第17話


第二部


なるほど悲しみってものは人間のために

あるもんで、けだもののためじゃあねえ。

だけんど、人間もあんまり悲しむと

獣になっちまうよ。

セルバンテス『ドン・キホーテ』



 1


 うだるような夏の日だった。

 神倉駅前交番に勤務するのうらいは、住民からの通報を受け、部下のつきおかとともに自転車で現場に向かっていた。現場は駅の西側に建つ集合住宅。通報者はそこの住人で、隣の部屋から聞こえていた子どもの泣き声が聞こえなくなり、異臭が漂ってくるので、様子を見てほしいという。

 二十数戸のすべてが単身者向けのマンスリーマンションだった。こざっぱりとした三階建てで、問題の部屋は三〇二号室だ。共同玄関を入ってすぐのところにある郵便受けに借り主の名はなく、のぞいてみると、チラシがあふれんばかりにまっている。建物の中は薄暗く、しんとしていた。平日の午後は留守の部屋が多いのだろう。

 階段を急いで上る。三階に着いた時点では、異臭は言われてみればという程度だった。しかし三〇二号室の前に立つとはっきりと感じられ、さらにドアについている新聞受けを指で開けると、強烈なにおいが漏れ出してきた。何かが腐ったにおい。

 月岡が呼鈴を押し、警察ですと呼ばわりながらドアをたたく。応答はなく、ドアに耳をつけても物音ひとつ聞こえない。開けますよと声をかけてノブをひねる。かぎがかかっている。隣の部屋のドアがわずかに開いて閉じた。

 すぐにマンションの管理会社に連絡して鍵を開けてもらった。担当者はひどくうろたえていて、鍵がなかなか鍵穴に入らなかった。

 ドアを開け、月岡とふたりで中へと踏み込む。

 目に飛び込んできた惨状に、狩野は言葉を失った。

 窓もカーテンも閉め切ったワンルームの部屋。フローリングの床に散乱するごみ。そのなかに埋もれるようにして、小さな子どもがふたりいた。ひとりはあおけに倒れ、もうひとりはぐったりと壁にもたれて座っている。どちらも下着一枚しか身につけておらず、むき出しの体は骨と皮ばかりだ。

 倒れているのは女児だった。すでに事切れていて、遺体の腐敗が始まっている。

 座っている男児のほうはまだ息があり、かがみ込んで大声で呼びかけると、閉じたまぶたがうっすらと開いた。ひからびた唇がかすかに動き、何かつぶやいたようだが聞き取れない。

「みっちゃん、救急車と応援要請!」

 ぼうぜんと立ち尽くしていた月岡が、電流に打たれたように動き出した。


 2


 神倉市のマンションの一室で、女児の遺体が発見され、衰弱した男児が保護された。神奈川県警は神倉署に捜査本部を設置した。

 県警捜査一課に所属するからすやすは、現場のマンションの前に立ち、情け知らずの太陽をにらみつけた。正面玄関の脇に供えられた花はしおれ、ジュースやお菓子のパッケージが日差しを乱反射している。

「あっちぃ……」

 若いころは暑さにも寒さにも強かったのだが、四十を越えてからこたえるようになってきた。パンツスーツなんか着ているから余計に暑い。

 顔をしかめてマンションに入っていく烏丸に、群がったマスコミがいっせいに反応する。フラッシュがたかれ、マイクが突きつけられる。捜査の状況は。母親は犯行を認めてるんですか。保護された男児の容態は。日常的に虐待がおこなわれていたんでしょうか。この調子でマンションや近所の住人、手を合わせに訪れた人に詰め寄っているらしく、なんとかしてくれと警察に苦情が来ている。

「はいはい、どいてくださいねー」

 取り合わずに素通りし、エレベーターはないので階段で三階へ上がる。廊下の端にある小さな窓が開いているのは、においを逃がすためか。

 三〇二号室。立番の巡査にごくろうさまと声をかけ、黄色いテープをくぐって中へ入る。悪臭がむっと鼻をつく。

 鑑識はすでに作業を終えたあとで、ごみの散乱する室内は無人だった。合同で捜査に当たっている神倉署の捜査員と顔を合わさずにすんだのはありがたい。こんなところで対抗心をむき出しにされたら受け流す自信がない。

 敷金礼金保証人不要、契約は月ごとのマンスリーマンションだ。備え付けの家具や家電に住人の個性はないが、壁には子どもが描いたらしい絵がたくさん貼られている。馬に乗ってやりを持った騎士に、ドレスを着たお姫さま。つたない文字が添えられたものもある。『ママ いつもありがとう』──あれは母の日に描かれたものか。『おにいちゃん 7さい おめでとう』──あれは男児の誕生日に。『ママ ゆうや まひる』──三人でにこにこと手をつないで、どこへ出かけていくのだろう。赤ちゃんの人形や児童書もあった。子ども用の食器も、歯ブラシも。

 ごく普通の家庭だ。仲むつまじい母と子どもたち。少なくとも、独身で子どももいない烏丸の目にはそう見える。

 だが、子どもたちはここに置き去りにされていた。窓が閉め切られエアコンも稼働していなかったため、昨日、八月五日に発見されたときの室温は三十五度を超えていたという。ふたりは暑さのあまり服を脱いだのだろう。

