エピローグ

 ここのところ毎日のように空を暗く覆っていた雲は、いつの間にか立ち消え、青い空から眩い陽光が地上に降り注いだ。到着を告げるアナウンスが船内に鳴り響くと、人々は手荷物を持って、そろそろと出口へと向かう。皆、揃いも揃って明るい表情だ。

「うーん」

 船から降りると同時に、私は天まで届けとばかりに大きく伸びをした。潮と木々の入り混じった匂いが鼻腔を擽り、思わず頬が緩んでしまう。

 どこからか聞き覚えのない鳥の囀りが聞こえて来る。日本には生息していない、この島固有の鳥の声なのかも知れない。

 春。今年の桜がその盛りを過ぎ、花弁がハラハラと静かに舞い落ちる季節になって、ようやく私はこの島へ戻って来た。

 色々あったが、浪人して何とか希望する大学へ入学が許された私は、今、交換留学生と言う形で、再びこの地を踏むことが出来たのだ。

 どこをとっても、島は私の記憶の中のものと同じ景色——実際にディテールは変化し続けているのだろうが——で、そのことが私を安心させると同時に、自分が居ても居なくても何一つ代わりやしないという少しの物足りなさを感じさせた。

 誰にということはなく「久し振り」と独り呟いてから、「Bowen Island Welcomes You!」と書かれた木の看板を横目に、私は一歩一歩噛み締めるように歩み始めた。

 二年前、ここでブレンダと別れた翌日の朝、福岡に居る弟から祖母が他界したという連絡を受けた。

 最後まで目を覚ますことは無かったらしいが、亡くなる直前に祖母はにっこりと微笑んで逝ったということだった。

 それを見た父と弟は随分と驚いたらしいが、弟をもっと驚かせたのは、あの父が、くしゃくしゃに顔を歪めて泣き晴らしたという事実だった。「最高の笑顔やったよ」そう言って、人目を憚らずに大声で泣き続けたらしく、いつまでもベッドの脇から動こうとしない父に、看護師さん達も、ほとほと手を焼いたという報告を受けた。

 私はというと特段驚かなかった。

 情が無かったとか、そう言う訳ではない。むしろ逆だ。あの時、白壁の館から祖母が去った後、これ以上ないほど私は泣いた。泣いて泣いて最後には枯れた。

 そして気付いたのだ。最後に彼女に会えたのが自分で、本当に幸せだったと。彼女自身がそう言ったように。

 だから私は——

 それ以上、泣くことはなかったのだ。

 ピークの時間を過ぎていたからか、然程多くない乗客を積み込んでフェリーが港を出発する。警笛が辺りに響いた。私は右手に見える坂を見上げて、その方向へと向きを変える。

 あの時の祖母との別れが私を百八十度変えた。

 彼女の半生に及ぶ話を聞き、「——貴女の生を全うしなさい——」と言われて初めて私は、それまで自分がどれほど中途半端に生きて来たのかということに気付いた。そして祖母の言った通り、自分の生を全うしたいと強烈に欲した。これまで生きてきて一度も経験のない、沸点に達した熱いマグマの塊の様な想いが、身体の内側から怒涛の勢いを伴って湧き上がって来た。

 それから私は文字通り寝食を惜しんで勉強した。そうしていないと、自分が保てないのではないかと心配するくらい、何かに打ち込まずにはいられなかったのだ。

 その甲斐あってか、東京の大学に進学することも、こうしてここへ戻ってくることもできた。

 丸太を組んだログハウスのような小さな店舗が見えて来た。表の看板には筆で殴り書きしたかのような文字で「KISETSU」と英語で書かれてある。店の手前で一旦立ち止まり、目を瞑って深呼吸してから、私は元気良く店へと入っていった。

「お疲れさまでーす」

「おお、来たかっ!」紡が顔を綻ばせる。

「なえーーーーっ!」奥から日和が飛び出して来た。

「日和さん! まさか、今日会えるなんて——」

「苗が来るって聞いて、居ても立ってもいられなくて飛んで来たのよ!」

 言うなり日和は思い切り飛びついて来て、ギュッと私を抱き締めた。

 祖母が去った翌日、漸く落ち着きを取り戻した私は、日和さんに、ここでの祖母の生活についてあれこれと話を伺った。その一言一言に、日和さんの祖母に対する愛情が感じられたことが嬉しかった。同時に祖母から話を聞いて以来、ずっと心に引っ掛かっていた疑問も解けた気がした。それは、何故、祖母は記憶を失くしたまま、この地に戻って来れたのかという事についてだった。

 もしカレンが、自分に代わって復讐を果たして欲しいというだけの理由で、祖母を召喚したのであれば、最初から彼女に当時の記憶を観せて、アンドリューの元へと向かわせていれば事は簡単に済んだはずだ。しかしそうしなかったのは、祖母に人を呪うという重責を背負わせたく無いという、彼女なりの思い遣りの現れだったのではないだろうか。勝手な憶測だが、私にはそんな風に思えて仕方がなかった。

「無事着いて良かったな」

 抱き締められた私を見て、紡が苦笑しながら言った。

「今日から、お世話になります。春野苗です」

「おいおい、知ってるよ。そんなに硬くなるな。それよりSINナンバーは——」

「勿論、持ってます!」

 私は懐からSINナンバーの印刷された紙を取り出した。それを見て日和は「今回は問題ないわね」と言って舌を出した。

「良し、それじゃあ明日から、ビシバシ働いてもらおう」

「あれ、今日は?」

「今日は店は終わり。それより、リヴに連絡して歓迎会しなきゃあ」

「えーっ、それって職務怠慢じゃない?」

 日和が言うと、「今日は特別」と返して、紡はオリヴィアに電話し始める。仕方なく日和はオープンサインをくるりとひっくり返し、『クローズド』と書かれた方を表にする。そんな二人を私はクスクスと笑って眺めている。

(多分、おばあちゃんもこんな遣り取りが大好きだったんだ)

 バンクーバーの大学に通うことになった私は、時間がある時は、ここで働かせて貰えることになった。こちらへ来る前、紡に渡加することを伝えると「すぐにでも帰って来い」と言う連絡が入ったのだ。二年前、館から戻った日和と苗から話を聞いてからというもの、紡もまた、こうして苗に再開出来る日を心待ちにしていたのだった。

 日和は、あの後「キセツ」を退職し、今はバンクーバーの老舗ジャパニーズレストランでサーバーとして働いている。小規模で実績のないキセツでは、ワークビザのスポンサーになるには不十分と判断したためだ。

「いつか、永住権が取れたら戻って来るから」それが、昨今の日和の紡に対する口癖だ。最も紡の方は「結婚して永住しないか?」と言って、プロポーズしたらしいが。

 結果は神のみぞ知る——だ。

「さあ、リヴの家に凄え美味しい牛肉が山ほどあるらしいぞ! 今夜は今年初のバーベキューだ!」

 紡は子供のようにはしゃぎ回り、それを日和は冷めた目で見詰めている。「やれやれ」そう言って、日和がひと睨みすると、やっと気付いたのか、紡はこちらを見てバツが悪そうな笑顔を作った。

 頬に風を感じて振り返ると、突き抜けそうに青い空と紺碧の海が私の目前に果てしなく続いていた。

 ——いつ迄でも見ていられるよ。

 おばあちゃんはどうだったか、本当のとこ良く分からないけれど。

 私は、ここが好き。

 この島が大好き!

 頭上を舞う鳶の鳴き声が、真っ青な空に吸い込まれて溶けていった。

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