしてそう思うのかわからぬまま、ただ一心に思った。道の後ろをじっと見つめるが、遠くまでも人どころか鳥の気配すらない。足元では風に吹かれて小石が転がった。空を仰げば、山頂を雲に覆われた富士山の胴体だけが覗いた。首のない、偉い翁(おきな)が胡坐をかき、雲の裏から甚六を見下ろしているようでもあった。竹の花を見つけたことを咎められ、罰せられる、甚六の心意には関係なく、すでにそれは決まっているかのように感じた。

 恐怖も相まってますます身体は震えた。甚六が急いでまた車を引き始めると、竹は静かになった。だが竹の音がしなくなると今度は車輪のごろごろという音が響き、居場所はどのみち隠しようがない。とにもかくにも、甚六は逃げた。

 町内へ入ると、甚六は足を緩め、速度を落として車を引いた。すれ違った顔見知りの年配者が、この寒中に汗をかくほどの働きぶりは殊勝(しゅしょう)と褒めたが、それも見当違い。汗は汗でも冷や汗交じりだった。

 家まで戻ると、車を軒先に置いた。竹林からここまでずっと絞められ続けた首をようやく離された気分で、甚六は両手を膝につき、背を丸め、地面を見ながら何度も深呼吸を繰り返す。汗が額を伝い、土にぽたりぽたりと落ちて、雨の降り始めのような染みになった。甚六の息を吐くに合わせて、汗は一滴ずつ拍子でも取るようだった。

「参った」

 つい独り言が出て、汗まみれの身体を拭こうと屋内へ入った。

 土間に干してあった使い古しのぼろを手に取ると、顔から首、着物の中まで手を突っ込んで胸板まで丁寧(ていねい)に拭いた。ぼろはそれだけでもう搾れそうなほどに汗を吸った。甚六はそれを見て、顔をしかめた。

「うう、寒い!」

 外へ出ると、少し乾いて落ち着いた身体に今度は寒風が堪(こた)えた。車に敷き詰めてあった褞袍を手に取ると、ばたばたと叩いて着込んだ。濡れたぼろを濯ごうと、すぐ近くの井戸まで行こうとして、ふと無意識に振り返った。

 玄関戸が閉じきっていない。その隙間からぴゅうぴゅうと風の音がする。甚六は不思議に思って隙間の前に手をやった。すると中から風が吹いている。風は冷たくも暖かくもない。はて、勝手口でも開け放してあったかと考えるが、確かめるのも面倒臭い。甚六は戸をぴしゃりと閉じた。


 富士の麓はとにかく水が豊富である。あれほど大きな峰の山がどんと構えているのだから、内部に貯えられる量は計り知れない。雨が降り、雪が降り、いつも足されては地下の水脈や川などを伝い、麓まで流れる。その間に充分過ぎるほどに濾過(ろか)された水は、井戸でも日差しが真上に来た時に覗いたらば、底面の石の傷まで見えるほど澄んでいる。その水で暮らす駿河の人々は、他方に比べて肌艶が良く、長寿である。人の身体もほとんどは水が成しているとよくいわれる。その富士の恵みがあれば健康になるのは決まっていた。

 甚六は井戸に桶(おけ)を下ろし、水を一杯、引き揚げた。手で触れる縄も桶も凍るほど冷たい。

「こんにちは」

 声の方を向くと、近くの神社の若い修験者(しゅげんしゃ)がいた。顔見知り程度で、名前も思い出せない。こういうところに甚六の甲斐性なしの一面が出る。相手の年頃は、甚六と同じくらいである。

「ああ、どうも」

 甚六は挨拶を返した。

「寒いのに御苦労様です」

「ええ。冷えますねえ」

 季節の会話を二言三言交わした後、甚六はぼろを井戸水で濯いだ。一方、脇に立つ修験者は用事も忘れたようにいつまでも北の空を見遣っている。つられて甚六も見た。

 北は富士山がそびえる方角である。先ほどまで被っていた雲が払われて、山頂まで全て姿を見せていた。そこに帰路背中に感じたような威圧感はなく、雪で白くなった雄大な峰だけがあった。

「明日にまた一塗りされそうですか」

 甚六は山頂を指さして尋ねた。

「この寒さじゃ間違いないでしょうね」

 修験者は頷きながら応えた。

 富士の山頂を顔や頭に例えて、雪化粧、冠雪(かんせつ)などという。その富士の御顔でわかるのが周囲の気候で、今日は冷え込んだなと感じる翌朝にはたいてい雪を被っていた。例年大体、秋の終わり頃までには初雪を塗り、冬の冷え込んだ翌日にもう一塗り、さらにもう一塗りと厚化粧してゆく。冬の深い時季には白というよりも銀色に輝く。駿河の女性は気高い湧き水のおかげで化粧要らずの地肌自慢だが、大元である富士はなぜか何層も塗りたくるのである。それというのも、その山の地肌は決して美しいものではない。結局、春夏に見る素賓(すっぴん)より秋冬の白厚塗りの方がはるかに人々を魅了した。

 気候を報せる役割は後追いで役に立たないこともあるが、今日明日の天気はいつも予見してくれた。富士山の頂にかかる雲の厚みで、雨の到来がよくわかった。ただ冬だと雨とならず雪となって山頂にばかり集まるので、この時季に限ってそれも怪しい。

 甚六は、顔を今は出した富士山を見て、山の気まぐれを考えてはいたが、そのうち今朝の不吉が脳裏をよぎってまたぞっとした。ぼろを急いで搾ると、修験者に挨拶をしてさっさと引き返そうとしたのだが、

「あっ」と思いついたように足を止めると、

「もし神社などで竹の品が必要になったら声をかけて下さい。仕事はできますので」

 修験者へ売り込みなどした。向こうは一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑を浮かべて、わかりました、と応えた。

 甚六はそんな自分が自分でないように思えて、

(何を急に頼もしいことを口走ったのだ、俺は)

 と、不思議な気になった。


 気休め程度には温む日差しにぼろをかざしながら、家路に就いた。ゆっくり歩いても四半刻とかからない。甚六はその短い間に、先ほどの自らの態度と言葉が我ながら清々しいものだったなと思い返した。相手が驚いたのも当然で、あんなに商人らしい人当たりを、甚六はこれまでできた試しがなかった。何しろ一人の仕事だ。人の目に職人と映るだけでは足りない。上手く振る舞わないと、存在すら忘れ去られてしまう。ようやく、少しは進歩したのだろうか。

 妹は昨日、片手間に作った手籠でも「腕が良い」と褒めてくれた。が、実際のところ、先代の腕には到底及ばない。要するにあの時は、身内の贔屓目(ひいきめ)で言われただけである。無愛想な職人気質を貫くならば腕を磨くしかない。その道がもし難しいのなら、人たらしになるほかない。

 考え事が過ぎて、気がつくと家の場所よりずいぶん先まで歩いていた。誰にも見られていないが、甚六はぼろを乾かすために歩いたふうを装いつつ、踵(きびす)を返した。家に着くと、軒先の車には竹垣用に切った長めの竹が積まれてある。竹垣に腕の見せどころは少ないが、努力してみる気はあった。その一方で、はて自分が、そんな気になれる人間か、と訝(いぶか)ってもみた。

 玄関戸に手をかけ、開くと、中から「びゅうっ」と風が逃げた。そういえば、と甚六は先刻気にかかった勝手口のことを思い出した。玄関戸はほんのわずか開けたところで閉め、裏手へ回ってみた。

 勝手口は、隣の家との間にある。開け放したら壁に当たるほどの幅の路地で、真昼しか日は当たらず、風は縮こまって勢いを増し、吹き抜ける。昔は隣家が建っていなかったので親の代まではまあまあ使ったらしいが、今は好んで入り込む必要もなく、表側だけを使用した。

 その路地に踏み入り、勝手口の前まで来た。戸は開いていない。ここを開けずに、風が勢い良く抜ける穴など他にあったか。あの風は勘違いだったかと、甚六は首を傾げた。また表へ回る用もないので、甚六は勝手口から屋内へと入った。ろくに使わぬ台所を抜け、居間へ出ると、甚六は驚いて、持っていたぼろを思わず落としてしまった。

「は」

 居間の真ん中に、白い着物を着た女子(おなご)が正座していた。

 髷(まげ)にも足りなそうな、結っただけの髪を見るところ、歳の頃は四、五歳ほどと知れた。

 女子も気付いて、甚六に視線を向けた。見つめ合うが、子供が大人の男へ向けるようなおどおどした目の泳ぎはまったく見られない。

(知り合いか)

