第七章 船内の様子

 真理亜達が爆発音を聞いたのは、検査結果を待つ間だった。換気の為に部屋の窓を開けていたからだろう。ヘリが船の最上階まで接近している音もしっかり耳に届いていた。

 城之内はこれに乗って、横浜の病院へと搬送されるのかもしれない。放送があってからそれほど時間も経っていなかった。現在の症状がどの程度か不明だが、これならば大事に至る事は無いだろう。

 そう考えていたところに、突然大きな破裂音が鳴り響いたのだ。一瞬何が起こったのか、全く理解できなかった。

「何、今のは?」

 ベッドに腰かけていた真理亜は、ベランダに走り寄った。上から聞こえて来たので、空を見上げる。すると屋上の辺りに、僅かな煙が見えた。隣室でいた直輝も同様に出て来て、上方を眺めながら言った。

「ヘリの音が消えましたね。でも着陸に失敗して爆発したとは思えない音でしたけど」

 同じく気になったらしい看護師達も防護服を着たままの格好で顔を出し、互いに声をかけ合っていた。

「ドクターヘリが大破したのなら、もっと大きな煙が出ているはずですよね。何か機械トラブルがあったのでしょうか。着陸が難しい程、風は吹いていなかったと思いますが」

「あれは何かが爆発したような音よ。でも煙の位置とヘリの音がしなくなったことから考えると、最上階で緊急事態が起こった事は間違いなさそうね」

 恐らく先輩と思われる看護師の方が、そう答えた。しばらく皆で屋上周辺を見つめていた。爆発音に気付いた乗客達は他にも多くいたようだ。同じくベランダやデッキに出て、何が起こったのかと騒いでいる。すると看護師の一人が、真理亜に向かい言った。

「少し部屋のお電話をお借り出来ますか?」

 遠慮なくどうぞと答えると彼女は軽く頭を下げ、部屋の中へ戻り受話器を上げてボタンをいくつか押した。どこかへ連絡を取っているのだろう。相手が出たらしく、何が起こったのか尋ねている。

 その口調から、城之内を搬送する為に十四階で待機していた誰かへかけたのだと推測できた。防護服の上から受話器を当てているので、聞き取り難いのか何度も聞き返している。恐らく先方も防護服を着ているだろうから、話し辛いのかもしれない。

 すると彼女が、思わずと言った声を出して叫んだ。

「えっ? 本当に? じゃあこれからどうするんですか?」

 そこから向こうの説明を聞き、何度も頷いた後に電話を切った。

「何が起こったんですか?」

 真理亜は質問したが、彼女はすぐに答えてくれなかった。

「少しトラブルがあったようです。ただお客様はご心配なさらず、検査結果が届くまでもうしばらくお待ちください。ベッドか椅子に座ってお休みください」

 余計な心配をかけてはいけないと思い、そう言ったのだろう。または電話をかけた相手から、そう告げるよう指示があったのかもしれない。敬語を使っていたことから、自分より上の立場の人に間違いないからだ。それでも気になってもう一度尋ねた。

「何があったか、教えてください。私達は城之内さんと一緒にここへ招待された客です。あの方が現在どういう状況なのか、知る権利があります。もちろん他言無用というのなら、誰にも話しません。私は城之内さんの資産保全や管理、運用を任されている者です。守秘義務等がありますので、口の堅さには自信を持っています」

 こういう交渉事は仕事上得意だ。よって真理亜の真剣な目つきと言葉で、彼女を打ち負かすことが出来た。しばらく相手は黙っていたが、ぽつりぽつりと説明し始めた。

「搬送準備をしていた者から聞いた所、何者かが爆薬を積んだドローンを飛ばし、着陸間際のヘリの尾翼と衝突させたようです。その為ドクターヘリは横倒しになり、離陸できなくなっただけでなく、別のヘリの着陸を阻んでしまったとのことでした」

 そこでヘリによる搬送を諦め、城之内は十三階の医務室へ運ばれたという。船が横浜に着くのを待った方が、安全かつ早く病院へ収容できると判断したらしい。

 同時に今の彼の症状も教えてくれた。ちなみに同部屋の八神は陰性で、問題ないと診断されたようだ。十四階の部屋で大人しく待機しているよう、指示したという。

「確かにその方が間違いないですね。後二時間余りすれば着くでしょう。それにしても、誰がドローンを飛ばして爆発させたのでしょう。目的は何でしょうか」

「上での出来事は全て船長に報告済みで、現在調査中だそうです。万が一に備えセキュリティ部隊を乗船させていますので、恐らくその人達が動いているはずでしょう」

 乗船前に説明を受けた事を思い出す。日本発のアジア航路の為、海賊が出て襲われる危険性はまず無い。それでも乗客のほとんどがVIPだからだろう。航海中に犯罪が起こるとも限らない為、そうした警備も万全だとのアピールが必要だったと思われる。

