四 風に向かって

二十五日目。八時。

 最悪の睡眠だったが、ブリッジに来ると一つだけいい報せがあった。

 一時十二分にニューブラジルを追い抜き、走行順位は六位に上がった。だが、もともと総合順位も六位だったため、実質変わりがない。

 ニューブラジル自体は速度が落ちていたし自滅したきらいもあるが、何にせよ前に出られたのはいいことだった。

 夜間のエネルギー収支を見る限りではニューインドを上回る試算だが、朝を迎えてこれから電力消費が増える。核融合炉の出力増による減点があるため、ニューインドにはまだ追いつけない。走行順位でニューインドを上回るしかない。

 ニューインドとの差は十四分。距離にして9kmほどだ。時速を1キロでも上回っていれば9時間後には追い抜ける。だが当然ニューインドもそれは分かっている。だから心晴こはるに合わせて加速し、追い抜かれないようにしている。

 ニューインドも核融合炉の出力を上げているのだろう。環境負荷ポイントを多少犠牲にしても、総合点で負けない程度に心晴こはるとの時間差を維持することを選択しているようだ。

 だが、こちらには帆推進システムがある。今日の朝から夕方にかけて、更に強風が吹く。最大風速秒速35mだ。これをエネルギーに変えれば、ニューインドを追い越せる。

 順風満帆とはいかないが、勝ちの目はまだ残っている。

 もちろん、ニューインドが核融合炉の出力をさらに上げれば追い抜くことはできない。しかし、ニューインドの環境負荷ポイントが増えれば、速度で勝っていても総合点で負ける。

 そのためミーティングでいくつかのパターンで比較することとなった。

「これがシステム部で造った運行パターンです。一案、現在の速度を維持。二案、強風を受けて増速。三案、強風が収まって増速できない場合。四案、縮帆しゅくはん

 会議机を囲んでみんなで座り、配られた資料を確認する。十三段が言った四案がまとめられている。指示はしてないが、独自に動いてくれていたようだ。

「簡潔に言うと、二案以外では勝てない。一案の場合、今の時間差のままだから勝てない。三案も同様だ。現時点で平均風速30m出ているが、これが34mを超えないと駄目だ。そして四案の縮帆しゅくはんは、説明するまでもない。帆推進システムがなければ心晴こはるは他の移動都市に追いつくことはできない」

「風速は秒速34m以上じゃないと駄目なの?」

「そうだ。現在の心晴こはるの速度は時速38km、風速は30m。ニューインドのサクルーサルブも時速38km。時速1km増速するには風速にして秒速4mの増加が必要となる。だから秒速34mが必要だ」

 資料には風速のシミュレーションも記載されている。横軸が風速、縦軸が速度。十三段が説明した内容が書かれている。開発した時のデータでも、時速40㎞前後の速度領域では、確か増速時速1kmあたり秒速4mだったはずだ。

「余裕はないと思ってたけど、本当にぎりぎりなのね」

「そうだ。結局このまま帆を張って走り続けるしかない、という結果だ」

「米山さん、操帆課として問題はある?」

「そうですね……問題といえばそもそも風のデータが来ないこと、操帆を手動でやっていることです。それはまあいいとして、現時点で操作の頻度が限界になってます。風が強くなっても計算上問題ありませんが、風向の変化が激しくなると対応できないです」

「現時点でどんな状態なの?」

「えーと、具体的に言うと……」

 米山さんが机のモニタを操作し操帆の履歴を表示する。

「現在は風向が10度以上変化した場合に操帆を行っています。過去一二時間の履歴で言うと、操帆間隔は平均十九分。操帆に要する時間は一分程度ですが、一度使用すると十分の冷却が必要です。つまり十一分。今は一回当たり八分の余裕がありますが、明け方になってから間隔は段々短くなっています。予測でも確か、そうなってるはずですよね、アスワンさん」