 近所や通る道すがらの家々などでその顔を見たことはない、おそらく初対面だ。

「お前は誰だ」

 問われても何も言わず、女子は甚六をじっと見続けた。その迷いない眼差しに甚六の方が逸らした。

(どういうことだ、これは)

 甚六は焦りから、動揺していた。落としたぼろを踏んでしまい滑った。ぼろは踏まれて土まみれになった。

 女子のことをまたよく見てみると、顔立ちがいやに整っている。肌も白い。その年頃ですでに美人の相貌(そうぼう)をしているのだから、長じたらきっと…。不穏な感想が浮かんで甚六も思わず目を引かれてじろじろと観察してしまった。

「すまん。あの、ここは俺の家だ。お前、家を間違えていないか。なあ」

 女子はそこで初めて意思を表した。首を横に振って、ここは自分の家だという意味を示した。

「いや、そんなはずは」

 甚六は内装や家具など眺め回した。散らかってもいるので見ていて気分の良いものでもないが、見飽きた自分の家には違いなかった。また女子へ目を遣ると、向こうは正座からまっすぐの宙を見つめ、何やら寛いでいる。これではもう甚六の方が勝手口から侵入した、泥棒、暴漢、のごとくにされてしまったようなものだ。

 甚六は何を思ったかとりあえず、勝手口の戸締まりを確かめに行った。良し、と戻ってくると、今度は表側の戸を確かめに進んだ。戸を一旦は開け、右、左と見たところ、

(あ、まずい)

 遠くから妹が長男と道を連れ立ってくる。理由はわからないまま、何とかしなくてはと、行動に移した。

 甚六は居間に上がり、ぽかんと見上げている女子の袖を掴むと、とにかく立たせた。その身体は落ちたぼろを拾い上げるがごとくに軽い。背は甚六の半分ほど。腕は顔と同じく白色をして、なおかつか細いので白竹(しらたけ)を連想させた。切り落とした竹を火で炙った後、天日に干して作る竹材のことである。熟練の職人の製作だと顔も映るほどに鮮やかな白が出るが、この女子の腕も皺(しわ)一つもなくまさにそのようだった。

 が、見惚れている場合ではない。甚六は女子の手を引いて、家の中を見渡した。家財道具を詰めてある棚と箪笥(たんす)が並ぶその向こうに、壁との隙間があった。そこまで引き連れていくと、

「ここにしばらく隠れるか」

 訊いたが、女子はぽかんと甚六の顔を見つめるばかりで何も言わない。

「頼む。悪いようにはしない。今だけ時間稼ぎにつき合ってくれ」

 甚六は返事にもう期待はせず、言うだけ言うと女子を隙間に立たせた。大人には無理があるが、子供ならすっぽりと収まる。甚六は一度離れて、肩などはみ出ていないか確かめた後、また近寄って言った。

「すぐ済むから、な」

 ぽん、と肩に触れると、そこは骨など入っていないかのように柔らかく、指が吸い込まれそうな感触がした。甚六は妙な気になった。

 迷子なのか、物を言わないので何やら理由があるのかもしれない。きっと甚六の家を選んだのは単なる偶然だろうが、だとしても運が悪い。とにかくこの後、どうするか考えろ、と甚六は自身へ問いかけた。気の利いた返答はありようもなく、知恵のなさが身に染みた。

 女子を隠して間もなく、玄関戸の向こうから妹の声が聞こえた。

「いますか、甚六さん」

「はいよ」

 返事を聞くが早いか、妹はもう戸を開けていた。長男を先に入れて、本人が後に続いた。今日は冷え込むから、昨日見たよりも分厚い、布団のような羽織を着ていた。長男にもそれらしい贅沢そうな物を着せていた。

 甚六は火鉢に炭を足して、火を起こした。

「あれま、早過ぎましたかしら」

「いや、水汲みに行ったりして忙しかっただけさ。竹は取ってあるよ、外に見えたろう」

 甚六は長男と目が合った。頷くような小さな会釈をすると、向こうはゆっくりと深く頭を下げた。会うのはしばらくぶりで、背が高くなった。甚六はじきに抜かされよう。すらりと手足も長く、格好もずっと良い。

 妹は表へ出た。竹を確かめたらしく、良さそうですね、と言って戻ってきた。

「お前は先にそれを引いて戻りなさいよ」

 妹はそう言って、長男だけを外へやろうとした。長居をする気だと甚六はすぐにわかった。すかさず視線を、土間、奥の隙間と順に移した。居間と隣り合わせにある台所に立った後、もしも振り返ったら隙間の女子に気付かれる。

「ちょっと俺、頼み事されて忙しいんだ。だから明日にでも来て、ゆっくりしてくれよ」

「そうなんですか」

 妹は訊き返しながら、いつものように屋内を懐かしみ始めた。甚六は焦った。

「そうなんだ。ちょっと用事があって出るから。ところで竹垣のそれ、明日も運ぶかい」

 身振りまで交えて妹の注意を引くと、ようやく視線はまっすぐこちらへ来た。

「ええ、一応に見てもらいまして、明日にまた訪ねますよ」

「なるほどわかった。そうしたらまた取っておくから、今日は御免、これで」

 甚六は妹の身体を外へ押し遣った。それほど忙しいの、と妹は不思議そうに訊き返したが、甚六に答える気はない。妹のふくよかに見えた肩も背も触れるとごつごつして心地悪く、不格好だと感じた。

「頼んだよ。あ、車はどうしようか」

 甚六の元には大八車が一台しかないので、今日中に戻してもらえないと明朝は竹林へ出かけられない。背負い籠で行ったら二本分で精一杯というところで当然、物足りないだろう。

「じゃあお前、後でもう一度ここまで荷車を戻しに来られるかしら」

 妹は息子へずうずうしくまた頼んだ。息子は快諾したので甚六はちょっと驚いた。一応は遠慮して、

「いや、俺が夜に取りに行くよ。もし来なかったら明日行くから」

 と言っておいた。

「悪いわね。忙しいのに」

「実はそこまでじゃない。取りに行くくらいの暇はあるさ。とにかく今は御免よ」

 まくし立てた後、「はいはいそれでは」と二人の背を押すように見送った。ごろごろと大八車を引く勇ましい長男と、その側に手だけ添えて歩く母親の背を、最後まで見届ける余裕は甚六にはなかった。まだ声も届きそうな距離で見切りをつけ、すぐさまに家へ入った。

 戸を後ろ手で閉めると、息が切れた。ああ、と頼りない声まで漏れた。手で戸を押さえたまま、屋内を見回すと、しんとしている。

「おい」

 小さく呼びかけてみた。コトッ、と音が返ってきた気がしたが、家鳴りだったのかもしれない。妹に懐かしまれる筋合いない散らかった屋内からは、要するに何の物音も聞こえない。

 甚六は居間へ上がり、箪笥の手前に立った。隙間の奥は、角度のせいでまだ見えない。

 ふと思った。これでぱっと覗くと、きっと誰もいない。すべては甚六の見間違い、一瞬の夢でも見た、ということになれば今後も変わらずに暮らせるのだ。

 そう望みながら不思議な気持ちで、そうっと隙間に顔を寄せた。

 だが女子は、いた。

 隙間に身体を収めた先ほどの体勢のまま、身動き一つ取らなかったかのようにじっと立っていた。改めて姿を見ると、薄手の衣装の丈が、年上から譲り受けたかのように長い。袖口は手の指先まで覆い隠すほど余り、足先まで伸びた裾は踏まれていた。

 視線はまっすぐに、しなびた木の壁を見つめている。そのまつ毛が長くなだらかな曲線を描き、子供とは思えぬほどに成熟していた。尖った鼻先にすらりと細長い手の指など、そこかしこから大人が感じられた。一度は成熟したものの、故あってまた子供に戻り、その折に戻し忘れた箇所が鼻や指やまつ毛だった、というような…。

 女子がいたこと自体には落胆を感じたはずの甚六だが、消えていなくて良かったという思いがなぜか湧いた。

「お前、どこから来たのだい」

 尋ねても、やはり何も言わない。ため息をゆっくりと呑み込み、甚六は平静を装った。

 居間の中央まで戻って火鉢を確かめると、さっき点けてくすぶっていた火はもう消えていた。傍に置いてあった火打ち石と打ち金をかちかちと鳴らしては、火種を吹いて起こした。炭に火を渡した後、振り向くと、隙間から女子が顔だけ覗かせていた。

