第29話 猫の手も借りたい

「……やっぱり返事がない」


 蒼馬はお面を外すとその場にしゃがみ込んだ。


「どういうことだい」


 舞いを終えた蒼馬の側に眞海が寄る。


大亀おおがめに化身なされた松原明神様がこの池にいらっしゃった気配はあるんだ。けれど非常にわずかな気配だよ。もしかしたら……かどわかされたのかもしれない」


「かどわかすって。土地神様をかい? 相当な力があればやってのけることは出来るかもしれないが、妖にそんな知恵が回るとは思えないがねえ」


 蒼馬は苔むした池を覗き込むのを止めると、境内を見渡す。


「僕だってこんなことは初めてだよ。頑固のために返事をくれない土地神様もいるけれど、今回は本当に反応らしいものがなにもないんだ」


 反閇へんばいは守人にとってはその土地における戦闘、浄化を行う許しを得るための大切な儀式だ。しかしそれを披露したい神様がそこにいないのではどうしようもなかった。


 ――今より80年ほど昔、小田原の海岸に現れた一匹の大亀。その姿を発見した当時の領民がこの神社の池へと持ち帰って以降、亀は人々に多くの奇跡をもたらした。その噂を聞いた時の小田原城主、北条氏康も吉兆としてこの社を参詣している。そしてその効果ともいうのか、関東管領上杉軍八万の兵をわずか八千の兵で一夜にして打ち破ってみせたのだった。この《河越城の戦い》は現在も日本三大奇襲の一つに数えられているほどに劇的な勝ち戦だった。

 亀はその後大海へと解き放たれたらしいが、こうした数々の奇跡をもたらしたことから人々の大亀信仰はこの地にしかと根付き、やがて一柱の神を生み出すに至ったのだ。


「土地神様がいらっしゃらないとは……これはまた思いがけない事態だね」


 次々と浮上する問題に眞海も苦笑いを浮かべるしかない。


「とにかく御府内に入ってからひどい臭気だ。これじゃあ僕にも土地神様の気配を探り当てるのは難しいからね。に頼むとするよ」


 そう言って蒼馬は宙を複雑に切る。その手に巻かれた数珠の親玉がカアッと光った。すると二人の足元に無数の梵字が連なり円陣を敷いた。


「んにゃおおぉう!」


 地面の揺れとともに獣の甲高い叫びが上がる。


「ご主人たまあ。呼んだですかあ?」


 ぎょろり、ぎょろりと翡翠ひすいの宝玉のような目玉が蒼馬たちを見下ろす。

 

 円陣から現れたのは巨大な猫だった。親指の先に味噌をつけて、ちょい、ちょいと目の上に押し当てたような見事な麻呂眉まろまゆの持ち主。その上、同じく味噌色の尾は二つに割れている。――猫又ねこまただ。


 猫又は大きな尻を持ち上げると欠伸をかました。ぐわあと大きく開いた口のために首に巻いた縮緬ちりめんの丸ぐけは肉に埋もれ、そこについた二つの鈴が苦しそうに擦れた音を出した。


又兵衛またべえ。仕事だよ」


「にゃんだろう」


「今から僕たちと一緒にこの土地の主を探すよ」


 又兵衛は伸びを終えると池の水面に鼻先を寄せてふんふんと嗅ぎだした。匂いを辿るように境内の出口に向かって低く這い出した。


「ご主人たまあ。あちらに匂いが続いておりますう!」


「やっぱりか。反閇によって多少浄化は出来たけど城の方角から暗雲が退かない。やつらが湧いているのもお城なら、土地神様もまたそこに囚われているようだね」


 蒼馬が言うと、又兵衛は大きな目からパチパチと星屑でも散らすようにして瞬きした。


「今だってくちゃいのに。あんな所に行ったら僕のお鼻、取れちゃいますう!」


 いやいやと天に放ったあごを左右に振る。


「又兵衛。お前に拒否権なんてあったのかい?」


 蒼馬はじりじりと又兵衛に詰め寄ると、軽く跳ねて長いヒゲを数本掴んでみせた。それを下に引っ張り、引っ張り、空いた方の手の平で顎を撫でる。


「分かったよね。……ねえ?」


 又兵衛の固い沈黙が柔らかな喉音へとすり代わった。


「ははは! 又兵衛。君はいつだって主人に頭が上がらないねえ」


 眞海が面白そうに声をかける。すると又兵衛は薄目を開けて、


「眞海たん。ぽんぽん、すりすりやってくれてもいいですよ」


 そう催促する。


「そうかい。これがいいのかな」

 

 眞海が又兵衛の腹を擦れば、喉音は茹った鍋のようにいっそうぐつぐつ言い出した。


「ふふ。本当に立派に支配が出来ているねえ」


 たしかに猫は水を恐れる習性があるが、蒼馬と又兵衛の関係をよく表していた。主人と使妖の関係とは本来はかくあるべきだ。

 するとすっかりご機嫌になった又兵衛は二人を見下ろしてにんまり笑う。


「それじゃあ、そろそろ行きますう?」


「ああ。我々の到着に合わせて城の周りから最終的な警備も引いた。速やかに城内に潜入して騒ぎの元を討ち、土地神様をお救いしよう」


「はいよ」

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