 余りにも過剰だとその時は感じたけれど、いざこのような事態が起こった今、彼らの存在が頼もしく思える。真理亜の気が安らいだと思ったらしい。看護師は重ねて言った。

「ですから今は気持ちを落ち着かせ、検査結果を待ちましょう。そうする事が一番です」

「そうですね。おかしな犯罪者が相手となれば、私達がどう騒いだって何の役にも立てませんから。大人しく部屋に籠っているのが、一番安全かもしれません」

「その通りです」

 本当は胸騒ぎが治まらなかった。しかしまず隣室にいる直輝にそう伝えると、彼は納得したようだ。二人で大人しくベッドへと戻り、本でも読んでいようかと声を掛け合った時にドアがノックされ、先程出て行った救命士が戻ってきた。

 検査結果が記入されているらしい用紙を、看護師に手渡しながら彼が言った。

「幸いお二人共、陰性と出ました」

 そう聞いて胸を撫で下ろしたが、看護師が用紙に書かれた内容を確認していた為、何か追加の注意事項があるのかと口を開くのを待った。しかしそれは杞憂きゆうだったらしい。

「問題ないですね。室内からも、ウイルスは検出されませんでした。ただしこちらの指示があるまで、引き続きこの部屋で待機して下さい。PCR検査の精度はかつてより高くなったと言われますが、一〇〇%ではありません。特に隣室の直輝様は二十八歳と若い為、無症状で陰性と出ても感染している場合があります。真理亜様は五十代と伺いました。もし感染した場合、彼よりも症状が重くなる確率が高いので注意してください」

 あらためて甥との年齢差を突き付けられ若干気分を害したけれど、彼女の言う事は正しい。それでも念の為に聞いてみた。

「ではしばらく隔離された状態で、いなければならないのですか」

「下船まで後二時間余りですが、それぞれ個々の部屋で待機されていた方が、安心でしょう。後は室内でもマスクをして頂くか、止むを得ず直樹様と会話をする際も距離を取り、ベランダまたは内線で会話する等の工夫は必要でしょう。何かを触った際には、室内に常備しておりますアルコール液で、手を消毒する事も忘れないで下さい」

 この程度の事は予想の範囲内だ。面倒だが、あと僅かな時間だけ我慢すればいいと納得した。同じ事を隣室の直輝についていた看護師が説明し終わったのだろう。ベランダからこちらに顔を出した所で、三人は失礼しますと言って部屋を立ち去った。

 これから検査をしなければならない乗客は、まだ大勢いる。またこういう検査は、時間との勝負でもあった。よって彼女達もまだまだこれから、忙しい時間が続くのだろう。だが最も濃厚接触していた八神や真理亜達が、陰性だと分かった事実は大きい。

 何故なら今の所、感染拡大していない確率が高いと言えるからだ。他にもいる濃厚接触者の検査次第だが、それ程恐れる必要は無いと思われる。厄介な事が起こったと当初は冷や冷やしたが、これで多少は安堵した。

 ドアの外側に設置した隔離用の装置は、そのままらしい。その方がこちらもウイルスをまき散らすリスクも軽減するだけでなく、外部からも入ってこないから安心だ。

 隣の部屋からマスクをした直輝が、顔を覗かせて言った。

「良かったですよ。どちらか、または二人共陽性だったらと思ったら、ぞっとします」

「看護師達が言ったように、引き続き注意は必要だけどね。それでも一安心したことは変わりないけど、心配なのは城之内さんよ。症状は安定しているようだけど、着港までの間に急変することもあり得るから」

「そうですね。でも一体誰がドローンなんか飛ばして、ヘリを爆破させたりしたんでしょう。もしかしてテロでしょうか。シージャック何てことは無いですよね」

 小説家でなくとも、その程度の想像はできるだろう。真理亜でさえ、その可能性を考えていたところだ。彼ならもっと頭の中で、イメージを膨らませているに違いない。ゼロから創作物を生み出す人種は、得てしてそうなのだろう。だからか顔色が悪かった。

 といって根拠のない言葉で無意味に励ましても逆効果だと思い、覚悟を決めて言った。

「テロである確率は低くないかもね。ドローンを飛ばしただけでなく、爆薬を積んでと言っていたから通常では考えられないでしょう。シージャックされたと思った方がいいかもしれない。最悪の事態を想定して行動しておけば、間違いはないから」

「怖い事を言わないでくださいよ」

 そう言っている間に、船内放送が流れ出した。最も恐れていた事態が、現実に起こったようだ。聞けば犯人達はこの船を運営する会社の本社に連絡し、乗員乗客を人質として、お金を要求しているらしい。