「おいで。暖まるから」

 自分でも信じられぬほどの優しい声が出て、甚六は驚いた。女子は、するすると裾を引きずりながら歩いて出てきた。火鉢の近くで、今度は正座ではなく膝を抱えて座した。

「その裾の長いのは不便だな」

 甚六が言うと、女子は抱えた裾を自ら引き上げ、脚までをさらした。

 手に比べると足の指は丸くて短く子供らしい。甚六は観察ついで、脚を伝って着物の裾から陰になる方まで目を走らせた。女子は火鉢の赤いのに興味があるらしく、こちらの視線などには気付かない。甚六はつい無遠慮に見た。そのうちに正気に戻ると、首を戻して、

(馬鹿者が)

 と自分を戒めた。

 火鉢の前で一刻ばかり温もると、甚六はとりあえず、考えがまとまった気がした。

 この女子が捨て子であれ迷子であれ、一旦は神社に連れてゆくべきだ。尋ね人なら神社にはまず話が入るだろうし、仮に引き取り手がなさそうな場合でも、神社の子となれば良い。女子であることは気になるが、他に方法があろうか。それに、と甚六はまた女子へ目を遣ると、今度は視線がぶつかった。

 このように美しい子を捨てる親というのは、おそらくこの世にはいない。この子には何か事情が隠れている。易々とは覆らぬ深い事情が。

「お前、自分の名前がわかるかい」

 訊いても女子は答えない。

「じゃあどこで生まれた」

 やはり答えはない。

「あんまり喋らぬと失語の者とみて、またどこかの野へ放られるかもしれん。それが嫌なら、一言でも喋ってみてくれるか」

 甚六が言うと、女子はしばらくじっとした後、口を小さく開けて、

「あ」

 と、発した。

 声があることに甚六はひとまず安堵した。だが知りたいことには黙したままだ。さらに頼んでみた。

「あ、じゃ駄目だ。失語でもそれくらいは出る。何か言葉を言えよ」

 女子は視線をふと避け、右に左にと動かした。しなやかなばかりでなく量も豊かなまつ毛が、目線で横に、瞬きで縦に合わせて動く様子が、まだ年若い野鳥の羽ばたきのようだった。何物にも邪魔されず、傷みのない羽で優雅に空を舞うようである。

 女子は視線を落ち着かせると最後に甚六の方に戻した。そして口を開けて、

「たけ」

 と、言った。甚六は熱湯でもかけられたかのように背がかっと熱くなった。周りを見ると、至る所に竹がある。干してある竹材や、作り置いた品々、細工の残骸など落ちていた。甚六は慣れて感じないが、この家には青竹の清涼な匂いが満ちている。

「竹か」

 甚六は、ふむ、と唸った。

「俺は竹職人をしている。親の跡を継いだが、腕も人間も今一つで、うだつが上がらない。だから」

 そこで言葉が切れた。何を自己紹介などするかと思えば、今度は愚痴まで言おうとする、それも子供相手に。

「かい、なし」

 そう言われて甚六は訊き返した。

「え、何と」

「かいなし」

「言葉も知っていたか」

 女子は静かに頷いた。甚六は目を合わせるのも辛くなり、うつむいて畳の目を見た。あちこち傷み、へこみ、色のくすんだ部分も目立つ。

「そうさ、俺は甲斐なしだよ。頼ったところで何も出ない」

 甚六はうつむいたまま、ふてくされたように畳のささくれをむしった。その頭と髪に向かい、女子が首を横に振っている気がした。不意に自嘲(じちょう)の笑みがこみ上げたが、下唇を噛みしめて自分をごまかした。

「迷子でなくて」

 甚六は顔を上げずに訊いた。

「親御も見当たらぬと」

 訊くというよりも自分に事を確かめるように言った。

「それじゃ何か。急にこの世に降って生まれてきたっていうのか。不思議な出生の形もあったものだねえ」

 茶化してもみたが、自分への何の慰めにもならず、余計に虚しくなる。顔をやや上げると、火鉢の中で煌々と燃える炭が目に入った。時折に、ぱちぱちと音を立てて爆ぜ、細かな灰を噴き出している。

 甚六は近くに放ってあった箸ほどに細い竹材を一本掴むと、火鉢の中へ差し込んで炙り、素早く抜いては、浮き出た油と汚れをぼろで拭き取り、また炙ることを繰り返した。強く熱の上がった部分を見定め、そこへは息を吹きかけて少し冷まし、竹の面へ均等に熱が当たるように調整した。子供の頃からこんな遊びばかりをしたので、手慣れたものだった。

 この作業は油抜きと呼ばれ、竹細工には欠かせない。伐採、日陰干し、油抜き、最後に加工へとつなげるのがいわゆる白竹細工、これ自体を竹細工とも呼ぶ。採ったまま使う青竹細工というのもあり、こちらは良質の竹が取れる冬にしかやれない。性質も細かには異なり、何よりも品の色に応じてやり分けられた。

 竹材がすべて具合良く炙られると、甚六は仕上げに強く振り、風に当てて熱を落ち着けた。眺めながら、まあ良いかと呟いた。

 火鉢の簡単な炙りで、白竹の棒が出来上がった。竹は自然に変色し、青から黄、白へと変わるが、炙って整える白は光沢からして違う。力強さを感じさせる青竹とも違い、白竹には独特の品性があった。

 古びた竹材を使った作業で、よくよく見れば白の中に灰色がかった斑(まだら)や、くすみなどもあるが、少し離れると気にならぬほどの品ではある。

「ほら、綺麗なものだろう」

 甚六は白竹の棒を女子にかざして見せた。女子は口を丸く開け、見惚れていた。

「あげるよ。餞別(せんべつ)になるか知らんが」

 女子は手を伸ばしてきた。その大人びた親指と人差し指の開かれた間に、甚六は白竹の棒を挟んでやった。

 女子はその棒をまじまじと見つめて、しばらくの間じっとしていた。甚六は照れ臭さをごまかすように立ち上がると、雑にたたんである厚手の羽織を一着取って着替えた。それはすっかり冷たくなっていて、着てしばらくは余計に寒い。身震いしながら、両腕をさすった。

「とにかく一度、神社に行かないか。近くにあるから。さもないと仕方がない。ここに居座られても」

 女子は顔だけ向けたが、それだけで肯定も否定もなし。無表情の雁首(がんくび)となった。甚六は、それが抗(あらが)う心、要するにかぶりを振る意味かもしれないと勘繰(かんぐ)ってみたが、なぜ抗われるのかは想像もできない。

 はあ、と甚六は息を深く吐いて、

「もう良い。俺だけ一応は行く。隠れ続けることなんてどう考えても無理だ。ここに暮らすなら好きにして良いが、存在まで消せるものかい。人が来る度に隙間へ隠れてそんな不便があるかよ。俺だって人からどう噂されるかわかったものじゃない。罪人扱いされて俺が消えたら、お前だって困るだろう」

 まくし立てると、女子はこくこくと首を縦に振りはした。

「ええと、じゃあ」

 甚六は部屋を見回して、竹の長いのを二本拾った。寸法は悪くないと見ては、勝手口へ行き、閉まった戸の脇に合わせた。一節分切れば丁度良さそうだ。

 戻って今度は表の戸にも同じくしたらば、寸法は同じだった。甚六は鋸を取って、置いた竹に片足と左手を乗せて押さえ、一節を切り始めた。ぎこぎこと鈍い音が部屋中に響く。切り終えたところで支えの手を離し、落とす部分へ持ち替え、切り口の最後がしなってささくれないようにした。それでも少しはできてしまうささくれを鋸で削り取って、まずは一本。さらにもう一本、全く同じように切って作った。

 その竹棒を表口の戸脇に挟み込むと支(つか)えとなり、もう外から開けられない。勝手口の分は女子に持たせた。

「俺が出た後に、戸のここへそいつを嵌めて誰も入ってこないようにしろ」

 女子は竹の棒を両手で持ったまま、頷いた。

「俺が戻ってきた時には声を出す。そうしたら開けてくれ。良いな」

 女子はまた頷いた。まあ信用はして、甚六は勝手口から狭苦しい路地へ出た。戸の裏からゴトゴトと音がしては、静かになることで完了が告げられた。念のためにと甚六が戸へ手を伸ばすと、向こうからも確かめようとしたらしくもう一度ガタガタと揺れた。これで、竹の支えを退けぬ限りはどうしようと開かない。

「御苦労。すぐ戻るから、待っていてくれよ」

 返事はないが、頷く人形の表情だけ思い浮かべて納得し、甚六は路地を抜けて町へ出た。


 駿河の国の信仰は、江戸やその他諸国とは形が違う。厳密には幕府の御達しによって、日本の国々は神社と神道崇拝(しんとうすうはい)を勧められたが、駿河には富士山を祖神とする山岳信仰が栄えている。これ自体は登山参拝を行とする伝統的なものであり、広めようとして広まるものでもないからして、仏教や基督(きりすと)教ほどの弾圧は受けずに済んだ。