「そうですね。昨日の古い予測ですけど、荒れてきます」

「でも対応策はないから、遅れ気味でも適宜操帆を続けるしかないのね」

「残念ながら、そうなります。そして仮に操帆の角度補正が間違ったとしても、連続して動かすことが出来ません」

「勝てるラインぎりぎりのエネルギー収支。しかも操帆もギリギリ……ミスが許されない」

 それに、風を読み違えて帆が裏を打てば終わる。帆が損傷しては逆転は無理だ。もう少し余裕を持って勝てると思っていたが、思ったよりニューインドの移動都市は手強い。

「逆に言えば、それをクリアすれば勝てるのね」

 だからこそ挑む甲斐がある。ニューアメリカ、ニューアジア、ニュードイツ、ニューイングランドはニューインドより更に先行している。心晴こはるとの差は一時間以上と途方もない。移動都市の技術で言えば、心晴こはるはまだ子供のようなものだ。

 この壁を越えなければいけない。帆推進システムだけではない。核融合炉も、再資源化プラントも、水ろ過システムも、何もかもで勝たなければならない。

「簡単に言ってくれるが……つまり二案で変わりなしだな。まったく、資料を作るだけ無駄だったな」

「そうかもね、。ごめんなさい、十三段」

「冗談だよ。仕事は仕事だ」

 これは試金石だ。ここで勝てないのなら、きっとニュージャパンは後進国になってしまう。私たちがここで踏ん張らなければ、心晴こはるを造った意味がないのだ。

「じゃあこれで――」

 ミーティングを終わりますと言おうとしたら、ブリッジが揺れた。いや、ブリッジではない。心晴こはる全体が傾いたのだ。

「何? 膝が抜けた?」

 膝抜けとは移動都市の脚部関節が限界を超えて稼動することだ。地盤を踏み抜いたり、岩盤で滑った場合に過負荷となるが、その際の損傷を抑えるための稼動代が機能したことを言う。要するに非常事態だ。脚部の損傷は免れるが、一旦停止して脚部の調整が必要となる。そうなればサクルーサルブを追い抜くどころの話ではない。

 しかし、警戒灯はついていない。傾きもすぐに持ち直しており、平常通り歩行を続けている。

 十三段と米山さんが自席に戻り。確認をする。私も席に戻るが、警戒表示となっていないのでどこを見ればいいのかわからない。

「帆だ。帆に横風が当たった」

「何ですって? 帆の損傷は?!」

「恐らくない。マストが……6mも動いたのか。上端で右側に6m動いた。それで今の動揺が生じた」

 十三段が言った。確かに帆関係の警戒表示もない。

「操帆室からですが、帆に損傷はありません。目視で確認しました」

 米山さんが電話を片手に報告する。

「帆が裏を打ったわけじゃないのね。良かった……操帆の状況はどうなってる?」

「この一時間でさらに荒れてきてるって……右に左に、ステーが鼬ごっこになってる」

 これ以上変化に追従することは出来ない。どうすべきか。左右にステーを振るから余計に動揺するのかもしれない。いっそ固定してこらえた方がいいのか? 残念ながらこのような場合の挙動の解析は行っていない。

「次に心晴こはるが揺れたら……ステーを固定します」

「それで防げるのか?」

「防げませんが……操作装置の冷却時間を考えると、却って動かさない方が、緊急時に動かせる余地があります。それに……半日ずっと休みなく作動させています。機械はともかく、人を休ませないと」

 風向予測では、午後に入ってから北北西から北東へと卓越風が変わる。タイミングが分からないが、その為にもステーを止めておいた方が対応しやすい。その分心晴こはるが揺れるかもしれないが、心晴こはるの衝撃吸収機能を信じるしかない。

 それに風データを確認すると、風向の変化する感覚が、確かにどんどん短くなっているように見える。まともに操作しようと思うと、十分単位、いや、分単位での操作が必要となる。どう考えても追従するのは不可能だ。ゾンデのデータが万全であっても、分単位での予測なんて出来ない。せいぜい10分単位で平均の風向風速を予測し、最適角度に操帆するだけだ。

 そもそも何故風向が変わる? 前兆はあるのだろうか?