 しかも外部から警察や軍隊などが救助に駆け付けないよう、連絡が付かないようにしているという。念の為に真理亜達は持っていたパソコンやスマホを起動させてみたが、やはり電波は通じなかった。

「失敗でしたね。上で爆発が起こった時点で外部に救援要請していれば、自体は変わっていたかもしれません」

 悔しがる直輝に、真理亜は言った。

「いえ、恐らくもうあの時点では、犯人側から本社へ脅迫電話がかかっていたんじゃないかな。船長に連絡して、外部との通信を途絶えさせていたと思う。さもないと爆破すると脅したのかもしれない。そこで実際にヘリが爆破により損傷した事で、運営会社と船長も驚いたんじゃないのかな」

「だったらかなり大きな組織が動いている事になるけど、犯人はどうやって外部の仲間と連絡を取っているんでしょうか」

「恐らく個別の通信手段を使っていると思う。ここで停船するようにと指示があったのは、内陸にある電波が届かない範囲だからでしょう。向こうは別途強力な無線電波を飛ばすことで、連絡できるようにしているはずよ。だから海のど真ん中じゃなく、日本に近い場所で作戦を実行したのでしょう。つまり犯人の一味は、少なくとも千葉当たりにいるはず。そこから船内にいる仲間や、もしかすると外国にいる仲間等とも連絡し合い、本社や船長に対して要求を出しているのだと思う」

「身代金をいくら要求しているか判りませんけど、相当な額でしょうね。千人弱の乗員乗客がいますけど、ここに乗っているのは相当な資産家ばかりですから」

「それが犯人側の狙いでしょうね。しかも今回の旅は、この船の安全性を示す為だったのはもちろん、新しい運営会社の目玉としてこれから宣伝しようとしていた矢先だった。だから絶対失敗は許されない旅行なので安心だよ、と城之内さんはおっしゃっていたけど、それが逆に仇となったようね」

「そうだったんですか」

「この船の運営会社は、イギリスと中国企業の共同出資で設立しているけど、中国企業の方が主導権を握っているらしいの。船の名前からして、それが窺い知れるでしょ」

「ゴールド・マーツー号でしたよね。確かにマーツーというのは、中国語っぽいです」「元は媽祖まそ、発音がマーツー。国沿岸部を中心に信仰を集めている道教の女神の名前で、航海や漁業の守護神よ。天上聖母等とも言われているらしいわ」

「そういえば、乗船前にそういう説明を聞いた覚えがあります」

「そうでしょ。問題は主導権を握っている中国企業が、今回の旅を絶対に成功させたかった点なの。犯人側にその弱みを知られ付け込まれたようね。中国政府には絶対に失態を見せられない背景があるから、無事乗客達を開放させる為に恐らくどんな多額の金を要求されても、応じざるを得ないでしょうね。いい所に目を付けたと思うわ」

「感心している場合じゃないです。交渉が失敗するかまたは誰かが余計な動きをすれば、爆破されるかもしれません。しかもウイルスを拡散するとまで、言っているんですから」

 そこで意図的に、真理亜は話題を変えた。

「それはそうだけど、よく考えればおかしな点がある。だったらこの船に乗っている犯人は、どうやって逃げるつもりなのかしら」

「どうやってって。それは救助艇か何かで、逃げるんじゃないですか。防護服を着用していれば、ウイルス感染も防げます」

「どこへ? ここからだと仲間のいる千葉辺りが有力だけど、さすがに船が爆破されたりウイルスが拡散されたりすれば、緊急信号を出すでしょう。そうなったら犯人達だって直ぐに捕まると思うけど。逃げられるとは思えないけどな」

 彼は首を捻った。

「そう言われば、そうですね。日本の警察は優秀ですし、面子にかけて死物狂いで捜査するでしょう。今回のような各国のVIPが乗っている船での事件となれば、世界中から注目を浴びるはずですから」

 心の中で葛藤を抱えながら、敢えて心を鬼にすると決めた真理亜は言った。

「そうよね。この規模のシージャックともなれば、恐らく相当数の犯人達が乗船していると思わない? 私の場合は職業上、様々なデータを得て色んな角度から理論的に物事を考える癖がついている。だから突発的な事故等が起こったとしても、顧客の資産を守る為にあらゆるリスクを想定して回避するよう心掛けてきた。それでも今回は情報が少ないこともあって、想像の限界を超えているわ。だけどあなたは違うでしょう」

