第25話 秋冬 ホースシューベイ その1

 朝の森に薄っすらと霞が立ち込め、鳥の囀りだけが辺りに木霊していた。葉を落としてすっかり茶色の枝だけが取り残された木々から、溜まった露が雫となって、ぽたりと頭上に落ちて来る。やがて雫は帽子を伝い、日和とブレンダの顔を濡らして地上に落ちた。

 二人は島の対岸にあるホースシューベイの海岸沿いの森を訪れていた。

 フェリーターミナルを出て直ぐの所にあるカフェで、エスプレッソとラテを頼み、西のホワイトクリフの方へと徒歩で向かった。途中、寄り道をして小道へと入って行くと、島と似通った風景を目にして、ついここが本土だということを忘れてしまう。

「どう? 何か分かった?」

 日和の質問に、ブレンダは慌てて首を横に振った。

「いえ、何も。あれから、島中を隈なく回って見たんですが」

「あの小屋だっけ、どこにも無いの?」

「ええ、夢で見た小屋に似た様な建物は幾つかあったんですけど、周りの風景とか、良く見ると全然違ってて——」

「もう昔の記憶で、今は変わってしまったとか」

「そうですね。そうかも知れません……。でも、何だかまだ、どこかに有りそうな、そんな気がしてるんです」

 思い込みですけど。と言って、ブレンダは笑った。

 今日、わざわざここに来たのは、行き詰まって考えてばかりいるブレンダの気分転換になるかも知れないと日和が誘ったからだった。それなのに日和自身、その話題から離れることが出来ずにいた。

 冬枯れの森は、夏のそれとは全く違った物悲しい表情を見せている。その中を通り抜け、途中、民家の連なる小道を経て、森から出てみると、同じ様な寂しい色彩の海が広がっていた。日和はブレンダの手を引いて海岸の方へと道を下っていった。

 岩場に出て二人はその場に立ち尽くしてしまった。広陵とした冬の海が、離れてみた時より、一層侘しく、厳しく感じられたからだ。誰一人受け入れられない。そんな確固とした決意の様なものを海から感じて、脚がすくみ、それ以上先に進めなくなってしまった。

「凄いね。何だか自分が物凄く小さな存在に感じる」

「そうですね。人間はちっぽけですね」

 海や空や、そうした自分達より圧倒的に大きな存在を認識した時、人間は自らの矮小さに気付き、そのスケールの違いに愕然としてしまうのだろう。

 どのくらいそうしていたのか。

 気が付くと、ブレンダは日和の肩にもたれ掛かって、目を瞑っている。

 ——可哀想に。

 この少女が隠し持っている苦悩は、自分には伺い知ることなど出来ない。

 自分が何者で、どこから来て、何故あの島に居たのか。

 それらを失えば、自分の存在とは何なのか、その意義すら曖昧になってしまうではないか。

 私には耐えられない。ブレンダの整った顔立ちを見ながら、日和はそう考えずにはいられなかった。

「ハロー、どうかした?」

 突然、背後から声がして振り返ると、六十代くらいの女性が立っていた。クシャクシャな天然パーマの短髪に、真っ黒な大きな瞳。散歩中なのだろう、黒いレトリーバーを従えている。しゃんと伸びた背筋は、この女性が普段いかに健康的な日々を過ごしているかを物語っているようだ。

「いいえ、ちょっと連れが眠っちゃって」日和が言うと、「珍しいね、こんな寒い日に」そう言って女性は可笑しそうに笑った。

「貴方達、日本人?」

「ええ。お上手ですね。日本語」

「そりゃあね、日本語教師だったからね。長いことね」

 ミルタと名乗った女性は、若い頃にアジアの文化に興味を持ち、大学で日本語を専攻したという。卒業後も引き続き大学に残り日本語を教えていたらしく、日和と比べても遜色ないほど流暢に日本語を操った。この近くに住まいがあり、この時間になると毎日、犬の散歩を兼ねて、この先の森へ入って行くのだという。