「アスワン、何故午後から風向が変わる予測なの?」

「えーとそれはですね……」

 アスワンがデータを展開して確認する。

「パラメータの……細かいな……えーと、地形です」

 運行長席のコンソールにデータが転送される。表示されたのは地形図だった。格子状に区切られ、一つのマスごとに方向が表示されている。風向を示しているようだ。

「地形のパラーメータの影響です。今日の午後の二時過ぎに山脈に近づきます。この右側の等高線が密なところです。ここが地形で風が変わる。山頂から冷えた風が来る」

 等高線を見ると、確かに右前方に山らしき形状がある。心晴こはるの針路はその山裾をかすめていく。等高線を見るといくつかの尾根が連なっているが、その谷部から吹き下ろす風が吹くようだ。

「もっと正確に位置を予測できない? ゾンデで観測できなくても、地図上でどの位置かわかれば操帆で対応できるかもしれない。」

「これは大体の予測でしかないです。地形パラメータは加味してるけど完全じゃない。そもそも200mグリッドだから粗すぎる。大体の推測」

「それでもいい。無いよりは」

「えーと待ってね……これだ」

 表示されている地形図が拡大される。背景に衛星写真が重ねられ、そして心晴こはるの予定針路が赤い矢印で表示される。

「今の速さで心晴こはるが動くと、ここ。この場所から風が吹く。山頂から続く谷の地形。計算上では十四時三十四分。この谷に最接近してから風の向きが変わる」

 心晴こはるの進行方向、右前方の山裾に接近してから先の針路では、アスワンの言うように風の卓越する方向が変わっている。北北西から北東へ。

「十四時三十四分……」

「実際には十分以上の誤差が出るはず。それにこの予測は昨日のもの。トレンドは変わらないと思うけど、どこまで正確か分からない」

 気象の予測は200mグリッド。200m四方の面積で区切って予測をしているが、実際の谷地形がどのくらいの幅か、この図面では分からない。これをもとに操帆をするのは、サイコロを投げているのとあまり変わらない。

 現実的なのは、風向が変わる時間帯は縮帆しゅくはんし、安定してから展帆てんぱんすることだ。

 しかしそうすると約一時間心晴こはるの速度は低下する。ニューインドと同じ速度を維持するには核融合炉を出力を上げねばならず、環境負荷ポイントで負けてしまう。

「まるで……博打ね。分かりました。ひとまず操帆はこれまでとおり行ってください。ミーティングは……これで終わります」

 勝つには博打に勝つしかない。しかしそれは運行長のやることではない。データと確率で決断しなければいけない。

 窓の外を見る。

 相変わらずの砂嵐だ。風は帆を進めてくれるが、どの方向に進むか分かったものではない。


 十一時。

 風向データと地形図を睨むことしかできないまま、時間が過ぎた。また、心晴こはるが大きく動揺した。

 体で感じるだけでない。デスクに置いてあったコップが少し動いた。体感では、かなり大きい揺れだ。朝に感じた揺れと同程度だ。

 警戒灯はついていない。膝抜けやその他の都市の損傷ではない。一瞬マストが折れたのではと思ったが、それでもなさそうだ。

「運行長、同様の原因は横風。マストの変位量が7m……弾性範囲、今は戻ってる。機能に問題は出てません」

 十三段からの報告。遅れてコンソールに関連データが来る。マストの変位、風向、都市の偏心量。最外縁で5cm下がった。居住区の外縁では2cm下がっている。歩いている人が転倒しかねない変位だ。

 肝が冷える。移動都市の構造に問題がなくても、乗っているものには心理的な負担を与えることになる。移動都市である以上全くの静穏は難しいが、今のは気象予測が行えていれば多少軽減できた可能性がある。

