第16話

 飛びついて揺さぶると、うっすらと目が開いた。まぶたの白さにぞっと鳥肌が立つ。

「……兄ちゃん」

「何があった。なんでこんな」

 アサヒの手を振りほどこうとするようにユウヒは身をよじった。しかしその動きは鈍く、痛むのか、息を止めて顔をゆがめる。スウェットがどす黒く染まっている。包丁にくっついていたネギがぱらぱらと畳に落ちる。

「いいから……」

 ごぼっと異様な音を立てて、ユウヒは血を吐いた。アサヒのひざにもかかった。

「しゃべるな!」

 けれど、黙らせたところでどうすればいいのかわからない。

 ユウヒの喉がひゅうひゅうと苦しげに鳴る。額から汗が噴き出している。

 包丁の柄が震えている。抜こうとして、抜いたら余計に血が出るのではと思いとどまった。アサヒの手も震えている。こうしている間にも、血だまりはどんどん大きくなっていく。ユウヒの命が流れ出していく。

 死ぬ。自分が何かひとつ選択を間違えたら。あのとき、お父さんを殺してしまったみたいに。

 どうしよう。どうしたらいい。

 その瞬間、アサヒは十歳の子どもに戻っていた。つるかめ湯の下駄箱のそばで、お父さんが迎えに来るのを待っている。なんでまだ来ないんだろう。外はもう真っ暗だ。約束の時間はとっくに過ぎている。ユウヒは今にも泣き出しそうだ。本当はアサヒだってそうだ。混乱と不安に押しつぶされかけている。お父さん。心のなかで何度も何度も呼びかける。早く来て、お父さん。

 ──アサヒ。

 声が聞こえた。はっと顔を上げると、そこにお父さんがいた。目の前に立ってアサヒとユウヒを見下ろしている。青と黒のストライプのマフラー。口の端にくわえたマイルドセブン。指の付け根の拳ダコ。最後に見た姿だった。最後だなんて思わなかったから、顔はよく見なかった。今、お父さんはほほえんでいる。

 アサヒは部屋を見回して自分のバッグを見つけた。無我夢中で引き寄せて携帯電話を取り出し、一一九番を押す。

 ユウヒが力を振り絞るようにして首を横に振る。まぶたが再び閉じかけている。

 電話がつながった。自分が何をしゃべっているのか、よくわからなかった。ただ、死ぬなと願った。

 どの神でも仏でもいい。ユウヒを助けてくれ。

 ふたりきりの家族なんだ。兄弟でいようと決めたんだ。

 だからユウヒ、死ぬな。死ぬな──。


 16


 喪服を着たのは初めてだった。大学の友達の葬式だと噓をついて父に借りたそれは、サイズが合わず不恰好だ。本当のことは言えない。アサヒとユウヒは他人でいたほうがいい。

 肩で雨粒が玉になっているのに気づいて、手で払った。れた感触は、膝を濡らした血を思い出させた。あのときの気持ちまでよみがえり、みぞおちが冷たくなる。病院にこの恰好で来るべきではなかったかと思い、せめて上着を脱いだ。

 面会の受付表に、何食わぬ顔で偽名を記す。指先に香のにおいが残っている気がする。

「新年早々、気の毒に」

 喪服だと気づかれたか、ナースステーションからそんな声が聞こえた。

 病室へ行き、カーテンで仕切られたいちばん奥の窓際のベッドへ向かう。同室の患者は年寄りばかりで、とても静かだ。

 その姿を認めて、アサヒはひそかにほっと息を吐いた。生きている。

 ユウヒはカーテンの窓側だけを少し開け、寝そべったまま外を見ていた。裸の木の枝が細い雨に打たれている。

 あの夜、救急搬送されたユウヒは、緊急手術を受けてどうにか一命を取り留めた。しかし最低二ヶ月の入院と絶対安静を余儀なくされ、病院のベッドで年を越した。回復しても体の一部に障害が残る可能性があるという。

 ユウヒはけがの原因について、転んだ拍子に包丁が腹に刺さったのだと言い張っている。本当は何があったのか、知っているのはアサヒだけだ。

 アサヒがアパートを飛び出したあと、突然、松葉美織がやって来た。美織はユウヒを刺し、身代金の入ったスポーツバッグを持って逃げた──。

 美織はそのまま姿を消し、松葉家は行方不明者届を出したそうだが、行方はわかっていない。また、それでもなお誘拐事件のことは伏せられている。こちらにとっては好都合だが、安心はできない。美織が捕まってすべてしゃべってしまったら、アサヒはともかくユウヒは一巻の終わりだ。ユウヒはタイトロープの上にいる。