 仏教宗派や神道の神社も町にはある。しかしこの時世、仏教はとにかく大人しくすることを強いられたので、目立った布教活動は見られなかった。求められたら応える、といった程度でいた。神道の方も、神社に務める神職は悪くいえば適当に派遣された人間で、立派な説教などできたものではなかった。こうした事情で、駿河の民心は一層富士山へと向けられた。

 富士信仰を司るのが、御師(おし)と呼ばれる人である。彼らは神職とは認められないが、民よりは偉い位の、微妙な位置にいた。名は「御祈祷師(ごきとうし)」に由来する。要は祈祷、神への祈りを指導する者という意味である。

 御師は富士信仰の社(やしろ)に務め、山へ参拝者が集まる夏の時季には、宿坊(しゅくぼう)という特別な宿を開いて人々を持て成した。富士の参拝はいうなれば登山、一日で行って戻れるほど易い道程ではなかった。

 開山時季以外には多くの御師が町へ下り、富士信仰を説いて回った。場所は選ばず、神社を使うことはもちろん、町のそこかしこで講釈は行われた。


 甚六は、知っている富士信仰の神社を訪れた。

 仏教諸々の宗派に属する寺と、富士信仰や神道でいうところの神社とは別物なのだが、どちらも神仏を祀(まつ)り、説く場所であることは同じだ。

 敷地へ足を踏み入れ、辺りを見渡した。神社は参道から正面に向き合う拝殿(はいでん)と、裏手の本殿、おそらく修験者たちの寝床となる離れが造られてある。境内はこぢんまりしたもので、裕福な地主や元締めの屋敷の方がよほど広かった。

 社殿は、富士、神道、仏教の各宗派とも見た目にはほぼ同じ造りでありながら、多少の相違がある。屋根の材料に顕著(けんちょ)に現れ、寺は瓦や銅板を用いて荘厳(そうごん)な造りなのに対して、神社の屋根は茅(かや)や木材などを用いている。この辺り、自然信仰を起源ともする神社の決まり事でもあった。社には千木(ちぎ)、鰹木(かつおぎ)などといって今では飾りとして見られる屋根の形状にも特徴がある。内装については職人や神職でもない限り知る由はないのだが、一見の違いについては参るだけの人々にもよくわかった。

 鳥居をくぐり拝殿へ向かうと、庭の隅で掃除をする修験者の姿を見つけた。偶然にも昼時に井戸で会った人物である。向こうも甚六に気付くと、遠くで会釈をし、両手に持った竹箒(たけぼうき)を足元へ置いて、急ぎ足でやってきた。

「御師様はいらっしゃいますか」

 挨拶も端折(はしょ)って甚六が尋ねると、修験者はこくりと大きく頷いてから踵を返した。離れの方へ向かい、間もなく御師を引き連れてきた。修験者は遠目に甚六へ会釈をすると、掃除の仕事へ戻った。

「これは甚六さん。何用で御座いましょうか」

 御師は、歳の頃が五十近く、甚六の親よりも年配である。

「ええ、どうも。あの、折り入って相談したいことが」

 甚六は訊きながら、早く戻らないと、急く気持ちになった。寒さは厳しいが晴れた日中に呑気な気分でいる場合ではなかったのだ。

 御師は甚六の心中を察してか、神妙な面持ちに変わった。

「相談というのは」

「ええ、それが」

 甚六が口ごもると、御師はそれも察したかのように、甚六の背に手を添えて奥へと促した。本殿へ上がると、回廊(かいろう)をさらに連れていかれた。

 着いた先は客間だった。八畳の広さに床の間があり、申し訳程度に掛け軸と花が飾られてあった。

「どうぞ座って下さい」

 御師は隅に重ねられた円座(えんざ)を一つ取って、甚六に勧めた。甚六は座らずに話し始めた。

「御師様。町で最近、孤児に関する話など出ていますか」

「む、孤児とは」

「尋ね人かもしれません。どなたかが捜されているとか」

 御師は腕を組み、口を結ばせたまま声を唸らせて思考した。すぐに記憶は辿り終えたと見えて、

「いや、最近は何も聞いていません。そのような話があったかも知れぬが、いつだったか、思い出せません」

 首を横へ振った。とにかく、と言って御師は円座へまた促した。甚六は、今度は従った。御師も自分の分を持ってきて対面に座した。

 富士の町が田舎だとはいえ、川縁でも山林でも、商売柄で踏み入る人は必ずいて、行方不明者の遺体など意外とすんなり見つかる。甚六は経験まだないが、竹林でもどこそこの誰々が捨て置かれていたなどの話は度々あり、又聞きで知ることもあった。

 人が見つかるとそれを、届け出があった尋ね人や、手配が出ている「お尋ね者」の人相書きと照らすなどして当たりをつける。国を跨ぐと難しいといわれるが、それでも数多くの身元がわかった。大人でも子供でもたいていは、何かしらの事情がつき物なのだが、個別の尋ね人は長い年月を経て、いずれ忘れ去られていく。

「甚六さん。そのようなことを尋ねられるのは、もしかすると身内に何かあったのですかな」

 御師が低い声で訊いてきたので、甚六は思わず、あ、と声が出てしまった。

「いや、違うのです。実は先頃、竹を取りに家を留守にしたところ、その間に見知らぬ子供が入り込んでいまして、それで、本人には何度も訊いたのですが、事情を喋りませぬ。捨て子ならともかく迷子なら、こちらに何か話が来ているのではと思い立ちまして」

 御師は呆然(ぼうぜん)とした様子で、はあ、と言った。

「それはまた、偉いことで」

「それで話はどこからも」

 甚六が再度訊くと、御師は今度もはっきりと首を横に振った。

「そうですか」

「ですが今日の今日には何とも言えません。甚六さん、話が来ればもちろんまた伝えますが、御奉行所の方へも私からそれとなく尋ねてみます。新しい話が来ているかもしれない」

「はあ、助かります」

 恐縮する甚六に、ところで、と御師は続けた。

「その子供というのは、男ですか」

 甚六は一瞬、答えに躊躇(ちゅうちょ)した。だが隠して済む話ではないと思い、正直に言った。

「女子です」

 御師の眉間に、ぐっと皺が寄った。

「年頃は」

「五歳くらいかと見えました」

 御師の表情は険しくなるばかりである。ただごとではないと判断されたように感じて、甚六は不安になる。ただ、当の本人は寂しがってもおらず、どうやら親御を見つけて解決という単純な話ではなさそうだ。

 そのことも甚六は御師へ伝えた。御師の険しい表情が若干緩んだ。

「迷子、ではないと思うのですが」

 甚六は本心から告げた。御師もすぐさま頷いた。だが、

「子供の気持ちというのは、中々わかりませんよ。幼くとも驚くほど独り立ちしている子もいます、特に女子は」

 首を傾げながら言った。甚六は感心して相槌も出なかった。

「育ちはあまり関係ないかもしれません。その子にとってはただの遊びであって、事の重大さに気付いていないのかもしれない」

 そう聞くと、甚六も頷けることがあった。とにかく本人が落ち着き払っている。もしただの好奇心で今は楽しんでいるというのであれば、そのうちに飽きて帰りたがるかもしれない。

 不意に、白竹を物珍しそうに眺める女子の顔や、隙間に隠れてじっと待つ姿が甚六の脳裏に浮かび、なぜか、胸が詰まるような気がした。

「御師様。このことはできるならあまり広めずにおいてもらえますか」

「まあ、それは容易いでしょうが」

「身内が隣町にいるので、相談してみます。とりあえずは、女子を孤児扱いせずにできるかもしれません」

「良いでしょう。身寄りがないと知られれば、悪い輩(やから)が近付く恐れがあります。それに」

 御師は言葉を切って、後を続けず黙って頷いた。甚六は、独身の自分も輩の一人と見なされているようだと察した。思い過ごしかもしれないが、正直言えば、きっぱりと否定できない自分もいるのだ。

 するとまた、火鉢の前で膝を抱えて暖を取る女子の姿が目に浮かんだ。その時の自分の馬鹿さ加減には呆れたが、諭(さと)す気にもなれない。そんな場面はこれからもありそうで、甚六は人として男としての何某かを試されているような気がした。誰が試すのか。それは、やはり富士の神であろう。