「え? 僕ですか?」

「私よりは人生における経験が少ないでしょうけど、その分小説家になる為にたくさんの本を読んできたはずよ。シージャック物の小説や、関係する映画を観てはいないの?」

 戸惑いながらも、彼は反論してきた。

「もちろんそうしたものを含め、それなりには色んな小説や、書く上で必要な資料等を観たり読み漁ったりはしてきましたけど、真理亜さんだって読書家でしょう」

「私も推理小説は好きだから、多少なりとも読んできたわよ。でも一番多いのは金融関係等の仕事に絡む書籍だから。でもあなたは違うでしょ。読書や映画鑑賞等で得た知識と想像力をフル稼働させ、何もないまたは小さなヒントから大きな物語の世界を創り上げる想像力を持っている。だからプロとしてデビューできたんじゃないの。その能力を発揮させるのは今よ。私達は命の危険に晒されている。よく考えなさい。まだ切羽詰まってはいないけれど、だからこそ最悪の事態に陥った場合に備え、対策を取らないと」

「そんな事を言われても、」

 自信が無いのか項垂れてしまった直輝の様子を見て、真理亜は一喝した。

「しっかりしなさい。ここにいるのは五十三歳の女の私と、二十八歳の男のあなた。何か起こった時、どっちがどっちを守るの。よく考えなさい。これからどうする事が最善かを考えるの。怖がっている隙なんてないのよ」

 思わぬ叱責を受けたからか、彼は体が硬直したように棒立ちのまま、顔を強張こわばらせた。これまで多少は間違いを正したりして、注意したことはある。

 だがこの二週間余りの旅の間、またその前での顔合わせでも、彼の前で声を荒げた事など一度たりとも見せた事は無い。

 確かに彼の叔母ではある。だが二十年間も会っていなかった甥だ。しかも彼から取材依頼を受けた際、偶然こちらの都合が良かったから旅行に誘っただけに過ぎなかった。

 しかし今は緊急事態だ。そんな甘い事など言っていられない。万が一の事が起こった際、自らの命を守る為にもビシッと気合を入れて貰わなければいけないのだ。

 彼に何かあれば、兄にも申し訳が立たない。内緒で預かっている立場としては、絶対無事にここから解放させなければならなかった。

 とはいえ知識や度胸には多少の自信があるけれど、身体能力は彼と比べればずっと劣る。体を張って守れるかと言えば、さすがに無理だ。となれば、ある程度自分の身は自分でどうにかする位でないと困る。恐怖で固まっている場合ではないのだ。

 その為意図的に大きな声を出したのだが、逆効果だったかもしれない。今時の子に叱って気合を入れさせるなど、発想が古すぎるのだろう。落ちついて言い聞かせた方が良かった。そう反省していると、彼は急に頭を下げて言った。

「すみません。自分の事ばかりで、真理亜さんや城之内さん達の事に考えが至りませんでした。そうですね。男でしかも一番若い僕が、しっかりしないといけませんでした。臆病になっているようでは、駄目ですね」

 素直に謝られて拍子抜けした為、真理亜も慌てて謝罪した。

「ごめんなさい。いきなり怒鳴った私もいけないのよ。少し神経質になりすぎたわね。突然こんな状態に巻き込まれたら、誰だってパニックになってもおかしくない」

 だが彼は真剣な顔をして、首を横に振った。

「いいえ。真理亜さんが正しいです。こんな時こそ落ち着いて考え、行動しなければいけません。現にあなたは冷静です。さらに最悪の事態を想定し、どうすればいいかと先の事を見据えています。この旅の間でもそうでした。城之内さんや仕事関係者と会って話をし、その情報を元にこの先どういう経済状態になるかを予測し、どう動くべきかを考えていましたよね。僕もそういう点をしっかり見習わなければいけない、と思っていたのに。自分が情けないです」

 突然殊勝しゅしょうになった彼を見て、真理亜は優しく声を掛けた。

「それは自分の仕事柄とこれまでの経験が、そうさせているだけ。あなたの倍近く生きているんだから、差があって当然なの。卑下する必要なんて無い。その分あなたには私に無い、想像力や発想を持っているはず。加えて身体能力や行動力もある。若さも大きな武器なのよ。もっと自信を持ちなさい」

 彼はこちらの言わんとする意図を理解できたらしい。先程よりは表情が和らいだ。

 真理亜は心の中で溜息をついていた。二十年余り会っていなかった甥と過ごした今回の旅で、知らずにいた事が多少なりとも判った。まず彼は両親、特に父親から専業の小説家になった事で、相当な反感を買っていることだ。

 つまり真理亜の兄との関係がこじれていた。学生時代から小説家を目指していたけれども、親に猛反対されて止む無く大学へと進学したという。それでも早稲田の文学部に入学したのだから大したものだ。