「十三段、異常の報告があれば私に上げて」

「分かっている。既に指示はしてある」

「操帆課に連絡。ステー操作の停止。十三段、ステー固定、衝撃吸収装置を有効にしてください」

 朝に決めたとおり、ステー操作を中止する。

 帆のステー操作装置には、故障等の非常時のために予備の手段が用意してある。それが衝撃吸収装置だ。

 マストには大きな力がかかるが、通常はマスト自体の剛構造で受け持つ。しかし急激な風向の変化に対応するためには、ある程度衝撃を受け流す構造が必要となる。

 常時は帆とステーがその役割を果たす。帆とステーは弾性体として働くため、衝撃吸収効果が期待できるからだ。

 しかし操作装置の故障などでステーを完全に固定する場合、帆とステーの衝撃吸収機能は著しく低下する。その為にマスト基部に取り付けられているのが、予備の衝撃吸収装置である制動ダンパーだ。ゴムと金属製ローラーからなる構造であり、マストにかかる力を支えると同時に回転モーメントを吸収する。この構造は、かつて高層ビルなどに使われていた免震装置に構造が似ている。

 今回の場合、ステー操作装置をは故障していないが、操作を中止して固定してしまうため、衝撃吸収を制動ダンパーで受け持たせる必要があるのだ。

「アスワン、ゾンデからのデータは」

「駄目のままです」

 無いものをねだるように、無駄とは分かっていてもつい聞いてしまう。ゾンデからのデータさえあれば、都市が動揺することも、ステー操作を停止することもないのだ。

 ごうごうという砂嵐の音が頭の中で反響する。

 早く砂嵐が終わればいいのに。そうも思うが、しかし、風がやめばニューインドを追い抜く事は困難になる。

 帆推進システムを搭載したメリットとデメリットに直面している。これは今後の課題だ。今後があれば、だが。

 現時点でニューインドとの時間差は七分。距離にして5km弱。

「あと五時間……大過無ければいいけど……」

 予定通り時速1km上回っており、これをあと五時間維持できれば勝てる。神に祈るばかりだ。


 十四時。

 ニューインド、サクルーサルブまであと2㎞。砂嵐が晴れれば、1時方向に、目と鼻の先だ。

 ニューインドも当然心晴こはるが肉薄していることに気づいているだろう。しかし速度はそのままで、心晴こはるが接近するのにまかせている。速度を上げるには核融合炉の出力を上げるしかなく、そうなれば総合点で心晴こはるが勝つ。

 向こうにできるのは、この風が早くやむように祈ることだけだ。心晴こはるの帆推進システムの推力が落ちない限り、ニューインドに勝てる。

 地形図を睨む。朝方に予測した地点までは約20km、30分後に到達する。予定通りだ。

「運行長、結局どうするんだ」

 十三段が左右の手にそれぞれ紙を持っている。右手にあるのが縮帆しゅくはん案。左手にあるのが目視でタイミングを測る案。決まらないまま、この時間になってしまった。

「どうもこうも……勝つためには縮帆しゅくはんできない。目視でやるしか……」

「目視? 何が見える? 俺には砂嵐しか見えないぞ」

 十三段が窓の外を指さす。言われなくても分かっている。何にも見えやしない。山も谷も、指標となるようなものは何もない。かろうじて測位システムで現在位置は分かるが、十万分の一の地形図では正確性に欠ける。

 いっそ本当にサイコロでも振ろうか。そんな馬鹿げた事さえ考えてしまう。

 風向が変わるのは分かっている。問題はその場所だ。予測では、風向はなだらかに北北西から北東に変わるのではなく、例の谷部から急激に変化する。

 その急激な変化を、一分でいい。帆にあたる一分前までに察知できれば、ステー操作は間に合い、帆が裏を打つことはない。

 風が弱ければ、地上に人を出して車両を先行させて調べる方法もある。しかしこの強風下では危険すぎてできない。ゾンデも駄目。目視もダメ。

 アスワンが言っていた可搬式の風向風速計を心晴こはるの躯体の先端に設置すれば……いや、これも駄目だ。躯体から高さがなさすぎる。床にあたって上側に吹きあがってくる風の影響を受けてしまう。それに外に出るのは危険だから駄目だ。