「もし人探しの話が御奉行所に届いていたら、すぐに甚六さんへ報せますよ」

「有難いです」

 甚六は両手を前に突いて、頭を下げた。土下座に近い格好となった。

 最悪の場合、神社に預けたいという思いは、甚六は言葉にしなかった。御師を男とみなして疑う心もわずかにあったが、それ以上に甚六の心から、幸とも不幸とも取り難い女子の儚げな姿が離れなかったからだ。あの子の意思は今、甚六か、竹工房のぼろ家に向いている。頑なほどに居座る姿勢からは、妙な執着心が感じられた。孤児となった身の上でも生きていかなくてはならない。だから、単純な大人にすり寄って執着を装っているだけかもしれない。それにしても哀れではないか。こう考えるのは、いつの間にか俺に親心のようなものが芽生えたからか…。

 と、そこまで思いめぐらせたところで甚六は、

(考え過ぎだ)

 と、自分を叱った。


 家に急ぎ足で戻った後、表の戸に手をかけてガタガタとやるうちに、そうだったと甚六は思い出した。急いで帰った割には約束の方は忘れている。

「いかん、いかん」

 呟きながら裏手へ小走りで向かった。すれ違う面識ない農婦がこちらを見てふっと笑った。傍からは寒くて早く入りたいだけの男に見えるのだろう。

「おい、帰ったよ」

 裏手の路地へ入り込み、戸の前に立つと言った。ドンドンと叩いても報せた。耳を近付けると、中から小さな足音が聞こえる。ほどなくして裏側から竹を外す音がゴソゴソとした。甚六が戸に手を添えると、向こうから開いた。

 なぜかその時の再会、顔を見た瞬間のことを甚六は生涯通じて覚えていて、事あるごとに思い出すことになる。

「ただいま」

 そんな言葉も何年ぶりかなと、甚六は嬉しくもむず痒い気持ちになった。女子の方は甚六に目もくれずに屋内へ戻った。それが慣れた仲のように映り、甚六も嫌な気はしなかった。

 居間の方へ入ると、表の戸の竹が転がっているのに気付いた。よく見ると戸も隙間が空いている。

「あ、すまん。まずは表のそこを開けたのか」

 女子に訊いたが、そうか返事は滅多にないのだ、と思い出して目線を向けた。女子は火鉢の前で温もりながら、白竹の棒を持っていた。その姿は、思い違いとはわかっていても、今まで静止していたような佇まいを感じさせた。

「御免、表の戸を開けさしてしまって」

 甚六の言葉に、女子は目を閉じてゆっくりとかぶりを振った。

「誰か、留守中に訪ねては来たかい」

 女子はまたゆっくりと、かぶりを振った。

 その仕草は戒律(かいりつ)に生きる比丘尼(びくに)のようであろうか。といっても世俗(せぞく)にまみれた甚六には知りようもないのだが。火鉢に照らされていても白い肌は透き通るよう。しかし、穏やかな表情からは包み込むような優しさを感じる。

 ただの迷子でないことだけは、確かにわかる。

「誰も来ないよな、こんなところに」

 甚六は表の戸口の竹棒を外して、傍の壁際に立てた。それを見て、ふいに正月の竹飾り、門松を思い出した。その注文を取る時期がもう近いのだ。誰も来ないからと放ってはおけない。竹職人としては、あるまじきうかつさだ。竹垣の注文を受けていることも半分忘れていた。甚六は、

「参ったなあ」

 わざとらしく口に出した。忙しくなるのは良いのだが、本心を言えば、あまり有難くない。仕事で追求したいのは数ではなくて、一つ一つの「値打ち」なのだ。それはそれとして、生きるための糧を得るに目の前の仕事をこなさなければならない。だから、頑張らなくてはとわかっているつもりなのだが…。

 甚六があごをさすりながら、物思いに耽りかけた時、火鉢がバチバチと突然音を上げた。甚六は我に返って振り向いた。

 すると、女子がその辺から拾ってきたらしい竹片を火鉢で炙っていた。遊んでいるのかと、甚六はさほど気にも留めずに居間へ上がってぼんやり眺めてみるが、本人の目は存外真剣で、それにいつの間にか見惚れていた。見様見真似、それも一度見ただけにしては手付きが良い。白い着物に白い肌、細長い指が掴んだ竹が、元の黄茶(こうちゃ)色から徐々に白んでいく。その様はまるで、火によってではなく、白色が手から竹に移って染め上げられていくように見えた。

 だが、竹の扱いは一朝一夕に身につくほど甘くはない。女子の持つ竹の白い色は斑になって、そのうちに火が移って燃え始めた。甚六は竹をさっと奪い取ると、振ってその火を消した。先端からまだ煙を吹く斑な白竹を見つめながら、甚六は言った。

「俺もお前くらいの歳の時、よくこうして遊んだ」

 女子は失敗した白竹と、甚六の顔をじっと見比べた。子供らしく目を丸くさせているが、やはり言葉はない。

「よく燃やしたよ、こうやって。親父が使う予定でいた大事なものも勝手に炙って白くしてしまったこともあるし、寸法違いで切り落としもした。偉く怒られた。罰として竹林に放られて、置き去りにされたこともある。おっかないだろう」

 甚六の思い返す場面には生きていた弟もいたが、まだ物心つかない頃のことであり、空想のようでもあった。ただ父親だけは鮮明で、髪がまだ黒く皺もそれほど深くなかったと面影が懐かしくよみがえった。そこにいた甚六は竹ばかり見て、竹ばかり触って、嗅いで、過ごしていた。物言わぬ竹とどれほど向き合ったところで、何を相通じ合うことができようか。結局、幼い日々からの経験がどれだけ意味があったかは、さっぱりとわからない。この歳になっても「腕がない」と言われても仕方はない。

 現実に戻った甚六は、押し迫る暮れに向けて仕事をせねばと思い至った。よし、と曲がりなりにも気合いが入る。白竹の失敗作は火鉢に放って炭の足しとした。

「そうだ。神社に行ってきたのだが、尋ね人などの報せは来ていないという。お前自身が何も言わないのでは埒は明かない。俺は無駄なおつかいをしてきたんだぞ」

 甚六が言うと、女子は口を開いた。漏れる息に混じって何か言葉も吐いた。

「何」

 甚六が質すと女子は、

「ありがとう」

 と、言った。

 その礼が決め手となった。この女子は迷子ではないと甚六には確信できたのである。親と再会を望むのが迷子の常であろうが、この子は全く違っている。詮索(せんさく)すれば心の闇を呼び覚ましそうな気もして憚られる。それは追々でも良いだろう。

「結構。だけどお前、名前くらいは教えてもらえないか。お前、お前ではまるで嫁のようではないか。俺も変な気にもさせられる」

 甚六はそう言って、すでに変な気になっているかもしれないと思ったのだが、それでも女子は何も応えないので、話を先に進めた。

「では、俺の方で勝手に呼び名をつけても良いか」

 女子が頷いたので、甚六は面食らった。

 しばし、考えた。またあごに手を当てて、今朝は剃らなかった無精髭を何度も撫でた。

「では、お竹で良いか」

 言いながら甚六は鼻から息を漏らして笑ったが、女子はこくりと頷いた。

「良いわけがないだろう。冗談だ」

 その名は珍しくはないが、色白なこの子には似合わない。

「白竹ではどうか」

 それも女子は頷いて肯定した。ははあ、と甚六は察した。

「さては、どうでも良いと思っているな。呼ぶ身にもなってみろ」

 それはぶんぶんと否定された。

 この先、この子が意思を表せるようになったときにも、違和感を覚えない名を持たせてはやりたい。元々、想像もつかぬほど立派で美しい名があったのかもしれないのだ。つもしかすると、良家の…と、甚六は暴走する思いを止めた。

 記憶を辿れば、竹の花と実から逃げてきたところに現れたのがこの子である。月並みだが、花にちなんでみたらどうだろう。

「そうだ、咲代(さきよ)としよう。お前は、白い花の咲く月夜のような佇まいだ。夜とつけるのは奇妙だから、代の字で読む。気に入ったか」

 とまで訊いた。女子は、お竹と白竹の時よりは不満の度を下げて、わずかな間を置いた後、一応は頷いて認めてみせた。

「良い名前でないか。容姿とも合っている。ここにいる間は咲代でやってくれ」

 甚六はその言葉への反応は確かめず、立ち上がって両手を天井へ向け、伸びをした。ううん、と自然に声も出た。土間の隅に置かれた竹製の背負い籠を取ると、道具一式をそこへ放り込んだ。

