第30話 将軍の帰路
日が落ちかかっていた。
蒼馬たちが小田原城内部へと進入を果たそうとしていたその頃――。
御府内とは打って変わって
それというのも数刻前、将軍秀忠がわずかばかりの供を連れて、先に江戸に向けて発ってしまったからだった――。
当初行列はこの十九日の晩は宇都宮で一泊、ついで翌日には古河、翌々日には
訪問者があった。
秀忠の義姉、
すると秀忠をはじめとする幕府の重役たちが本陣へ引っ込んでしまった。しばらくすると
使役は戦時にあっては軍陣の間を伝令する役目にあり、武将たちの戦場での働きを監察する。けれど平時にあっては将軍の命令を伝達することがもっぱらだ。
この時もその通り、将軍の意思を伝えるため街道を先行していったのだった。
「この道を通り江戸へ帰還するぞ」
その意思を各宿場に伝えるために。
そうして替え馬の用意や軽食の準備を急ぎ申しつけ、旅人や駄馬の通行に規制をかけると、その働きを受けていよいよ秀忠が今市を発ったのだった――。
しかし肝心の理由が分からない。だから残された多くの者たちが困惑していた。それでも
そんな状況を知ってか知らずか。
秀忠とその近習たちは背後の喧騒を撒くようにして日光西街道をひたすら南下していた。初めこそ輿を使っていたがすでに馬に乗り換えていた。もうじき
それにしても薄暗がりの街道とは不気味なものだ。農村を抜け、林道へ入れば道幅は狭く、足場も良くはなくなった。切り立った斜面を覆う杉の木は昼こそは涼しい木陰を提供するが、夕暮れ時ともなれば影を濃くして通行者に名状し難い圧をかける。思いがけず使うことになった道だけあって整備は不十分だ。
馬に乗り換えたとはいえ、これよりさらに暗さを増す道を早駆けするのは危険。そこで一行は田園が開けるまではと走るのを止めていた。
張り詰めた空気と澄んだ山間の空気。それが
静寂を裂いたのは一発の銃声だった。鳥たちが忙しなく飛び去った。
「先の銃声は何処からだ」
近習たちは秀忠の馬の周りを固める。数人が近辺を確認しに行った。
するとまた一発。今度は近い。馬が驚いたようにいなないた。口取りがなだめる。
呻き声があった。秀忠が振り返れば近習の一人が馬上から転げ落ちた。
「何事だ」
続いて数発。完全に狙われている。しかしどこから撃っているのか見当がつかない。けれども林の奥から何者かがたしかに狙っている。
「
近習の一人が声を張り上げるも返事はない。坊主頭の大男が六人ばかり、うつろな視線を向けていた。その肉体からはどす黒い靄のようなものが立ち上っている。
「……その姿、まさか」
彼らの姿を見た秀忠は呆ける。
「上様をお守りしろ!」
近習の一人が叫ぶと、抜刀して前方に散開した。残った数人が秀忠の乗る馬の左右を固めつつ先を急ごうと前へ直る。
けれどすでに退路は断たれていたのだった。
行く手をさらに数人が塞いでいた。夕日にちらりと光ったのは空洞を持つ鉄の塊。
「上様ァ!」
放たれた銃声か。吹き荒れた風のせいか。
近習衆の叫びは一瞬にしてかき消えた。
土煙が流れる。
秋風に撫でられるすすき穂のように美しい銀糸が一行の前になびく。
「そのほうはっ――」
破れた菅笠が馬の足元を転がり去る。
「……風の守人。推参いたしました」
「おお、よくぞ参った!」
秀忠は感激の声を上げた。白髪の使者は賊を牽制しつつ言った。
「これより先は安全を確保してございます。お急ぎ下さいませ。賊は私が相手をいたします」
「だがそち一人では」
「思いがけない事態であったとはいえ、急襲を許したのは手前の落ち度に他なりません。この不始末に
「なれどっ」
「恐れながら。ご事情は後ほどうかがいたく存じます。只今は時がございません。相手方は悪鬼に憑かれております。お任せください。それに――」
白髪の使者はしなやかに笑んだ。
「私は一人ではございません。ご安心くださいませ」
坊主どもが次々と地面に伏していく。まるでなにかに踏みつけられるようにして。
「……かたじけない」
負傷した部下が馬に担がれるのを認めると、秀忠たちはその場を駆け出した。
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