狡兎死なずとも

「おいっ俺のパンツ返せ!」


「ばぁか、こんな可愛いクマちゃんパンツ履いてる男がどこにいんだよ?男は黙って白ブリーフだろ!」


「はぁ?パンツなんて何でもいいだろ!

……あ、おい待てやめろ投げんじゃねぇくそフルーツ!」



そんな会話が上から聞こえてきた数秒後、歩いていた僕の頭にパサァっと軽快な音を立ててクマちゃんパンツとやらが降りかかる。鳩のフンのことを隠語として空からの贈り物なんて言うけれど、どちらかというとそれは海みたいな、爽やかな香りがした。


僕は人生で2度、逃げ出したことがある。高峰くんと初めて出会ったのは、その2度目の、気が滅入りそうなぐらい暑い夏のことだった。















「行ってきます」


「分かってるでしょうけど、くれぐれも失礼のないように。機嫌を損ねないこと」


「はい。……あの、今日、猛暑日らしいです」


「だから?」


「半袖に着替えてもいいですか」


母さんは読んでいた雑誌から目を離さないまま、僕に似てるその顔を微かに歪め口を開いた。


「あなたの白い肌は何の為に維持しているの?あなたは今から何をしに行くの?思い出しなさい」


エアコンの効いた涼しい室内にいるというのに、外の灼熱を考えるだけで額に汗が滲む。僕は、「はい」と答える。それから、僕にできる最大の皮肉を込めて付け加えた。


「はい。僕は、春を売るために、です」


母さんはようやく僕を一瞥して、馬鹿にしたような含み笑いをする。この仕草さえも僕にそっくりで、本気で嫌になってくる。僕は重い足取りで、実際に重厚な扉を開けた。


「汗は拭いていきなさい。汚らしい」


「……行ってきます」


外は想像とは違い、ちょうど太陽が雲に隠れていて、灼熱というより蒸し風呂のような暑さだった。脱兎、僕は走らずとも遠くへ行こうと思った。きっとそれは叶わないけど、どうにも、春を売るには暑すぎる。







僕の祖父は賢い人で、由緒ある家柄の元に生まれ、はなから成功者へのレールが敷かれていたにも関わらず、自力で起業して成功している。無論、家の名を出すと多少の忖度は生じただろうけど、それでも偉大な人には変わりない。祖父は家の名に恥じぬ功績を残したのだ。


しかし祖父は賢い人と言えど仕事人間で、普通の親子のように父と関わることはまずなかったらしい。それが理由なのかは知らないが、父はそれは倫理や道徳心などといった、常人であれば持ち合わせている感覚が欠落していた。

勉強ができる、という点では間違えなく頭が良く、難関大学を卒業、院に進んで博士号まで取得している。タチの悪いことに父は善良の仮面を被る術にも長けていて、祖父から会社を受け継ぎ社長というご立派な役職を手にした。偶然なのかあえて選んだのか、ついでに配偶者も同じような倫理観を持っている人だった。つまり僕からすると持っていないということになるのだけれど。

そんな2人の間に生まれた僕は、まぁ言うまでもなく順調に、捻くれて育っていったわけだ。


僕が6歳の誕生日を迎えた頃、父の会社は見事に倒れかかっていた。原因は様々だが、1つ明白なのはやはり父の非人道的な感性のおかげ、ということだった。利益さえあれば多少の悪は揉み消せる、と父はよく豪語していた。実際その通りだが、経営が立ち行かなくなったということは、その"多少"の域を超えてしまったわけだ。

更に父の会社はそれなりに有名で、父のおかげで七原家全体のイメージが低落し、一族に助けを求めることもできなくなっていた。どうにかして持ち直そうと両親が色んなツテを辿った結果、"春美さん"という人物に行き着いた。


「変わった名前ね」


「悪趣味な名前だ」


両親は口を揃えてそう言った。それから気味悪そうに6歳の僕を見下げた。


「春美さんって確か、この子の名前を提案した人よ」


「そうだったか?じゃあ、その時から目をつけていたわけだ。丁度よかったな」


「そうね。お似合いだもの」


「……お似合い?この子と春美さんが?」


「えぇ。だって、まるでこのために生まれてきたみたいでしょう」


母の発言に、父は首を傾げて少し考える素振りをした。何を思っていたのかは知らないが、踏みとどまるにはもう、父は歳を重ねすぎていた。結局、両親は僕を春美さんに売った。