「明るいうちにもう一度、竹を取りに行く。夜には正月飾りの門松をこさえる。それと妹の所へ荷車を取りにも行かなくてはならん」

 予定をつらつらと伝えたが、咲代は瞬きをするだけで、何一つ理解していないようだ。甚六は居間へ上がり、火鉢の炭を退けて消した。

「一緒に行くぞ。働かざるもの食うべからずだ、わかるな」

 今度は抗わず、咲代は黙って立ち上がった。手まですっぽりと覆う袖を、甚六は折りたたんでやった。すぐ元に戻りそうだが今は遣り様がない。さらに問題の長い裾は、どうするかとしばらく思案した。

「着替えが要るか、やはり」

 甚六は古い箪笥を開けて童(わらべ)の着物などないか探した。この家に一人となって久しく、大概の物は売り払ってしまった記憶がある。寸の合わぬ着物など真っ先に持っていってしまった。

 諦めかけた時、奥から一着小さな褞袍が出てきた。甚六や弟らが子供の時分に着回した物で、色味は濃紺で男児の風だが、贅沢はいえまい。

「ほらよ、もはやこれしかない」

 咲代へ渡すと、のろのろとした動作で羽織った。大きさは合っている。

「その褞袍の中で着物を引っ張って帯を締め直せ。すると裾の面倒がつくだろう」

 甚六は自分の前襟部分をぐいぐいと動かす身振りで教えた。だが咲代へ意味は伝わらず、やってやる羽目になった。

 褞袍の懐へ手を入れて、着物を上から引っ張ると、隙間から平らな胸の地肌が見え隠れした。だらりと余らせながら帯できつく締めた時には、体温が伝わってきた。その熱が存外高いのは、子供だからか女だからか、知らん。甚六は頭が真っ白になる思いで続けた。仕上げに褞袍の前を縛ると、若干着膨れはしたが一応それらしくなった。

 甚六は咲代を見下ろし、鼻から長い息を漏らした。鼻腔を間近に突いたのは、咲代の身体から発する匂いだった。

 体臭という不快の類ではない。甘くもあり、つんと来る要素もある。咲き乱れる花々から、同じ印象を受けたことがあるような気もする。子供は乳臭いなどとよくいうが、それとも別物だった。

 ふむ、と甚六は一時考え込んだが、俺が知らぬだけでそういうものかと勝手に納得して、支度を再開した。衣服はどうにか調った。

「履物はあるのか。あるよな、そうでないと地面から生えてきたことになって、名前も筍(たけのこ)とでもつけ直さないといけなくなる」

 言われるや否や、咲代は上がり框の小脇に置かれた草履(ぞうり)を指差した。

「それがお前のものか」

 甚六は一度納得して、再びそれを凝視した。草履はどう見ても大人用で、咲代の小さく丸い足には合わない。

「この草履がお前のか、本当に。親御のものを勝手に履いてきたのではないか」

 咲代は頷いたが、前者は諾、後者は否としたいらしく、

「おやのでない」

 と、つけ加えた。親がいるのだなと、当然とはいえその真偽が知れた。だがそれは別として、どうも解せない。

「親のでないとして、どうして大人の履物を突っかけてきたのかわからん」

 言った後に舌打ちが出た。それを咲代に履かせようとしても案の定、大き過ぎた。このまま竹藪に足を踏み入れたら絶対に怪我をする。本来なら厚めの足袋や脚絆だってつけなくては務まらぬ仕事である。

「途中に店で童用のものを買ってやる。それまではぶかぶか歩け」

 甚六は先に家を出ると、置いてあった籠を背負った。咲代も出てきた。その歩き方というのが、足元を見たり手のひらなど見つめたりと、とんと落ち着かない。

 子供でも人手として助かるのか、足手まといになって何もかも遅れてしまうのか、思いやられる。甚六はまた、深いため息が出た。

 戸を閉めると、咲代はその戸口の閉まったところまでも心配そうに見回した。

「竹をつっかえ棒にするのは今はやらんで良いから。早く来い」

 先に歩き出した甚六に、咲代は緩々の草履で小走りし、やっと追いついて並んだ。そして何の気もなさそうに、甚六の着物の裾をぎゅっと掴んで歩いた。

(畜生め)

 甚六は自身の定めを呪いたくなった。


 この日二度目、竹林へやってきた。日が西へ傾き始めていた。富士おろしは始終吹くので、いつに来てもザワザワと竹の枝葉の擦れる音がする。

 甚六は気が急いた。背負い籠を適当な場所へ下ろすと、鋸を持ってうろうろと竹を選び始めた。いつもは昇ったばかりの朝日の下で見ているので、傾いた日では品定めも要領を得ない。むきになってじろじろと竹を睨んだり、触ったりして、とりあえず良さそうな物を見つけた。

 門松に用いる竹は、青ければ青いほど威勢よく見える。どちらにしても竹は時間経過と日差しで色褪せてしまうので、時季物の門松には最も色の長持ちする物、要は切る段階では青過ぎるほど色の濃い物を選ばなくてはならない。そもそも、日向に置くことは勧められない。

 今日取る竹はあくまでも見本用として作るためなので、まあまあの色を甚六は選んだ。

 門松は名の通り、松の枝葉が主役である。実際に目立つのはどちらなのか曖昧なところ。結局、竹よりも松の方が縁起物としては上位にあるため名付けられたという。

 竹だけを扱う職人には専門外なのだが、門松に関してだけは松の枝を切って一緒に加工してしまう。そうした職人は多く、甚六も竹細工を父親より教わる過程で松の飾り方だけは教わっている。紐縄の縛り方などと同じ括りで、竹細工を生業にするには学ばなくてはならない技術の一つではあった。

 門松には土台部分、袴と呼ばれる欠かせぬところがある。それは蓆(むしろ)か、竹で作られる。甚六が作るなら当然に専門の竹を使う。袴の色合いは、上の青竹を目立たせる意味でも黄色い物を使う。白っぽくても良い。

 日の落ちる前には竹と松まで取って帰りたい。さっさと選んだ竹を切ってしまおうと鋸を手に構えた時、ふと思い出して、甚六は後ろを振り返った。

 少し離れて、咲代が竹藪を眺め回している。行きがけに甚六が買い与えた、童の草履を履いて。歩きは軽やかになり、心なしか嬉しそうだった。

 自由にしている子供は無視して、甚六は選んだ竹の根元を鋸で切り始めた。枝葉が風で騒ぎ立てる中、ギコギコと鋸の立つ音も響いた。その音に気付いたか、目線の脇に咲代の姿が見え隠れしている。

「危ないから離れていろ」

 咲代は一歩二歩と後退りした。その様子も甚六は目の端で見た。

 鋸で竹の稈を斜めに切り、咲代のいる方とは別方向へ押して倒した。後ろへ目を遣ると、咲代は尻餅をついていた。甚六は地面を注意しながら近付いて、

「躓いたのだな、それに」

 鋸の刃先で指し示して教えた。咲代のすねほどの高さに育った筍が顔を出していた。顔というよりもう胴体である。

 甚六は倒した竹の枝を切り落としながら、咲代に話しかけた。

「竹は食えるんだぞ。地面から頭を出してすぐくらいならな。茹でて柔らかくした後、食う。美味いぞ。食いたいか」

 咲代は頷いて見えたが、ただ足元の筍を見下ろしただけのようにも見えた。

「そのでかいのはもう食えたものじゃない。育っていつかは、切る。後は、そうしてそこの籠や、家の塀や、正月の飾りになる」

 甚六は思いつく限りの竹細工のよろずを挙げた。箸、笊(ざる)、柄杓(ひしゃく)、茶道具、楽器にも多く用いられる。武器や罠にもなる。矢継ぎ早に挙げられることに自分でも感心しつつも、甚六は矛盾を感じた。それだけ用いられる材ならば、職人なぜ生活が困窮(こんきゅう)するのか。

 枝を落とし、稈も切って籠へ入れると甚六は、咲代を連れて竹林を出た。近くに知った松林もあり、そこで適当な枝を切っては籠へさらに入れた。ひと段落し、帰路に就く。咲代はやはり甚六の裾を掴んで離さない。

 道中、甚六は立ち止まって、後ろを見た。一緒に咲代も振り向いた。

 富士おろしが道の先から砂粒や枯れ草などを飛ばしてくる。その先には風の元ともいうべき山が、西日の色に染まってそびえていた。それは、平らな頂上から左右一様な稜線(りょうせん)を描いている。頂上には火口が開き、数百年ほど前には大きな噴火が起こった。その頃から富士参拝が盛んになったことは、この地で生まれ育った者なら誰もが知っている。

 現在もなお、噴火を防ぎ鎮めるために続く信仰と、参拝の道と言って良い。甚六が懇意にしている年配の御師でさえも、天まで届きそうなあの頂上まで登っては参拝し、また下りてくるというのだから感嘆(かんたん)させられる。