 話し声を聞いて目を覚ましたブレンダを見て、折角だから一緒にどうかという提案を受け、三人と一匹は入江の先にある森の中へと押入って行った。

「貴女達どこから来たの?」

「ボウエンからです。フェリーで」

「ああ、そうなの。良いわよね、あそこ。私の友人も大勢住んでいるわ」

 ミルタが言うので、試しに何人かの名前を出してみると、その全ての人を彼女は知っているらしかった。

「この辺りはね、狭いのよ。コミュニティがね。昔から住んでいる人間は殆ど知り合いよ」彼女は笑いながら言った。

「へえー。あ、じゃあ、リヴも、オリヴィアも知ってます?」

「オリヴィア? 苗字は」

「確か、マセソンだったかな?」

「ああ彼女ね。彼女が子供の頃、何度か会ってるわ。お父様を知っていたの」

「リヴの……お父さん?」日和は目を丸くする。

「そう、あの島の自警団っていうのかしらね、ほら見たことない? 赤いユニフォーム着て、茶色のハットを被って。騎馬警察なんかのリーダーで、格好良かったのよ」カラカラとミルタが笑う。釣られて、いつの間にか二人も笑ってしまっていた。

「へえー、騎馬警官だったんだ? 確かに格好良いですよねえ。憧れる」日和が言うと、ブレンダが「何ていう方だったんですか?」と尋ねた。

「うん? えーっとね、確かカール……とかって名前だったわ」

「カール?」お菓子みたい。

「ん。どうして?」不思議そうな顔でミルタがこちらを見た。

「いえ、何でも」日和はバツが悪そうに顔の前で手を左右に振った。

 海から続く斜面に沿った森の中を進んでいるうち、地面が平坦になったかと思うと急に目の前が開けた。先頭を歩いていたレトリーバーが突然駆け出す。

「さ、ここから走るわよ」

 ミルタもその後を追って駆け出した。訳が分からないまま、日和とブレンダもその後を追う。

 一匹と三人は、森から出て、枯れ草で埋め尽くされた草原の真ん中を突っ切って、やがて小さな家屋の前へと到着した。

「ここは?」息が切れて上下動を繰り返す胸に手を当てて、日和が尋ねた。

「私とこの子の休憩基地。と言っても、今は使われていない、ただの炭焼き小屋だけどね。この辺りの人間は大抵、散歩でここへ来ては一休みして帰るんだよ。さあ、中で珈琲でも淹れよう」

「はあーい」中へ入ろうとして、日和はブレンダの方を振り返った。

「ブレンダ?」

 ブレンダは突っ立ったまま、その場から動かない。

「ブレン——」

「日和さん!」ブレンダが素っ頓狂な声を上げた。

「は?」

「日和さん、ここ、ここは」

「何?」

 私が夢で見た小屋ですと言うなり、いきなり駆け出した。

「どうしたの?」ミルタは呆気に取られている。

「島じゃなかったんだ!」日和が目を丸くした。

 ブレンダは、丸太で組んだ小屋の左手に駆け寄ると、そこにあった樫の木の根本の地面を——まるで犬がそうする様に——一心不乱に両手で掘り始めた。

「私も手伝う!」言うが早いか、走って来た日和もブレンダの横に陣取って地面を掘る。

「オーライ。ちょっと待って」

 振り向くと、ミルタが小屋から持ってきたシャベルを手に、二人に退けと言わんばかりに手をヒラヒラと振っている。

「何だ分からないけど探し物があるんでしょ。事情は後で教えて」言うが早いか、ミルタは力を込めてシャベルを地面に突き立てた。

 

「まだ? もう結構掘ったよ」ミルタが額の汗を拭きながら声を上げる。

「——そうですよね」

「何も出てこないね。本当にここ?」日和も不安げな表情だ。

「ここで間違いないんです。本当に同じ景色で。ミルタさん、ここって馬が居ませんでした?」

「ああ、もう随分昔の話だね、そりゃ。居たよ。私が子供の頃まではね」

「やっぱり」

「何が埋まってるんだい?」

「それが……私にも分からないんです」そう言って、ブレンダは自分の見た不思議な夢の話をミルタに話した。

「そう。うーん。何だろうね」

「ごめんなさい。やっぱりただの夢なのかも」

「そんなことないよ。だって、同じ景色なんでしょ? 多分、記憶に関係あるって」

 日和が言うと、ミルタもうんうんと首を縦に振った。

「今日は仕方がない。私もこの辺の人に聞いてみるよ。何か知らないか」

「ありがとうございます!」ブレンダと日和は深々と頭を下げた。

「ははは、本当だね。日本人はお辞儀が好きなんだ」

 三人は顔を見合わせて笑った。

「さ、珈琲でも飲んで行きな。ジルもおいで」

 やたら嬉しそうに尻尾を振るレトリーバーのジルを先頭に、三人は小屋の中へと入っていった。

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