春美さんは僕と血の繋がりはない、遠い親戚だ。お金の源は知らないが桁違いの富豪で、マンションもいくつか所有している。一人息子がいるが、既に離婚し、長らく会ってないらしい。春美さんは小児性犯罪の前科がある。結婚して数年で発覚し、とんでもない騒ぎになったとか。

もう一度言おう、その春美さんに、僕は僕の、春を売った。それが何を意味するのか、いくら察しの悪い恋する乙女でも、流石に分かるだろう。


















「やっべぇ!ごめん、高峰のパンツ、下歩いてた人に被っちまってるっ」


プールのフェンスから何人か乗り出して慌てたように僕の方を見ている。3階ぐらいの高さの、中学校のプールにしては珍しい本格的なつくりをしていた。最も今は高峰という人物のパンツで視界は遮られているのだけれど。

僕はしばらくフリーズした後、ゆっくりとそれをつまみ頭から取り除くと、予想よりも可愛らしいクマと目が合った。


「女の子みたい」


「どう考えても男だろうが」


恐らく高峰という人物が腰にバスタオルを巻いた姿で表れ、そう呟いた僕にぶっきらぼうなツッコミを入れた。初対面でパンツを被せた上、一歩間違えれば露出狂と言われても仕方がない格好をしているくせにどうしてこんなにふてぶてしい態度が取れるんだろうと首を傾げた。


「何か言うことは?」


「……拾ってくれてどうも」


「拾う?拾うって言葉の意味知ってます?」


「悪かったよ、つか俺も被害者なんだけどな」


「知らないです。いきなり視界がパンツで埋まった人の気持ち考えたことあります?」


「ねぇけど。じゃあ、お詫びにこれやるよ」


「……使用済みハンカチなんていりません」


「でもこれ使ったの1回だけなんだよ。親父の形見だし」


「はい?」


「だから、ダジャレ好きの、俺の親父の形見」


「……ダジャレ好きのお父さん、嫌いだったんですか?」


「別に。親父、銀行強盗の人質になって、パニックになって犯人から銃を奪ったおじさんの誤発砲で死んだんだよ。俺その時車で待ってて、ジュース溢してた。これ、その日親父に買ってもらったばっかでさ、いや欲しいって言ったわけじゃねぇんだけど、1個ぐらい持っとけってうるさく言われたやつ。それで溢したジュース拭きながら、戻ってきたら怒られるな、めんどくせぇなって思ってた。思ってたら、死んで戻ってこなかった」


初対面で引くほど(というか僕は普通に引いた)ベラベラ話すこの人物に、どこか僕に似た、欠落した何かがあるように感じた。


「……それ、僕のせいかもしれないですね」


「はぁ?お前銀行強盗なのか」


「いえ。名前、七原っていうんですけど、僕、死ぬほど運が良いんです」


「だからなんだよ」


「あなたのお父さんの運、僕が吸い取っちゃったのかも。死ぬほど運が悪くて本当に死んじゃうって、馬鹿みたいですよねぇ」


「……馬鹿って、そんな」


「あは。だって会って数秒で知らないおじさんが死んだ話されても、同情する演技なんてできないですよ」


「んな言い方するか、普通」


「試すようなことしたあなたに言われたくないですね。もしかして、これがあなたのコミュニケーション術だったりします?だったら多分、相当嫌われてると思いますよ」


僕が捲し立てるようにそう言うと、彼は大きな目を更に丸くしてポリポリと後ろ手に頭を掻きながら、僕が今まで見たことのない類の表情を浮かべた。何というか、叱られた子犬のような、愛おしいとしか言いようのない感情が僕の体内を埋め尽くしたのだ。


「……確かに、いきなり親父の話したのは俺が悪りぃな。なんつうか、つい最近でさ、みんな俺の親父の話腫れ物みたいに扱って触れてこねぇから、誰かに聞いてもらいたかっただけなんだよ、ごめんな」


「……いえ。僕も少しイライラしてて、余計なことを言いました。ごめんなさい。これは、お返ししますね」


「いや、それはまじでやるよ」


「え、どうしてですか?形見なんでしょう」


「これ、不幸の象徴みてぇなもんだし、お前が死ぬほど幸運ならちょうどよく吸い取ってくれそうだろ」


「そんな理由で、貰えませんよ」


「それに、死ぬほど幸運で、本当に死んだらそれこそ馬鹿みたいだろ」


皮肉かと思ったけど、どうやら本気で言っているらしい。そんなに言うなら、と渋々ハンカチを受け取った。人の形見を譲り受けるなんて、重いし面倒くさい。でも彼の手から受け取った時に、ふわりと爽やかな、パンツと同じ海の匂いがして、懐かしいような気分になった。海なんて、まともに行ったこともないのに。