 地震が起これば、富士山は、地面と一緒に怒ったような唸り声を上げる。甚六も幼い頃から何度も経験がある。

 隣では、咲代も真面目な眼差しで富士山を見ていた。この子は駿河の生まれなのだろうかと、甚六はふと考えた。どこかから歩いてきたにしても、そう遠くからではないはずだ。隣国の相模か、遠江辺りだろうか。だとしても子供が歩ける距離ではない。荷がなくても数日はかかる。国を出る前に野垂れ死ぬのがきっと関の山だ。

(するとこの目、俺と同じく故郷を見る目か)

 甚六は可能性を一つ一つつぶして、やはり咲代は駿河の生まれに違いないと感じた。そのうち本人が漏らすか、帰りたがるか、何かしら事は起こるだろう。まさかこのまま物も言わずによたよたとついて回って、年老いてゆくことなどなかろう。自分の方がおそらく先立つ身だから、それでは心残りになる。やはり男手一つには持て余してしまうかもしれんなと、甚六は詮無い思いにとらわれた。


 家に戻り、荷を全て下ろした後、甚六は咲代を連れてまた外へ出た。距離にしたら一里もない、容易い道中ではあった。咲代も火鉢の温もりは好むようだが、歩き回るのも苦とはしないふうである。

「御免下さい」

 甚六は玄関先に立って声を発した。閉まった戸の奥からは明かりも見えて人の声も聞こえてきて、いかにも家庭という感がある。

 甚六は滅多にここを訪れない。来れば歓迎され、土産も一杯持たしてくれるとわかっているのだが、相反して気分は悪くなる。だから遠慮しているのだ。妹が頻りに訪ねてくる理由も、こうした甚六の思いと関係しているようだ。

 今日も、表の脇にでも見慣れた荷車さえ置いてあれば勝手に引き揚げることはできた。だが、庭の方へしまってあるらしい。せっかくだから寄っていけという心配りが、伝わってくるようだった。

 どのみち今日は、寄らなくてはならない用がある。

 はいよ、という声が奥から返ってきた。こなれた返事からして、すでに自分だと知れている。すぐ隣には咲代がいる。甚六は不安とともに待った。

 すぐに、ガラリと戸が開いて、妹が顔を出した。

「あら、甚六さん。御足労なことで」

 そこで妹の挨拶は途切れた。

「お前。折り入って相談がある」

 脇で肩を縮こませている咲代を見た途端、硬直してしまった妹へ、甚六は言った。


 とにかく、といわれて甚六と咲代は家へ上げられた。屋内は玄関を抜けてすぐに客間があり、御師に通された神社の客間と内装と雰囲気も似ている。甚六はずいぶん前に見た、という程度の記憶しかなかった。上がったのは久しぶりだ。

 この家には、妹夫婦と息子二人に、甚六の母、加えて旦那の親御が暮らす。敷地には母屋(おもや)と離れがある。一家の内情までは甚六は知らないし、知るつもりもなかった。

 客間には、話を聞いて妹の旦那もやってきた。甚六と同じ歳になる彼は、この町でよろず商売を仕切っている。甚六と同じく先代の跡取りだが、手腕のほどは住処を見ればよくわかる。身も固めて男児をもうけたのだから先も明るい。

 わが身と比べ卑屈になるほど腐ってはいないが、敢えてへつらうのも面白くない。甚六がこの家を進んで訪ねない最も大きな理由がそれだった。

 ただ今回、甚六は悪びれてはいない。

「それで」

 粗方の説明を甚六から受けた後で、妹は言った。

「上がり込んでいたこの子をどうするか、と」

 隣に座る旦那、甚六にとっての義弟と顔を見合わせた。双方目が引きつってとても見られたものではない。ようやく先に表情を整えた義弟が、甚六に向けて口を開いた。

「何とかなるとは思いますが、なあ」

 妹へまた顔を向けると、一応頷きで返してきた。

 孤児のこと、それなりに生きてきたのなら道筋が開けぬ話ではない。若い親が流行り病でぽっくり逝く、いざこざに巻き込まれて死んでしまったなど。後は、できるだけ裕福な家へ貰われていけば良い。その腹積もりは甚六にもあった。

「ええ。だけども気の毒な話ですねえ」

 妹は咲代へ手を伸ばした。咲代はその手に、珍しい物でも見るように目を向けるだけで、褞袍の袖に隠した手は指先すら出さない。

「この格好も気の毒だから、どうにかしてやってくれんかな」

 甚六は、咲代の褞袍の前襟を引いた。

「あれま。ちょっとこっちへいらっしゃい」

 妹は立ち上がると、戸襖(とぶすま)へ向かいながら手招きをした。咲代はやはり動かなかったが、甚六が背をぽんと叩く拍子に立ち上がり、ついて行った。

 義弟と二人きりになると、甚六は一気に居心地が悪くなった。親類とはいえ余所様でもあり、もとより落ち着ける関係ではない。

「神社には話を通してあるのですよね」

 義弟はすでに聞いた話を反芻(はんすう)し、自分でうんうんと唸った。

「まあ、それはすぐに」

「すると、先といってもそれほど先ではないか、いやしかし何とも言えないか」

 甚六も充分重ねた思案を義弟も同じようにしている。親は見つかるか、見つかっても事情を抱えているか、もう生きていないか、など。結局のところそれらは思案であって、真実とは全くもって違うかもしれない。

 義弟は、商売上手だが家では物言わぬ静かな男だという。だから妻が昼間からふらふらと隣町まで遊びに来てしまうのだ。

「はあ。何とも言えない」

 甚六の何とも言えないは、義弟よりわずかに進んだ感慨である。何よりも咲代の出方にかかっている。望んでやってきたようでもあり、帰りたがっていないようにも見える。仮に親、あるいは親となりたい人が現れたとして、咲代が歓迎するのか。先方がいかに裕福だとしても、当人の心は動くのか。心配は尽きない。

 二人の会話はあまり弾まず、おずおずしたやり取りになった。開け放された戸口からは、味噌を炊くような匂いがする。そういえば甚六は、今朝以降何も食べていなかった。三度の飯より優先されること、この世には意外とあるものだなあ、と妙に納得した。

 ぐう、と腹が鳴った。甚六はけしからんと腹を手で押さえた。

 戸口から足音がして、二人は戻った。咲代は寸法のよく合った着物姿に変わっていた。

「ああ」

 甚六は言葉が出なかったが、感動した。感謝もした。

「うちに女の子はいませんので、それは長男の着古しですよ。色味はどちらにも合うような物があって良かった」

 妹の説明を聞いてみると、確かに男装のようでもあり、生地も古びてはいる。言われなければわからない。着物の色は駱駝(らくだ)色とも呼ばれる薄茶色、控えめな女らしい風体にも見えた。

「また買い与えますよ」

「よろしく」

 応えたところで、ここでお別れか、と甚六は実感した。相手の態度からして問題なさそうだ。慌ただしかったのは一日だけだった。咲代の顔をちらと見ると、向こうもじっと見返した。着物を譲り受けても嬉しいふうには見えない。甚六が視線を逸らしても、いつまでも、こちらを見ている。

 里子の明け渡しの場面はこんなふうなのか。甚六にとって今後まずないこと。妹と義弟はまるで里親になったように、今日から家族となる幼子に話しかけた。

「名前は何と言うのかしら」

 問われて答える子ではない。甚六は我関せずで、余所見を続けた。

「言わないねえ」

「恥ずかしがっているのかしらね」

 夫婦はまだこの子の難しさを知らない。

「甚六さんは何と呼んでいらしたの、今日のこれまで」

 甚六が教える前に、

「さきよ」

 咲代が自ら大きな声で名乗った。

「あら、良い名前ねえ」

「甚六さんにつけてもらったのかい」

 義弟の問いかけに、咲代は何度も頷いた。

「本当は」

 甚六は声が上擦って一度、咳払いをした。

「本当は、お竹が良いらしい。だけど止めておいた」

「お竹っていう感じじゃないですねえ」

 妹も甚六と同じ意見で難しい顔をした。当の咲代は、こくりと頷くと、冷たい目で甚六を見た。

「竹屋の拾い児でお竹じゃあ、飛んだ笑い者だからな」

 甚六は吐き捨てるように言った。

「咲代という名前、似合っているよ」

 義弟は穏やかな口振りで言った。男児しか知らない親にはきっとない、慈愛を感じさせた。

 名乗ったが最後、咲代はやはり黙りこくって二人の質問を無視し続けた。様子を見ていた甚六が切なくなるような、一方的な態度だった。さて二人が哀れか、咲代が哀れか、双方ともに不憫(ふびん)だと、甚六は思った。だが穏やかな夫婦に、咲代もどう応じて良いかわからないだけかもしれない。決して不躾な子ではない。今はぎごちなくても、そのうちに打ち解けて本当の親子のようになれるだろう。