 その上在学中に小説は書き続けながらも、親の目を気にして普通に就職した。だが入社三年目の時に応募した作品で賞を取り、プロデビューすることとなったのだ。

 長い間夢見てきた職業につけたことは、真理亜からすれば称賛に値する。しかも二足の草鞋わらじを履きながら、成果を出したのだ。褒められはしても、叱られる事ではない。

 だが兄達は違った。まだ諦めていなかったのか、と直輝を責めたという。それでも契約がある為、本は出版される。しかもそれなりに評判が良く、二作目の出版も直ぐに決まったらしい。だが兄夫婦だけでなく真理亜の両親達も、苦々しく思っていたようだ。

 幸い彼の勤めている会社が理解を示してくれたおかげで、副業を責められるどころか応援して貰ったと彼から聞いた。にもかかわらず本業に支障が出ない内に、小説を書くのは止めろとまで兄達は言い出したという。

 そこでこれまでは親の言う事を聞いてきた直輝に、遅い反抗期が訪れたのだろう。まだプロとして書き続けるのは難しいと、担当編集者等は兼業作家として続けるよう忠告していたけれど、彼はある時退職願を会社に提出して専業作家になると決断したのだ。

 これに兄達は激怒したらしい。大学入学時から親元を離れて生活していた直輝だが、今後二度と家に帰って来るなと、親子の絶縁を申し渡されたという。

 ここで上等だと言い返すほどの根性が彼にあれば、良かったのかもしれない。だが彼は怖気づいてしまったのだ。

 実際その後三作目に取り掛かってはみたものの、編集者の目も厳しくなったからか、プロット段階で立て続けにぼつを食らい、意気消沈してしまったらしい。その為切羽詰まり、真理亜に連絡したことで今回の旅に繋がった。

 しかしたった二週間余りの旅で、人が急に変われるはずもない。どうにかしようともがいていた事は確かだ。けれども真理亜から見ると、真剣さが足りないと感じていた。

 必死な思いで面識のない叔母に連絡し頭を下げてきた割には、いざ取材が始まった時点で、彼から熱意は余り伝わってこなかったのだ。その為拍子抜けしたこともあり、こちらも聞かれた点に対しては答えたものの、最初は積極的に教えようとしなかった。

 だが彼への負い目もあった為、まずは社会人としての心構えやマナーなど、ごく基本的な部分についての指導を優先した。それから徐々に彼の欠点を指摘し、かつ長所と思われる部分を伸ばす事を意識しながら、彼の作品作りに協力するようになったのだ。

 この旅で彼はそれなりに成長できたと思う。それでもやや物足りなさは残った。彼の元来持つ気の弱さがそうさせるのか、自信の無さが表れているのかは不明だ。それに二十八歳という若さを考慮すれば、仕方ないのかもしれない。

 彼も頭までは判っているのだ。でも自分だけではどうしようもない、超えられない壁にぶつかっているのだろう。真理亜にもそうした経験がある。そう思うと彼を責めることなど出来ない。何故なら自分は壁を超えることを諦め、逃げた。しかも三度も、だ。

 真理亜は己の過去に思いを馳せ、不安でしょうがなかった頃を思い出した。

 大学卒業後、真理亜は全国どこでも転勤があり得る総合職として、損害保険会社に就職した。しかも最初の勤務地が神戸の三宮さんのみや支店だ。そこで赴任してから四年が過ぎた二十七歳の時、阪神淡路大震災を経験した。

 当時借り上げの、鉄筋五階建てマンションの四階に住んでいた。まだ目覚める前の朝方、これまで経験したことのない揺れによって起こされたあの恐怖は、三十年近く経つ今でも忘れられない。

 幸いマンション自体は無事だった為、逃げる時に足首を軽く捻った程度の軽傷で済んだ。仕事場だった三宮ビルも、さらに被害は小さかった。

 その為地震対策本部が設置され、全国各地から地震対応の応援が駆け付けた。真理亜も担当代理店や顧客対応に追われ、忙しい毎日を過ごした。

 その九か月後にひと段落着いたこともあり、地元に近い関東への異動辞令が出た。しかしあれから高いマンションには恐ろしくて住めなくなり、借り上げマンションもできるだけ低い部屋を探して貰うようになったのだ。

 ちなみに真理亜は二十八歳で結婚した。相手は大学時代から付き合っていた恋人だ。関東への異動で彼との距離が縮まったこともきっかけになったが、震災の経験が大きく影響していたのは否定できない。

 死ぬかもしれないと思う揺れを、一人でいた時に感じたからだろう。このままではいけないとの意識が働き、誰か一緒に居て欲しいとの気持ちが強くなった。それが結婚へと向かわせる後押しになったのだ。