「あと、汗拭けよ」


「……あぁ、垂れてました?ごめんなさい、汚いもの見せてしまって」


「は?別に汚くねぇよ。普通に、拭かねぇままだと冷えて風邪引くだろ」


「今真夏ですけど」


「お前、汗舐めてるだろ。真夏だろうが汗が冷えれば風邪引くんだよ、こんなもん恐竜の時代から決まってんだよ」


「……恐竜って汗かきませんけど」


「うるせぇ言葉の綾だ!」


怒鳴る彼を笑いつつ、貰ったばかりのハンカチで汗を拭った。汚いから、ではなく風邪を引くから、と僕のことを思った発言に心がむず痒くなった。多分、こんなちっぽけで些細なことも生まれて初めてだったから。


「まぁ僕は人間なので拭きますけど」


「大体、恐竜の時代に恐竜以外が存在してないってこともねぇだろうが……」


「そんなことより、名前、聞いてもいいですか」


「そんなことって言うな!……まぁいいけど俺、名前変わってんだよ」


「へぇ。どんな漢字ですか?」


「どんな感じ?どんな感じって、難しいな。なんか、飛び込み、みたいな」


「……はい?」


「あ、俺呼ばれてる。そういえば部活の途中だった。行くわ、じゃあな、色々悪かったな!」


彼は僕が返事をする間もなくそう言い残すと、クマちゃんパンツを受け取らぬまま脱兎の如く帰っていった。


残された僕は、彼が言った"飛び込み"の意味を考えてみる。名前で飛び込み?全然分からない。つい最近英語の授業の単語で出てきた、カワセミぐらいしか思い付かない。英語ではキングフィッシャーとかいう、やけにかっこいい名前を持つ鳥のことだ。

それはそうと、このまま僕がクマちゃんパンツを持っていくわけにはいかないので近くの木にでも吊るしておくことにした。そのせいで可愛かったクマの顔がだらしなく歪んで、睨みつけているような、少し不気味な表情になってしまった。慌てて戻ってくるであろう彼ともう1度話したいという名残もあったけれど、待っているのも違うか、と立ち去ろうとした時、ジジジジッと足元から耳障りな声が聞こえてきた。蝉が地面に這いつくばって、駄々をこねるように暴れている。俗に言う、セミファイナルだ。まだ生きていたいともがいているのか、早く死にたいと苦しんでるのか、僕には分かりかねたけど、僕とは正反対だとぼんやり思った。


セミに気を取られているうちに彼がドタドタと騒がしい音を立てて戻ってきてしまった。なぜか全身びしょびしょに濡れていて、バスタオルで隠している部分が透けそうで危うい。僕の手にパンツが握られていないのを認識すると彼はキョロキョロとあたりを見渡し、やがて木に吊るされた不気味なクマと目が合ったらしく、


「んなとこにかけてんじゃねぇ!」


と憤慨しながら叫んだ。彼がそれを取ろうと一歩前に踏み出した瞬間、恐らくバスタオルが原因でつんのめって、全身を投げ出す形で僕の足元近くに、うつ伏せの状態でずっこけた。彼はしばらくの間死んだように動かなかった。多分恥ずかしくて顔を上げられないのだろう。何と声をかけてあげたらいいのか考えていると、ジジジッと、さっきより勢いを無くした蝉が彼と僕の静寂の邪魔をした。もがく蝉と、地面に転がっている彼が重なって見えた。


「……カワセミファイナル?」


僕の呟きに、彼はパッと顔を上げた。訳がわからないという、眉をしかめながらもクイッと上げた、何とも愛らしい表情をしていた。僕は吊るしたパンツを取って、彼の眼前に突き出してあげた。


「どうぞ」


「……くれてどうも」


彼は心なしかしょんぼりと立ち上がり、女の子みたいにバスタオルで隠しながらパンツを履いた。


「名前、教えてくれますか」


ふんっと拗ねたような感じでまた戻ろうとした彼を呼び止めた。どうしても、知りたかった。彼は1度僕の問いかけを流し、階段の向こうに消えた。しかしすぐにひょっこりと顔を出し、一言、真っ直ぐに僕の目を射抜きながら口にした。