 躯体床面よりある程度高い位置で風向風速を測ることができれば……。

「十三段……」

「何だ」

「もし風車を動かしたらどうなるの?」

「今か? 風が強すぎるから発電には使えん。分かってるだろ」

「そうじゃない。発電しなくていい。風向と風速を知りたい。ブレードの回転から求められるのよね?」

「トルクと回転から風速は出せる。風向も分かる。何だ……何がする気だ」

「躯体先端付近の風車から帆までは200mくらいの距離がある。僅かだけど、先端での風を知ることが出来れば、それに合わせて帆を動かせるんじゃない?」

「何……? 風向風速は分かるが……アスワン、可能か」

「可能。考えは分かる。風車をゾンデにする。普通ゾンデは数km離れた位置で観測するけど、それが200m先になるだけ。近すぎるけど」

「風速35mで200m……ざっと6秒か」

「5.7秒です」

「その5.7秒でステー操作? 間に合わないだろ」

「操作が完全に終わっていなくても、帆が裏を打ちさえしなければそれでいい」

 北北西から北までの角度は22.5度。そして北から北東までの角度は45度だが、心晴こはるのステーは30度分しか動かない。そのため風向の変化は合わせて67.5度となるが、ステーの移動は52.5度分となる。ほとんどステーの端から端への移動だ。ステーを150m程動かす必要があり、所要時間は75秒。

 躯体先端で風向きの変化を知ることができても、余裕は6秒。とても間に合わない。

「……帆を北に向けます。それなら裏打ちはしない」

「だが……推力が無くなるぞ?」

「十四時二十分をもって帆の確度を北に変化させます。そして躯体先端の風車で風向を計測し、変化と同時にステーを動かす。これならエネルギーロスもリスクも最小限に抑えられる」

「計算は……間に合わんな。もうじきに三十分だ」

「本当にそれでやるのか?」

 山本さんが聞いてくる。どこか覚悟を決めたような顔だった。

「他にはありません。勝てるかどうかは分からないけれど、勝つためにはこの方法しかない」

 帆は裏を打たないはずだ。風車でなら正確な風向を取得できるはずだ。しかし、確信はない。それでもこの方法が最善だ。

「操帆課に連絡、帆を北向きに修正。十三段、躯体先端の十基の風車を使用できるようにして」

「分かった」

「アスワンは十基分の風向データから平均風向を計算する用意」

「はい」

「あとは時を待つだけ。やるわよ、みんな!」

 ブリッジ全体に聞こえるように声を張る。

「きっと風を越えられる。ニューインドに勝てる。心晴こはるとあなたたちなら絶対にできる!」

 自分に言い聞かせるように言った。あとはもう、信じるしかない

 十四時十七分、ステー操作完了。帆は北向きのまま操作待機。

 十四時二十一分。風車十基の使用準備完了。風向データを取得開始。

「推力が落ちてる……当たり前か」

 帆を北に向けるまで、帆推進システムの推力は心晴こはる全体の11%だった。しかし、今は1%にまで低下している。当然だ。北向きでは北北西からの風をうまく受けることなどできない。速度が落ち、ニューインドとの差が僅かずつ開いていく。