 直輝は、その時の真理亜と同じ年齢である。後に五年で破綻してしまう、結婚という道に逃げ込んだ自分自身と比べれば、ずっとマシかも知れない。それに取材依頼を受けた身とはいえ、今回の船旅に誘ったのは真理亜だ。彼は単に巻き込まれただけだった。

 そう思い直し、追い詰めるような厳しい言葉を浴びせた事をもう一度詫びた。

「御免なさい。こんな危険なクルーズ船に乗る羽目になったのは、私のせいだったわね」

だが彼は首を強く振って否定した。

「いいえ、それは違います。無理を言ったのは、僕からです。この船旅への同行も自分が決めたことで、嫌なら断ることだって出来たのですから」

「だからって、あなたにプレッシャーをかけ過ぎたのは確かだから」

「いえ、それは期待しているからこそですよね。真理亜さんの場合の叱咤しったはその表れだと、この二週間余りで理解できました。言っても無駄だと思う人には、何も言わない。そう仰っていた事がありましたよね。城之内さんに、不必要な労力はかけたくありませんとズバリ言った真理亜さんの言葉は、とても印象的でした」

 最初の寄港地だった、上海での話をしているらしい。取引先の企業と関係する役人と会食した際、彼は自らの懐に入る賄賂ばかり気にしていた。だが肝心な情報を出そうとしなかった為に、単なる出し惜しみではなく重要案件を任される立場にいないと悟った。 

 よって関わらない方がマシと判断した為、城之内に直ぐ立ち去る提案をしたのだ。

「よく覚えていたわね」

「それはそうですよ。だってまだ最近担当し始めたばかりの大口顧客に、遠慮なく言い切っていましたよね。資産運用のプランナーって、そんなに立場が強いのかと驚いたくらいです。でも日が経つにつれて、そうではないと気付きました」

「褒められいるのか、けなされているのか良く分からないけど」

「感心しているんです。単にが強いのではなく、あれは顧客の事を真摯に考えた上での行動だったと、後で思い知らされました。ケースによっては体を張ったり頭を下げたりして、相手側から有利な条件を引き出し、情報を掴んでいたと聞いています」

「そんな事、私は話してないでしょ。誰が言ったの」

「主に八神さんです。真理亜さんは懇親の場でも、さり気なく先方に探りを入れていた。相手側からセクハラまがいの事をされながら、上手く受け流しつつ機嫌を取っていたようですね。時には酔った相手に怒鳴られ、何も悪く無いのに謝ったとも聞きました。城之内さんも噂以上の遣り手だと、満足気にしていたようですよ」

 これには苦笑せざるを得ず、皮肉を込めて言った。

「それは良かった。ただ八神さんは、余計な話をしてくれたようね」

「確かに甥っ子には、知られたくない姿だとは思います。でもその話を聞いて、プロの仕事とは何かを学びました。それに比べ僕は何て不甲斐ないと、情けなかったです。でも現在僕達が置かれた状況を考えれば、そんな弱気な事を言っている場合じゃないから、真理亜さんは叱ってくれたんですよね。僕は甘えていました。親父に叱られても、ずっと言いなりになっていたから駄目なんですね。いざ自分の力で何か行動しようとしても、上手くいくはずがない。そう諦めている自分が、どこかにまだいるんだと思います。それじゃいけないと一念発起いちねんほっきしたつもりなのに」

「会社を辞めて、専業作家になったことを言っているの?」

「初めて大きな反抗をした事自体は、全く後悔していません。でもその後が駄目でした」

「だから変わろうとして、私に連絡をしてきたんでしょ」

「はい。おかげで大変貴重な経験をさせて頂きました。すごく勉強になりましたし、いい刺激を受けたと思っています。でもこれで大丈夫かと言われれば、自信がありません。だからこんな態度になってしまうのでしょう」

 そこから彼の目の色が変わった。断り得てから入り口に周り、真理亜の部屋へと入って来た。そこで距離を保った位置にある椅子に腰かけて言った。

「話を戻しますが、僕達や八神さんが陰性でした。そう考えると、城之内さんは犯人の手によって感染させられたという船長の話は確かでしょう。最初は単に自分達には関係ないと喜んでいましたが、こんな騒ぎが起こったら別の意図があるんじゃないかと疑ってしまいます」

 どうやらスイッチが入ったようだ。心強く思いながらも顔には出さず尋ねた。

「どういう意味?」

「だっておかしくないですか。船の旅が終わろうとしている時に、コロナの感染者が出たという点。またVIPという事もあるでしょうけど、高齢者だから念の為にドクターヘリを要請した。これは日本近海まで近づいていたからこそ、そういう判断がされたのですよね。もしもっと遠ければ、もうしばらく船内で様子を見ていたと思いませんか」