「エイシュン」


彼は、多分鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした僕を見かねて、もう一言付け足した。


「泳ぐ、瞬間」


僕は、なぜかは分からないけど、ふふっと小さく笑ってしまった。それから、なるほど、と納得した。確かに飛び込みは、泳ぐ瞬間だ。



これは僕が中学2年生の頃の話で、僕はこの時から今まで1秒たりとも"高峰泳瞬"という名前を忘れることはなかった。

狡兎、僕は待っている。それは高峰くんのとは同じに見えて全く違う種類の"待つ"だ。猟犬が訳もなく食い殺されるなんて妄想はやめ、か弱い兎が猟師のになることを自分で選んだのだ。僕がこの時高峰くんと出会わなければ、きっとまた逃げ出して猟師にさえを見出してしまうかもしれなかった。そう思うと、高峰くんのパンツを放り投げてくれた人物には感謝してもしきれない。いや、その前に高峰くんがクマちゃんパンツを履いていたことが運命的なのか。だとしたらそれを買ってきてくれた人物に感謝しなければ。それから高峰くんが中学2年生と言えどクマちゃんパンツを履くという感性に育ててくれた人物にも。それならもう、高峰くんをこの世に生み落としてくれたお母様にはどれほど感謝したらいいのだろう。


……まぁ、こんなことは言っていてもきりがない。閑話休題、僕が高校2年生という微妙な時期に転校してきたわけを話そうと思う。



僕は元々小中高一貫の私立の学園に通っていた。名家や政治家の子供がわんさかいて、エリート入門書に子供を通わせるべき学校という項目があったらえある第一位に輝いていることだろう。もはや定番すぎてつまらない?!なんてチープなふきだしつきで。まぁなんというか、本当にそういう、公立の学校とは一線を画したところだった。N学園とでもしておこう。

僕が高峰くんと出会う前、つまり中学2年生の夏までは特に成績が秀でているというわけでもなく、中の上、というぐらいだった。僕の両親はN学園のような私立によくある異常なまでの英才教育は僕に施さなかった。


「あなたに褒められた点があるとしたら生まれつきのその髪と肌の色と、私によく似ていることでしょうね」


母は僕の成績表を見るたびにこのようなことを言った。


「世の中に蔓延はびこっているクズに1番多いのが何か分かるか」


父は僕の顔を見かけるたびに僕に問いかけた。ここで言う"クズ"は成功しない人間のことだ。僕は父が次に何と言うか耳にタコができるぐらい聞いたから知っているのだけど、父が求めている通りの返事をする。


「いえ。分かりません」


「同じことを繰り返す人間と、何もかもが中途半端な人間だ」


僕は初めて聞いたかのような、かつ何か重大な学びを得たかのような間抜けな顔を作り、曖昧に頷く。するとお前のことを言ってるんだと言わんばかりの蔑んだ表情を浮かべた父が目に入る。


両親は元々、愛し合って結婚したわけではない。ただ都合が良いから籍を入れただけだ。結婚は人生において1つの選択に過ぎず、子どもなんて尚更、自分たちの手札が増えたぐらいにしか思っていないのだ。そんな両親に無償の愛を求めるなんてお門違いだし、貰おうなんて思ったことは1度もない。

異常なまでの英才教育は施されなかったと言ったが、それはある時を境にした話で、小学校に入る前はそれなりに色々とやらされた。ピアノやヴァイオリン、書道に華道、英会話や美しい日本語講座、プロが教えるマナー講座とかいう胡散臭いものからバレエまで習っていた時期もある。

両親は僕がそれらを好きか嫌いかなんてどうでもよく、自分たちに利益があるかを重視した。僕は感情や意思がほとんどと言っていいほどなく、(少なくとも両親の目にはそう映っていただろう)それはそれは効率の良い方法だったと思う。

しかし、好きこそ物の上手なれと言う通り、ずば抜けた才能を発掘することや特技は得られなかった。だって、僕は言われた通りにすればどうでもいいことでもある程度できたし、ある程度できれば講師はすごすごと帰って行く。あとはあなたの努力次第、なんて呪いみたいな言葉を残して。無論どうでもいいものの努力なんてするはずもなく、それっきりでおしまいになるのだった。