 女児の遺体は司法解剖に回されている。保護された男児は神倉市立病院で治療中だ。室内の状況からして、ふたりは食べ物を求めて冷蔵庫や戸棚をあさったらしい。買い置きのカップめんやレンジで温めるだけの冷凍食品、菓子などが尽きると、生の野菜をかじったりマヨネーズやケチャップを吸ったりして、それも尽きると水道水を飲んで飢えをしのいでいたようだ。

 マンションの管理会社によると、部屋の借り主は、よしおかみずきという女だった。二十三歳の会社員で、入居したのは半年前。書類上は単身ということになっており、子どもが同居していたことを管理会社は把握していなかったという。

 この吉岡が二児の母親と思われたが、所在がわからなかった。契約書に本人が記入した勤務先は実在せず、部屋にあった名刺から実際はデリバリーヘルスで働いていることが判明したものの、七月二十六日から無断欠勤が続いていて連絡が取れないとのことだった。マンションの契約の際にもデリヘルの面接の際にも本人確認はおこなわれておらず、こうなると名前や年齢さえでたらめという可能性もある。

「烏丸さん」

 呼ばれて振り向くと、黄色いテープの外に西にしがいた。中学生のころから捜査一課の刑事になりたいと思っていたそうで、三十半ばでやっと念願がかなって張り切っている。鼻の下に指を当ててまゆをひそめていた西は、目が合うなり「うお」と軽くのけぞった。

「なんすか、その顔」

「ごあいさつだね。この部屋に来たら誰でもこんな顔になるだろ」

 悲惨な現場はそれなりに踏んできたが、今回は格別だ。

「ほんと胸くそ悪いっすよね」

 つばでも吐きそうな西とともに、烏丸は隣の三〇三号室へ向かった。通報者であるそこの住人から話を聞くためだ。

 さいとうという五十がらみのその女は、自身は神倉市民ではないが、神倉に住む親が市内の病院に入院しているので、世話をするためにこのマンスリーマンションを借りているとのことだった。先が見えないまま毎月の更新を続け、もうじき一年になるという。あらかじめ連絡してあったためすんなり会うことができたが、刑事たちを部屋にあげようとはしなかったので、烏丸と西は狭い靴脱ぎに立っていなければならなかった。

「まあね、半年前にあの人が入居したときから、子どもがいるんじゃないかってことには薄々気づいてたんです。子どもの声とか足音って、どうしたって漏れてくるじゃないですか。とはいえ、そういうことはまれで、たいていはとても静かだったんですけどね。姿を見たことも一度もないですし」

「でも、ここは単身者用のマンションですよね」

「噓ついて入居したんじゃないですか。ここの管理会社、かなりいいかげんだと思いますよ。こっそりペット飼ってる人とかどうせいしてる人もいるみたいだし。私もどうせ仮住まいだと思って我慢してることがたくさんあるんです」

「吉岡さんと交流はありました?」

 心外だとばかりに斎藤は顔をしかめた。

「いいえ、まったく。前に挨拶したのに無視されて、それからはすれ違っても会釈もしません。人と関わりたくないような感じでしたよ。だから名前も知りませんでしたし。明らかに男ウケを狙ったかつこうで夜出かけて朝帰ってくるから、水商売の人なんだろうとは思ってました。あとは、スーパーやドラッグストアの帰りらしいところを何度か見かけましたけど」

「異変を感じたのはいつごろですか」

「七月二十五日です。私、日記をつけてて、見返したら二十五日のところに書いてありました。隣から『死ね』と怒鳴る声が聞こえてきて驚いた、って。朝、お茶をれようとしてたときだったから、こぼしそうになったのを覚えてます」

「『死ね』? 吉岡さんがそう言ったんですか」

「さあ、あの人の声かどうかは。絶叫っていう感じでしたし。ただ、そのあと乱暴に玄関ドアを開け閉めする音がして、子どもの泣きわめく声が聞こえてきたんです。ママとか、ごめんなさいとか、言ってるみたいでした。それ以降、そういう声が一週間くらい断続的に聞こえてて。気にはなってたんですけど、交流もないですし、私も親の世話で忙しくて、それに正直に言えば関わり合いになりたくないという気持ちもあって、そのままにしてました」

 烏丸は乾いた唇を舌で湿した。

「その間に吉岡さんの姿を見たことは?」

「ありません。でも、もともと生活時間帯が違いますから」

「通報したときの状況を教えてください」

「八月に入って、子どもの泣き声が聞こえなくなったんです。正確にいつとは言えないんですけど、そういえば聞こえないなって。なんだか異臭も漂ってくるみたいだし、怖くなって、迷った末に一一〇番しました。もっと早くそうしてれば……」

 斎藤はうなだれ、節の太い指で目頭を押さえた。

 聴取が終わって三〇三号室のドアが閉まったとたん、西がふんまんをぶちまけるように息を吐いた。

「七月二十五日に子どもたちを置いて家を出て、それきり十日以上も帰ってないってことですかね。無断欠勤は二十六日からってことでしたし。ろくな食べ物もなしにそんだけほっといたら、死んじゃうのはわかってただろうに。しかも『死ね』って。こいつは殺人ですよ」

 保護責任者遺棄致死か、殺人か。

 育児放棄の結果として死に至らしめた場合、殺意の有無が問題となる。この母親は故意に娘を死なせたのだろうか。

「まだわかんないよ」

 そう言ったものの、烏丸も同じことを考えていた。子どもが描いた「ママ」の笑顔が、頭のなかでぐにゃりとゆがむ。

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