「そうね。ドクターヘリが往復できる距離がどの程度までなのかは知らないけど、症状が相当悪化しない限りは、医務室で処置されていたはず。それだけの設備が、ここでは整っているらしいから。それがこの船の売りでもあるからね」

「そこです。テロリストがこの船に、潜入していると仮定しましょう。それならいつからいたのか。もし最初からなら、何故このタイミングで行動を起こしたのかが疑問です」

 彼の推理力を高める為、真理亜はわざと考えさせるように仕向けた。

「爆弾を持ち込めたのが、最後に寄ったマニラからしか無理だったのかもしれないわよ。 普通の税関と比べれば、クルーズ船は甘いと以前から指摘されているけど、この船は特定のVIPを招待してのクルーズだからね。実際私達も途中四か所で乗り降りしたけど、乗組員に対しては、それ程厳しく無かったのかもしれない。感染予防の確認は時間がかかったけど、最後に寄ったマニラだけは、甘くなった可能性はあるわよ」

「限られた招待客との乗組員で旅が始まっていますから、途中からテロリストが新たに乗り込むのは無理でしょう。でも爆弾などの武器を、警備が甘くなった途中のマニラで手に入れてから実行しようと、最初から計画していたのなら頷けます」

「でもそれと城之内さんがコロナを発症した事が、どう関わってくるっていうの?」

「マニラを出発してから、今日は四日目です。何故もっと早くどこかで爆弾をしかけ、シージャックしなかったのでしょうか。その方が救援を呼ばれたとしても、駆け付けるまで時間が稼げます。何が目的かは知りませんが、どこかへ逃げるにしても日本よりは、マニラなど島が多数ある地域で事件を起こした方が、犯人にとって得だと思いませんか」

 確かにそうだ。もちろん日本近海にも、無人島を含め数多くの島は存在する。だが優秀な日本の海上保安庁等が動けば、どこへ隠れたとしても直ぐ追跡できるだろう。

 フィリピンの警察が、日本より劣っているとまでは言わない。それでもマニラ周辺の近海の方が、素人目では逃走に向いているはずだ。あの周辺も大小様々島があり、逃走経路を確保しやすい。そこで真理亜は賛同した。

「確かに、何故日本に近づいたあのタイミングで、犯人達は行動を起こしたのか。そう考えれば、城之内さんの件が無関係とは思えなくなってくるわね」

「しかも尾翼の破壊だけなら爆薬も最小限で済むけど、与える衝撃はかなり大きい。コロナ感染者を外へ運びだせなくなっただけでなく、次に来る救助ヘリの着陸も阻止できたのですから。しかもただ邪魔するだけなら、上手くいけばドローンだけでも可能だったかもしれません。でもそれでは単なる事故扱いになりかねません」

「なるほど。最少の仕掛けで最大のダメージを与える事が目的だったら、今回の件は大成功ね。ヘリもだけどコロナ感染者が船内にいると思わせるだけで、恐怖を与えられる。つまり城之内さんを意図的に感染させた理由は、そこにあった訳ね」

「そう考えれば辻褄が合います。ピンポイントでVIPかつ高齢者の城之内さんを狙えば、乗員乗客だけでなく運営会社に対しても、大きな効果が得られます」

「そうね。この船での感染者が彼一人だったら、その確率はかなり高くなるわ。そうなるとテロリストは乗組員の中にいて、誰なのかも絞り込むこともできるでしょう」

「あ、そうか。城之内さんが口にする物にウイルスを入れたとすれば、乗客だとやや無理があります。調理部門やウエイター、バーテンダーや給仕係なら可能でしょう」

「いえ、バーだったらいつ城之内さんが寄るか、読めないから違うと思う。ウイルスを混入したのなら、恐らく犯人達は発症するタイミングも考えたはず。さっきの話から考えると、あまり早く発症しても困るでしょう。上陸してから発症したら遅すぎるし」

「発症のタイミングまで、コントロールできるものでしょうか。でも持ち込んだウイルスが、いつ頃症状が出ると予想できるものだったとしたら、その可能性はありますね」

「もちろん、乗客や他の乗組員の中にも仲間がいることは考えられる。一人や二人でこんな大きな船相手に、テロを仕掛けるとは思えないから」

「ウイルスや爆弾を持ち込んでいる事から考えれば、それなりの組織が動いていると考えていいでしょう。先程話していたように、相当な身代金が期待できますからね」

「過去にもそういう事例が、確かあったわ。映画にもなったんじゃなかったかな」

 彼と今回の事件における意見を交わしながら、真理亜は再びかつて味わった苦い思い出を頭に浮かべていた。

 真理亜が結婚相手は、転勤のない会社に勤務していた。給与も良かったので、会社を辞めて専業主婦になる選択肢も残ってはいた。けれど自分はまだ仕事を続けたい気持ちが残っていた為、共働きすることとなった。

