14



 ーー即身成仏と明 王の。繋縛にかけて。責めかけ責めかけ。祈り伏せにけりさて懲りよ。


 立花さんの声が響く。


「朋香、いるの?」

 おばあちゃんの声がした。

 嵐の中、影のようなおばちゃんが立っているのが朋香には見えた。雨が

朋香の顔を叩く。

「おばあちゃん!」

 朋香が大声で呼んだ。

「朋香、そこにいるのね」

 そう叫ぶおばあちゃんの姿が徐々にはっきり見えてくる。それに従って、黒い影もはっきりしてきた。この黒い影は、あの時見た影だと朋香は思った。

 黒い影の着けている能衣装もどんどん鮮明になってくる。銀色に輝く鱗模様の着物。嵐に舞う乱れた銀髪。面は、般若。


「鬼が、佑慶さんを食べちゃう」


 朋香の絶叫に、おばあちゃんは鬼女に向き合った。

「あなた……」

 おばあちゃんは、鬼女に話しかけた。

「何をしてるか分かっているの?」


「お前の出る幕ではない。さがれ」

 ぐったり力の抜けた佑慶の襟首をつかんで、前へつきだした。


「あなたは、分かっているのでしょう。人間を食べちゃだめだということを、一番わかっているのはあなたでしょう」

「さがれ! さがれ! さがれ!」

 鬼女は、がっしりつかんだ佑慶と鉄条をふりまわした。


「思い出して。最後にあなたは誰を食べたのか、思い出して!」

「だれを?」

 鬼女はふっと後退り、思わず佑慶から手を離した。

 佑慶は素早く鬼女との距離を取り、数珠を揉む。

「最後に食らうたのは……」

 鬼女がつぶやいた。

「最後に食らうたのは……」

 鬼女は、がくっとひざをつき、手で顔を隠して泣き始めた。


 と、鬼女と佑慶が立っているところが、山中の嵐の中から能舞台に見る見る変わっていった。あの嵐がどこへ消えたのか、舞台の上は静かだった。舞台に描かれた松の木が凛としている。


 鬼女が謡う。


 ーー今まではさしもげに


 立花さんが謡う。


 ーー今までハさしもげに。怒をなしつる。鬼女なるが。忽ちによわり果てゝ。天地に身を約め眼くらみて。足もとは。よろよろと。たゞよひ廻る。安達が原の。黒塚に隠れ棲みしも浅まになりぬ。浅ましや恥づかしの我が姿やと。言ふ聲ハなほ。物凄じく。言ふ声声ハなほ凄じき夜嵐の音に。立ちまぎれ失せにけり夜嵐の音に失せにけり


舞台の上の鬼女と佑慶は、足音もなく進み行き、橋掛りをわたる。五色の揚ゲ幕がさっと上がり、二人を静かに飲み込んだ。

 

 いつの間にか能舞台は消え去り、立花さんのお稽古場に変わっていた。隅の方におばあちゃんと佑慶が倒れていた。


「おばあちゃん」

 朋香は、おばあちゃんに駆け寄った。


 立花さんは、佑慶を抱き起こしていた。


「おばあちゃん」

 朋香は、もう一度おばあちゃんの肩をゆすった。

「うーん」

 おばあちゃんは、少し目を開けた。その目はもう金色に光っていなかった。


 佑慶も起き上がって「どうしたの?」と立花さんに聞いていた。

「終わったよ」

 立花さんはやさしくいった。

「お前の中に、やはり佑慶が逃げていたんだ。鬼女はずっと佑慶をさがしていたそうだ。お前の中から佑慶が出て行ったよ。何か変わったことはないか?」

「ぼくの中にずっといた佑慶がでていったっていうの?」

「そうだ。変わったことは、ないか?」

 立花さんにそういわれ、佑慶は首をくるくる回したり、顔を両手でたたいたりした。

「何も変わったことはないみたい」

「そうか。よかった」

 立花さんは、やさしい顔で佑慶を見ていた。


「おばあちゃん、大丈夫?」

「ええ、大丈夫よ。みんなどうしたの?」

「何もかも終わりました」

 立花さんがいった。

「終わったって……。あなた、どなた?」

 おばあちゃんが聞いた。

「佑慶の父です」

「佑慶さんて?」

 おばあちゃんが朋香に聞いた。

「おばあちゃん、佑慶さんは有ちゃんの学校の学生さんよ。お父さんは、能楽師の方なの。ここは、佑慶さんの家よ」

「まあ、有ちゃんの教え子さん? それに、能楽師の方? ま、どうしましょう。こんな格好で……。お恥ずかしい」

 おばあちゃんは、着物の襟を合わせなおすふりをしていた。

「いえ、いえ」

 立花さんは、ゆっくり笑った。

「何がどうなってるのかわからないわ。確か、夢を見ていたような……」

「夢だったのかもしれません」

 立花さんがいった。

「そうですか……、でも、もう一度朋香に会えてうれしいわ。夢の中でもう二度と朋香に会えないような気がしてたの」

 おばあちゃんは泣き顔で、朋香に笑いかけた。


「あ、有ちゃんが心配だわ。早く帰らなくっちゃ」

「有二がどうしたの?」

「いいから、早く」

「自動車を出すよ。乗って」

 佑慶さんが走り出した。


 おばあちゃんの家について、有二を探した。有二は、キッチンでぼんやりテーブルの前に座っていた。

「もう、食べられないよ」

 有二はおばあちゃんの顔を見るなりそうつぶやいた。

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