13



 稽古場を出ようとした時、佑慶のおかあさんから「お客様です」とふすまの外から声を掛けられた。


 朋香達三人は、顔を見合わせた。


 ふすまがさっと開けられた。そこに立っていたのは朋香のおばあちゃんだった。


 おばあちゃんは能楽堂に行く時のように、きりっと夏物の白い着物を着ていた。音もなく部屋に入り、後ろ手にふすまを閉めた。照明の加減かサングラスの中で目が金色に光っているのが見えた。


「あなたは、おばあちゃんじゃない」

 朋香は叫びながら、佑慶の後ろに隠れた。佑慶の前には、立花さんが座っていた。


「やっと会えましたね。ユウケイ」

 おばあちゃんが佑慶にいった。


 目をギュッと閉じ、佑慶はゴクリとのどを鳴らした。


「あなたは、どちらさまですか?」

 おばあちゃんは立花さんの方に顔をむけてたずねた。


「私は、この佑慶の父です」

「ユウケイには、父親などおりません」

「お話しはゆっくりいたしましょう、まずはどうぞ、お座りください」

 立花さんがおばあちゃんにいった。


 おばあちゃんはお稽古場の真ん中に静かに座った。


「それで、何のご用でいらっしゃったのですか?」

 立花さんが聞いた。


 おばあちゃんは何もいわなかった。


「『泥眼』ですか?」

 立花さんがおばあちゃんを見据えて聞いた。

「なんと……」

 おばあちゃんは不意を突かれたように、きっと立花をにらみつけた。

「哀れですね。能楽の面で『泥眼』とは、成仏しきれない妖しい生霊に使います。眼に金泥を塗っているから、そう呼ぶのでしょう」

「なんと……、成仏しきれない生霊とな?」

 おばあちゃんの声が震えた。

「お帰りなされ、本の中に」

 立花さんの声が一段と大きくなった。


 おばあちゃんは背筋を伸ばし、サングラスを取って佑慶を金色の目でギロッとにらみつけた。


 ーー旅の衣は篠懸の。


 突然、立花さんの謡の声が朗々と響いた。


「やめろ。そんなことをしても、私は怯んだりはしない」

 おばあちゃんが立花さんをにらみつけて、凄んだ声を出した。


 立花さんは、目を閉じ静かに謡い続けた。頭の中に湧いて出てくる言葉を丁寧に拾い上げていく。


 謡が止むことがないことがわかると、おばあちゃんは佑慶の方に向き直った。

「ユウケイ、なぜ、逃げた?」

 突然激しく問われた佑慶は、びっくりしてひざをくずし、しりもちをついた。

「ぼぼぼくは……」

 佑慶は、這って逃げようとした。


「まだ、勝負はついておらん」


 朋香がぼうぜんとしておばあちゃんを見ていると、立花さんが急に朋香の手を引いた。朋香は立花さんの背中に隠れた。肩口から、おばあちゃんと佑慶を見る。


 おばあちゃんが立ち上がり、佑慶の肩をガチッとつかんで引き寄せた。

 佑慶は「ぎゃー」と叫んで足をばたばたさせ、逃げようとしていた。


「なぜ逃げた?」

 おばあちゃんは、もう一度ギッと佑慶をにらんだ。


「た、助けて!」

 佑慶は、ポケットを探って数珠を取り出した。おばあちゃんに突きつける。


「ギャッ」

 おばあちゃんは、飛び退った。


「逃げてはいない」

 突然、佑慶は立ち上がり眼鏡を外し、野太く強い声で叫んだ。


「おお、佑慶。やはりそこにおったのか」

 おばあちゃんの顔がふっと笑顔になった。そして、急に力が抜けたようにがくっとひざをついた。


「お前達の求めをこばみ続けておりました」

 おばあちゃんの声が細く変わった。

「いつの間にか身にとりついたおぞましい嗜好。仏道を行する修験者に浅ましい姿をさらさないかと恐怖だったからです。それでも、私はお前達を受け入れた。私はおろかでした。糸繰り車を使って見せろという頼みも聞き入れ使っても見せました。夜も更け、寒さも厳しくなるにしたがい、少しでも暖かく過ごしていただこうと薪も取りに行きました。なのに……」

 おばあちゃんは、目を床に落とした。


「何をいう。何人の人を食らうた。己に哀れを感じるとは、笑止」

 佑慶が一歩踏み出し、もう一度、数珠をおばあちゃんに突きつけた。


「なぜに、閨をのぞいた……」

 おばあちゃんの声は、消え入りそうだった。

「のぞかなければ、我々は食われた」

「浅ましい人の心よな。恨みに思います」


ーー胸を焦がす炎。咸陽宮の煙。紛々たり


 おばあちゃんが謡う。


 続いて立花さんの声が響く。


ーー野風山風吹き落ちて。鳴神稲妻天地に満ちて。室かき曇る雨の夜の。


 突然、部屋の中が山中に変わった。真っ暗闇の空の中を稲光が縦に横に走る。風が吹き荒れ、冷たい雨が木の葉や木の枝といっしょに朋香達を痛いぐらいにたたく。


 朋香は、立花さんの背中にぴたりとくっついて、目だけでおばあちゃんと佑慶を追った。


「お前を食ろう」

 おばあちゃんが佑慶に歩み寄る。いつの間にか手にしていた鉄杖を振り上げ、振り下ろす。時々光る稲光の中に見るおばあちゃんの顔が、鬼のように見えた。


 佑慶の大きな声が響いた。


ーー東方に降三世明王。南方の軍荼利夜叉 明王。西方に大威徳明王。北方に 金剛夜叉明王。中央に大日大聖不動明王


 数珠を揉みたて揉みたて、おばあちゃんに向かう。


 ひらりと、おばあちゃんは松の木の枝に乗り移り姿を消した。姿を見失った佑慶は上に下にその姿を探す。

 突如、おばあちゃんは松の枝から飛び降り佑慶の目の前に姿を現した。

 怯んだ佑慶に鉄条振り下ろす。


 佑慶が後退さった。


「またもや、逃げるか」

「逃げはせん」

 数珠を向けながら佑慶が答える。


「あの日、なぜに逃げた。なぜ逃げた」

 おばあちゃんは、数珠なぞ気にもとめず、鉄条を振り下ろしながら佑慶に詰め寄った。


 佑慶は、数珠をおろしてしまった。

「あの日、あの日……。あの日始めて、私は恐れを感じた」

「感じた?」

「お前は、本当に私を食らおうとしていた。私は恐ろしかった。お前の目の届かないどこかに身を隠したかった。あの日、能楽師の心に私は隠れた。あの能楽師は何やら急いでいた。出て行くきっかけがつかぬまま私はついていった。そこにはみんなから守られている生まれたての男の子がいた。私は、きっとその男の子の中は安心だと思った。そして、思わずその男の子の中に隠れた。お前が、恐ろしかった」

「なんと……。その間、私がどれだけお前をさがしたか……。お前にその心がわかるか?」


 佑慶は、はっと顔を上げおばあちゃんお顔をじっとみつめた。


 おばあちゃんの手が佑慶の肩に掛かった。

「もう、最後じゃ。お前を食らおう」

 佑慶の顔は真っ白になっていた。おばあちゃんは本気で佑慶の喉に食らいつこうとしていた。


 朋香は、そんなおばあちゃんは見たくなかった。心は鬼に変わっていてもおばあちゃんの姿は、おばあちゃんだった。


「おばあちゃん、やめて!」

 思わず、大声で朋香は叫んでいた。

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