 しかし結婚前、将来の人生設計に向けた話し合いを曖昧にしていたからだろう。子供が欲しい夫と、それほど焦っていなかった真理亜との考えがすれ違い始めたのだ。

 しかも真理亜が妊娠しにくい体質だと判り、彼の両親達による説得もあって不妊治療をする事になった。それが苦痛になり始め、結局三十三歳で離婚したのだ。

 治療は三年程度の期間だった。体が辛ければ、会社を辞めることも出来た。そうすれば、もっと長く取り組めただろう。子供を授かる可能性は広がったかもしれない。 

 けれど真理亜はそうしなかった。その間の事は余り思い出したくない。それ程苦痛だったし、精神的に追い詰められていた。そうした気持ちが彼に届いていなかったことも影響したのだろう。

 それに元夫が病院での検査を、最後まで拒絶したことも関係していた。妊活は女性だけの問題ではなく、三割から五割は男性側に原因があると言われていたのに、だ。

 それが彼への不信感に繋がり、愛情も徐々に冷めた。心が離れ始め、三十三歳で不妊治療を辞めたその年に離婚が成立した。これが二度目の逃げだ。

 ちなみにこの件が、真理亜の両親との確執にも繋がっている。あくまで夫側の意見に同調していた彼らに辟易へきえきした真理亜は、離婚の話し合いを始めたのを機に、彼らと距離を置くと決めたのだ。

 しかし不幸はさらに続く。入社十五年目の三十七歳の冬、酷い体調不良になりうつ病と診断され、三年半の休職期間を経て退職した。これが三度目の逃げだ。

 幸いだったのは、会社の福利厚生がとても恵まれていたことだろう。最大三年半の休職期間中は、給与がほぼ全額近く支払われたおかげとそれまでの貯蓄もあったことから、経済的な不安は余りなかった。

 ただ期間を過ぎても復職できなければ、退職しなければならない。だが休職中は体調を整えることを最優先にできた。この時程、体が資本だと言葉通り痛感したことはない。

 どれだけ優秀な能力があっても、怪我や病気になれば力の十分な発揮は難しくなる。

それでも人は生き続けなければならない。その為三年半の間に、なんとか健康な体と心を取り戻そうと、色んな取り組みをした。

 おかげで退職してから半年後には、今の会社に再就職できたのだ。それでも未だにメンタルクリニックへは、通院をし続けている。仕事に支障はないけれど、様様な要因があって完全な回復には至らなかったからだ。

 ちなみに両親とは、休養中にもかなり揉めた。うつ病というものを、彼らは病とは認めていなかったからだろう。そうした偏見を持つ者は、その頃少なくなかった。両親、特に父親は自分に甘えているだけだと、真理亜を非難したこともある。

 そうした影響もあって、今では完全に疎遠となった。その為離れて住む八十四歳になる父と八十二歳の母の面倒は、比較的近くに家を建てて現在五十八歳になる兄夫妻に任せっきりになった。その彼らの子供の一人が、直輝だ。

 その彼が何かを吹っ切るように言った。

「ありましたね。今の内に考えられることは、全部出し切りましょう。時間が経てば、また新たな展開が起こり、状況は変化すると思います」

 真剣に訴える目を見て、真理亜は敢えて尋ねた。

「どうするつもり?」

 彼は大きく頷いて言った。

「今後どうなっても対処できるよう、あらゆることを想定しておくことは、生き残る為には必要です。僕だって、こんなところで死にたくはありません。それどころかこんな貴重な体験をしている事自体、考えてみれば大きなチャンスです。これを小説なりノンフィクションとして世に出せれば、僕は変われると思います」

 ピンチをチャンスに変える為、何らかの目標を掲げるのは悪くない方法だ。彼の場合、今回の困難を乗り切れば命が助かるだけでなく、小説家として足踏みを続けている状況を抜け出せる好機こうきだと捉えたのだろう。そう考える事で、自らを奮い立たせたらしい。

 聞いた時は、一瞬目先の利益を追いかけるやや安直な考えかと思った。だがネガティブな思考から抜け出せるのなら、それもいいだろう。実際起こった大きな事件の被害者になった経験を生かすのも、狙いとしては意外といけるかもしれない。

 そこで真理亜は、彼を試すように質問した。

「だったらまず、私達は何をすればいい?」

 彼は唸るように答えた。

「今の所はこのまま部屋でじっとしている方が、安全かもしれません。どこに犯人がいて、どう動くか判りませんから。でもその間に今まで起こった事を整理して、犯人の思惑や今後取るだろう行動を予測してみませんか」

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