 甚六は食事の用意があると誘われた。はじめ遠慮はしたのは、父母や子供らと同席してあれこれ訊かれることが気になったからだ。この客間に膳を持ってくるという。あれよあれよという間に、甚六と咲代、妹と義弟が食膳を向かい合わせることになった。

 食事中、妹はしきりに咲代へ話しかけた。無視はされ続けるのだが、元々めげるという感覚そのものがないらしい。子供相手にはそうした計らいが正しいのか、甚六は知らない。

 せっかくの馳走を美味いと感じる余裕もなく、甚六は食べ終えると、さて、と腰を上げた。

「それなら車だけ引き取って俺は帰る。すっかり邪魔してしまい、申し訳なかった」

 不器用に挨拶と会釈だけすると、脇に置いていた羽織を着込んだ。見下ろすと、咲代は膳の前でじっとしている。食事にはほとんど手がついていない。

「達者でやれよ。たまに遊びに来るから」

 そのつもりなど全くなく、甚六は子供に対して嘘の言葉を飾った。咲代は膳を見つめたまま、人形のように動かなかった。


 玄関から出て、裏手へ回ると荷車を見つけた。

 空になって軽い車を引きながら、甚六は道を戻り始めた。外はすっかり暗くなり、家々には明かりが灯り、煮炊きの匂いと湯気が道まで立ち込めてくる。店を営む軒先では提灯がぼんやりと光りつつ、夜風で小刻みに揺れては人目を引く。

 甚六の足取りは何となく重い。今朝からの行動を顧みれば、疲れて当然ではある。竹取りにわざわざ二往復することは珍しく、加えて心労も重なったらしい。ゴロリ、ゴロリとゆっくりと車を引いて歩いた。

 竹垣の件は帰り際に聞いて、品質は申し分ないとのことだった。明日以降いよいよ忙しくなる。竹もどんどん取っては運び、門松も見本を仕上げておかなくては。注文を受ければその分の青竹を暮れの時期、取ってこなくてはならない。青竹の色は日毎に落ちるので、早すぎると黄色くくすんで、正月の縁起物にはふさわしくなくなってしまう。人気の工房や職人なら暮れは徹夜で作業することもあると聞いている。

 そこまで多忙ではないにしろ、甚六は人手が欲しいなあ、見習いでも良いのだけれど、といつもの思いが堂々巡りに湧いてきた。

 甚六は、小さな橋を渡って街道へ出た。月明かりと星々の瞬きで道はぼんやり照らされている。富士の山肌は暗くて目に映らず、冠雪の部分だけが宙に浮かんで見えた。近くの木々の葉が揺れると、少し遅れて刺すような寒風が甚六の身体にもぶつかった。その度に肩がすくんでますます足取りは緩慢(かんまん)になった。

 甚六はまた、今日のことを思い返した。頑なで口の重い女子、でも心は微妙に通じ合っていたようにも感じた。大人よりもよほど難しそうな子供相手に中々頑張った。無愛想のせいで懇意な常連も少ない自分によくできたものだ、褒めたくもなった。

 よくよく考えれば、当初から隠す必要などなかったのだ。ぱっと引き渡して、自分は何事もなかったように細々と続けていれば良い。さすればこのように、余計な思いも湧かなかったろうに。

 いきなり、子を突きつけられて右往左往。情けないことだが。普通、縁組が先でそれから子を儲けるものではないか。それが今、どこかに寂しさが残るのはなぜだろう。はあ、と甚六は白いため息をついた。それは、風に吹かれて南の方へ消えた。

 縁組か、と甚六は少し前向きになった。過去の破談のことは忘れて、不思議と、どうして自分ほどの者が今まで独りだったのかと開き直る気にもなった。

 はあ、とまた白い息をつき、とぼとぼと進んでいると、

(甚六さぁん)

 という声が追いかけてきた。女の甲高い声だった。甚六は車を止めると、周囲を見回した。道以外は山林で、声が山からならばただごとではない。一目散に逃げるべきかと不安を覚え、甚六は竹の花に出くわした時の記憶がよみがえった。

 そのうちに、また呼ばれた。今度は方向がわかり、甚六は道の後方を見た。遠くに人影と、提灯らしい小さな光が揺れている。

「誰だ。ああ」

 訝る前に正体はわかった。甚六にはにわかに理解できない光景だった。妹と義弟、それに咲代が背負われている。

「どうした」

 甚六の心に心配が先走った。義弟は黙って背の咲代を下ろすと、咲代は、とことこ甚六の前まで来た。

 うつむく顔を覗き込むと、その頬が濡れている。

「何があった、これは」

 指で拭ってやると、妙に温かい。

「甚六さん」

 妹が声をかけて、近くへ歩んできた。

「あなたが帰った後にこの子、泣き出してもう大変。わけを訊くと、帰りたいと言って」

 甚六は意外にも驚きはしなかった。ただ、泣くという感情があったのかとそれには、感心した。

「帰りたい、か」

 甚六の呟くような言葉に、咲代は頷いた。頬に残った涙が垂れ落ち、地面に玉の模様をぽつぽつと描いた。

(これほどの涙を泣いて流したのか、この子が)

 またそういう涙を、何に向けて流すのだろう。哀れな自身か、甲斐なしの俺か。たかが数年の生涯で、世の情けを憂(うれ)えるはずはないし。きっとその小さな身体から見上げる、身勝手な大人への恐れなのかもしれない。

 甚六は自分の羽織の裾でもって、咲代の頬を拭った。まぶたの内にたっぷりと溜まった涙は瞬きであふれ出し、甚六の袖がそれを受け止めた。

「急いでいたのでこれしかないですけども。何も食べていないから、後であげて」

 妹がよこしたのは竹の皮の包みだった。

「有難い」

 受け取ると甚六は、咲代の前にやった。褞袍の両袖から白い手が伸びて、しっかりと掴んだ。

「甚六さん。服など入り用なら、明日に色々と持っていきますから」

「わかった」

「仕方のないことかと思いまして、その」

「ふうむ、わかっている」

 甚六はもう、覚悟を決めてしまっていた。涙だけでなく、か細いこの子の身を受け止めなくてはと。どこに愛着を持たれたのかはわからない。覚悟した自分の心情も不可思議だ。こんな気持ちになったことは今まで一度たりとない。縁遠い身には知る由もないが、伴侶(はんりょ)を求めて踏み込む一歩と似ているのかもしれない。

 妹も、後ろでしんと控えた義弟も、後は何も言わなかった。甚六は軽く手だけ挙げて二人へ別れと詫びの意を伝えた。すぐ隣に咲代が並んだ。拭き取られた後に新しい涙は流れず、すっかり乾いて元の黒い目と白い頬となった。

 歩き始めてすぐに甚六は、足取りの軽くなっている自分に気付いた。吹きすさぶ夜風も何やら心地好い。疲労など初めからなくて、それは単純な頭が差し向ける、ただの悪戯(いたずら)でもあったように。


 しばらく行った所で、かさかさと隣から音がする。見ると、咲代が歩きながら、受け取った竹皮の包みを開いていた。それを甚六もずっと横目で見ていた。

 包みからは白く丸いものが二つ。一つはつるりと丸い形、もう一つはちょっといびつだった。甚六はすぐに正体がわかった。

「右が握り飯。先ほどの膳の」

 咲代へ教えた。

「左はうさぎ餅だ。先日俺も貰って食った。甘いぞ」

 咲代は歩きながらじっと、それを見つめた。この子は何でも見つめるのだなあと、甚六は今さらながら思った。目に映るもの全てが珍しいのだ。さぞ楽しかろうと。

「それな、清水の方で売られている名物だよ。妹の家も一応は、その地に近い。天辺の色は焼き印で、満月を模したそうだ」

 甚六はあごでしゃくって天を指した。咲代は見上げた。

「な。月に似ているだろう。風情がある」

 咲代は長くは月を見上げず、視線を落とした。そして顔を包みの握り飯へ近付けて、ゆっくりとかじりついた。

「腹が減っていたか」

 咲代は頷いた。飯で膨れた頬が、つき立ての餅のように艶を帯びた。

「俺も、人の家の飯というのは苦手だ」

 甚六は咲代の頬についた飯粒を人差し指の腹で取ってやると、それを自分で食べた。

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