 十四時三十分。まだ風は変わらない。

「山は見える?」

「分からん。何も見えない」

 十三段は心晴こはるの観測用カメラで見ている。私も双眼鏡で見てみるが、何にも見えない。やはり目視は駄目だ。

 地図上ではもう谷部に接している。いつ風向が変わってもおかしくない。

 風データをコンソールに表示させる。アスワンが風車十基分のデータを解析し平均値として出力したものだ。

 北北西、秒速33m。変化はない。しかし、来るはずだ。私はモニタ睨むように見つめる。

「――運行長。鞘倉運行長」

「はい?」

 何度か呼ばれていたのに、今気づいた。山本さんだった。

「気を張りすぎだ。モニタを睨んでいたって疲れるだけだぞ」

「ああ……すいません。つい」

 しっかりと見られていたようだ。恥ずかしい。ストローから覗いているみたいに、視野が狭くなっているのを感じる。

「きっと大丈夫ですね」

「そうだ。新任運行長でこんなひりつくような経験ができるなんて、恐らく二度とない。少しは楽しめ」

 楽しむ? 私はあいまいな笑みを返すことしかできなかった。

 こんな寿命がすり減るようなことを楽しむなんて、とてもできそうにない。さすがはベテラン運行員だ。山本さんはいつものようにお茶を飲んでいる。私は水さえ、喉を通りそうにない。

 私は深呼吸して気持ちを落ち着ける。

 さっき自分で、心晴こはるとあなたたちなら出来ると言ったのに、こんなにも心臓が早鐘を打つ。

 私はみんなを信じていないのか? そんなことはない。信じている。

 それでも不安なのは、私の経験が足りないから?

「あ」

 アスワンが声を上げた。

「来ました。風向に変化」

 その言葉と同時にコンソールにデータが送られてくる。連続した10秒平均風向。二十秒前は北北西。十秒前は北北東。

「ばらつきと違うと思う。有意な変化」

 次の十秒平均風向が来る。北。

 それまでの平均風向は北西から北の間で変化していた。北を越えて東側から来ることは無かった。

 次の十秒。北北東。

 風が変わったのか? それともたまたまばらついているのか?

 風の変化を待ちわびていたが、あまり早くステーを動かしても、逆に北北西の風に対して裏を打つことになる。

「運行長、どうする?」

 十三段が内線電話を手に聞いてくる。操帆課の番号が押してあるのだろう。私がうんと言えば、ステー操作開始の指示が飛ぶ。

 次の十秒。北。

 待って様子を見れば確度は高くなる。しかし、遅れればその分リスクとエネルギーロスも大きくなる。何のために風車で風向データを取っているのか分からない。迷うためではない。

 私は息をつき、つばを飲み込んだ。決めるのは私だ。

「やりましょう」

 ぞくりと背中がに電気が走った。そして勢いのまま、言葉を続ける。

「風は変わった。衝撃吸収装置を無効に。ステー操作開始! 帆に風を受けて前進!」

「了解。操帆課に指示する」

 十三段はすぐさま電話をかけ始めた。

 風向データを確認する。北東の風だ。完全に風向が変わり始めている。ステーはまもなく動き始める。心晴こはるの足が戻る。

 サクルーサルブまでの距離は2.5㎞。数時間で追い抜けるはずだ。風よ、どうかそれまでもってくれ。

「……ずいぶんと都合のいい神頼みね」

 吹くなと思ったり、吹けと思ったり。本当に自然はままならない。試験は何度も繰り返して分かっているつもりだったが、実際に運用してみてようやく理解できた。

 通常ならこんなギリギリの操帆は必要ないと思っていた。しかし、もし隕石が降ってきたら、今日のように風を少しでも受けて逃げなければならないなら、今回のような事態もありうる。色々な障害が起きるだろう。躯体や脚が損傷することさえ起こりうる。

 レームントもきっと必死で逃げたのだ。レームントが悪いわけじゃない。運行員のせいでもない。ただ、レームントでは逃げきれなかったというだけだ。

 心晴こはるをもっと速く走らせねばならない。敵はニューインドでもニューアメリカでもない。全ての自然環境が相手だ。砂嵐程度でまごついてなどいられない。

 ステーが動き、帆の角度が北東に向いてきた。推力が上がってくる。3%、4%……11%。時速44kmまで増速。これで、ニューインドを追い抜ける。

 逆風でこそ、帆は前に進む。人類は移動都市とともに、艱難辛苦を乗り越えていくのだ。


 二十八日目。十一時。

 ゴールとなる指標都市が見えてきた。バーツペルム。ニューイングランド所属の移動都市だ。あと500mで心晴こはるは指標圏内に入り、それでゴールだ。

 既にニューアメリカ、ニューアジア、ニュードイツ、ニューイングランドはゴールしている。指標都市の向こうに停止し、各自祝賀会をやっている。もう負荷対応試験は必要ないが、審査団も残って一緒に騒いでいる。