 ユウヒはアサヒを見て「お」と笑顔になった。アサヒはちょっとした変装のつもりでかけていた眼鏡を外した。ユウヒのけがについてアサヒの関与が疑われている様子はなく、ふたりの関係もばれてはいないようだが、念のためだ。見舞いにもほとんど来ていない。

「行ってきたよ」

「ありがと」

 里親が亡くなったとユウヒから連絡を受けたのは、つい先日のことだった。道を歩いていて、新年会帰りで飲酒運転の車にはねられたという。代わりに葬式に出てくれと頼まれ、偽名を使って参列してきた。つらい式だった。児童養護施設の職員だった彼は慕われていたのだろう。幅広い年代の弔問客が集まり、なかには学校の制服を着ている子もいた。大勢が涙を流していた。

 すすり泣きに混じって、ハレという言葉が何度も聞こえた。まるでハレの葬式のようでもあった。ユウヒが身代金を奪われたため、結局は金の工面がつかず、ハレは閉鎖されることが昨年のうちに決定していた。

「具合、どうだ」

「うーん、なんか変な痛みがあるんだよな」

「変? それ、医者には……」

「うっそー」

 おどけて笑うユウヒの頰はこけ、無精ひげが散っている。唇は乾き、皮がめくれている。ベッドサイドの棚には小さな鏡餅が置いてあった。里親が持ってきたのかもしれない。

「……これからどうする」

 ユウヒは今月下旬には退院できそうだということだった。

 体はほぼ元どおりになる。だが心からは、ユウヒをユウヒたらしめていた何かが失われてしまった。ユウヒはけっして負けてはいけないけに負けたのだ。

「ウカノミタマノカミ、オモダルノカミ、アマノオシホミミノミコト、オオヤマクイノカミ、ホムダワケノミコト」

「え?」

「お父さん、兄ちゃん、ミオ、父さん。全部の罰がまとめて当たった。まだ足りないだろうけど」

 ユウヒでなくなったユウヒが、笑みを消してアサヒを見つめた。アサヒは無意識に息を止めていた。

「俺は、死ななきゃならない」

 乾いた声に、胸が締めつけられる。

「兄ちゃんもそう思うだろ」

「ユウヒ──」

 口のなかに安い砂糖の味がよみがえった。


 †


「いよいよだね」

 誘拐決行前日、美織は胸を高鳴らせて、ユウの背中に話しかけた。

 風呂場の鏡の前に立つ雄飛は、まだ見慣れない黒髪だ。周囲からは好評だというが、美織は元の色のほうが奔放な感じがしていいと思う。

 雄飛は背後に映り込んだ美織に目を向けた。

「びびってねえの?」

「ちっとも。おくびようと無鉄砲を両はじにして、そのちょうどまん中に勇気があるんだよ」

「何それ、また『ドン・キホーテ』の台詞せりふ?」

「そう。それに私には雄飛くんがついてるもん。苦しめる者の者にして救済者、だよ」

 犯行の具体的な部分については、雄飛にほぼ一任している。だからもうひとりの共犯者が選挙事務所に潜入していることだけは聞いたが、その名前も顔も知らない。雄飛を全面的に信頼している。

「よくそんな小難しい言葉を覚えられるな」

 半ば押しつける形で文庫本の一巻を貸したものの、雄飛はほんの数ページめくっただけで投げ出してしまった。部屋の隅でほこりをかぶっていたので、今はまた美織が読んでいる。

「俺の知り合いでそんな本が読めそうなのは、兄ちゃんくらいだ」

「本当にお兄ちゃんが好きなんだね」

 十年前に別れ別れになった兄の話をするとき、雄飛の声は普段と変わる。どこがどうとは言えないが、特別なのだということだけははっきりわかる。かすかにしつを覚えるくらいに。

「俺は兄ちゃんに対してひどいことをしたんだ」

「だけど、雄飛くんにとって唯一の家族なんだよね。血のつながった家族よりもそっちを選んだんでしょ」

 雄飛に近づき、そっと手をとった。大きくて硬くてあたたかい手だ。美織の好きな手。包み込み、指の一本一本、爪の一枚一枚の形を確かめるようになぞる。

「私にもあるよね、家族を選ぶ権利」

「……ああ」

 雄飛は目を伏せて答えた。

 黒いまつと黒い髪。やはり黒髪も悪くないかもしれない。

 美織は雄飛のこぶしに、みずからの額を押し当てた。うっとりと目を閉じる。

「私の本当の人生は、雄飛くんと出会って始まったんだよ。雄飛くんが私を目覚めさせてくれたの。だから私は、雄飛くんを信じてる」

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