僕は小学校に入ってすぐ、桜が散りきる頃には春美さんのところへ通っていた。小児性愛者の春美さんが何歳までを対象と見ているのかは知らなかったが、中学生になると流石に終わるだろうと何となく考えていた。小学生のとって中学生は、それほど遠い存在だった。

しかしその考えは甘く、知っての通り、僕が中学2年生になっても学校帰りや休日、春美さんのところへ足を運んでいた。しかも、車で送迎してもらうことは春美さんが許可してくれず、わざわざ電車を2本乗り継いでラッキーマンションという嘘みたいにダサい名前のマンションに通わなければならなかった。1度その理由を聞くと舌舐めずりをしながら、自分の足で来なきゃ意味がない、とかなんとか気色の悪い返事をされた。

で、今僕が住んでいるのはそのラッキーマンションだ。


とりあえず僕は、あの日逃げるのをやめ、いつもの電車で春美さんの所へ向かった。玄関で遅刻したことをなじられながらも、僕は僕がこれからすべきことを頭の中で整理し組み立てていた。


「こんな時間になるまで、何してた」


「ごめんなさい。乗る電車を間違えてしまって」


「……その歳になって?」


「はい。うっかりしてました」


「どうして連絡しなかった」


「スマホの調子が悪くて、上手く繋がらなかったんです」


春美さんは僕の前髪を数本掴んだかと思うと、次の瞬間にはグンっと力いっぱい自分の元に引き寄せた。当然、掴むには少な過ぎたために、ブチっと鈍い音を立て僕の前髪は辺りにばら撒かれた。痛みで生理的な涙が滲む。


「ながはる、拾いなさい」


「……春美さん、僕は、」


「拾いなさい」


僕は玄関で這いつくばって、自分の白い髪の毛を探した。見えにくいことこの上ないが白でも黒でも差して変わらなかっただろう。別にいい、こんなことはどうでもいい。縋るものすらなかった僕はもう死んだのだ。


「……拾いました」


立ち上がって、拾い集めた白い髪の毛を両手で差し出す。春美さんはそれをじっくりと観察して、僕の頭を今度は弱々しく撫でてから僕を抱き締めて、言った。


「可哀想に」


せっかく集めた髪の毛がまた宙を舞う。どうでもいい、どうでもいいけれど、これだけは違えないでほしい。可哀想なのは、この世で生きるのに向いてない性癖を持ち、赤子みたいに抑えが効かないあなただよ。



中学3年生、僕は2つの全国模試で1番を取った。定期テストも、学年1位を取り卒業まで維持し続けた。

高校1年生、僕は新入生代表としてお決まりの原稿を読んだ。受けた全ての模試と定期テスト、更に共通テストで1位を取った。

高校1年生の冬休み、僕は両親に意気揚々と言った。


「N学園で自分より勉強のできる人がいなくなりました。先生方に聞いた話だと、ある公立の高校に僕に合った教育システムがあるそうです」


「それで?」


「そこに転校したいと考えています」


「……本気で言ってるのか?俺にお前の一人暮らしの金を出させるのか?」


「いえ。春美さんのマンションに住まわせてもらおうと思っています。春美さんの承諾は得ていて、そこからだとバス一本でその高校に行けるので」


教育システムなんてただのでたらめだったが、僕自体に興味のない両親は春美さんの名を出すとすんなりと首を縦に振った。こんなにスムーズに行くならわざわざ勉強して結果を出す必要もなかったと、少し後悔した。

どうやって高校を知ったかというと、高峰くんの中学の先生の元を訪ね、高峰くんの高校の友達でこの5mのプールのことは常々聞いているとかなんとか適当に話しかけるといとも簡単に聞き出せた。(5mプールは中学の名前で検索したら出てきた)


僕は春美さんの1階下の部屋に住み、生活することになった。春美さんはまだ僕を性の対象として見ているらしい。今も2週間に1度くらいのペースで呼び出されるけど、前にも増して本当にどうでもいい。何をされようが1ミリたりとも心が動かない。僕の頭の中は高峰くんでいっぱい。頭だけじゃなくて、体だって全部高峰くんでいっぱいだって言いたいけど、でもそうすると高峰くんが春美さんに触られてるってことになるからそれは違うかもしれないけど、とにかく高峰くん以外、心底どうでもいいのだ。


だっていつかは、いつまでも死なない兎に猟師は痺れを切らして猟犬を殺してしまうだろう。それで、どこからかまた新しいのを仕入れてくるのだ。狡兎死して走狗煮らる?狡兎死なずとも、でしょう。

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