 これを隕石で狙われたら一網打尽だな、と不穏なことを考えてしまう。しかし隕石予報はないし、レース中は特に連邦軍が目を光らせている。心配はない。

 ニューインドは八分後方で、ニューブラジルは更に十一分後方だ。走行順で勝ち、持続可能技術点でも計算上は勝っている。ようやく勝利が確定する。

「ようやくですね、山本さん」

 山本さんは私物のスマホを見ていた。映っているのは家族写真だ。単身赴任で来ており、半年以上家族に会えていない。レースが終わればようやく戻れるのだ

「ああ、すいません。仕事中に」

「いいじゃないですか。もうあと……五分もかからない」

「そうですね。二十八日。終わってみればあっという間だった」

「はい。トラブルもありましたが……」

 ゾンデのデータ欠測については予想通り砂嵐が原因だった。砂嵐が収まるとデータも復活した。アスワンは欠測時のデータとレース中に予測した結果を比較し、新たに予測システムを開発中だ。いいサンプルになった、とのことだった。

「躯体にも脚部にも損傷が出なくてよかったです。いい慣らし運転になりました」

「帆も壊れなくて良かったですな。帆推進システム……こう言っては何だが、最初はあまり信頼していませんでしたよ。過去にも突飛な新開発の機構はありましたが、大体一回造って終りだった。ついにうちの国も変なものを造るようになったかと」

「そんなこと思ってたんですか? ひどいなー。私開発者ですよ。傷つくなー」

「何言ってる。大学の時だってさんざ言われても一向にめげなかったお前が、その程度で傷つくわけねーだろ」

 十三段が茶々を入れてくる。こういう時同期なのはむかつく。

「大学でも? ぜひ聞いてみたいですね。どんなだったか」

「いいですよ。逸話がはたくさんありますからね。例えば――」

「仕事中ですよ! ちゃんと仕事してください!」

「はいはい。どうせ打ち上げで暴露されるからな。首を洗って待っていろ」

「うるさい」

 などと言っている間に、あと200mだ。

「運行長、カウントダウンを」

 十三段から指標時計とマイクを渡される。時計には指標都市との距離が1m単位で表示され、隣にゴールまでの予想時間が出ている。あと十八秒。指標都市は目の前だ。

「カウントダウンを開始します」

 放送で都市全体に私の声が響く。

「十、九、八、七、六、五、四、三、二、一」

 指標都市から赤い煙弾が打ちあがる。そして、心晴こはるのメインデッキから花火が打ちあがる。

「ゴールしました。記録は二十七日と十一時九分三十七秒。皆さんのおかげで無事完走できました。ありがとうございました」

 ブリッジクルーのみんなが拍手してくれる。祝福されるべきなのは私ではない。みんなと、心晴こはるだ。

 移動都市レースがようやく終わった。疲れた。人生で一番疲れた。でも、これでようやく始まったのだ。

 今回のデータをもとに帆推進システムを改良しなければならない。マストの挙動と都市の動揺も抑えなければ。操帆ももっと早く動かせるようにしなければ。やるべきことはいくらでもある。

 ようやく一歩だ。私の人生も、心晴こはるも。

 私は進み始めたばかり。心晴こはると同じように、帆を張って進まなければならない。困難が待ち受けていても、乗り越えなければならない。逆風の時こそ、前に進む。

 世界最速の移動を都市を造る。それが、私の夢だ。

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逆風の移動都市 登美川ステファニイ @ulbak

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