木曜日のイド

うつりと

寝手場架莉

「私は一枚の百円硬貨である。

 今、幼女の小さな財布にほかの小銭数枚と一緒に入れられ、身を擦りあっている。

銅貨というものは思っていたより硬く、どうかするとこちらの身を削られそうになるが、それはお互い様なので、銅貨に文句を言える筋合いがないことは自明である。

 してみると、私である百円硬貨の持ち主の幼女は、屋外を歩いている最中に違いない。

この拙い等速運動を心地よく感じられれば僥倖この上ないが、人間社会と同様な軋轢がこの狭い世界にもあり、五百円硬貨の威厳に押され安い硬貨と擦れ合いチリチリと削れ身がもたぬ。

 しかしそれすらも幼女の生活の一部となれた身の上を鑑みれば、途方もなく甘美な痛みでしかないのは言うまでもない。


 思い起こせば一昨日まで、私は百円硬貨ではなく一人の人間であった。

 社会を構成する一員であるはずの私は家庭も持たず、仕ことも転々とし、終いには狭い住処に引きこもり、なんら人類の発展に貢献することもなく、日々の空虚な生活に疲れ果てていた。

 飯も出来合いのものしか食わず、部屋も廃棄物に溢れ、かといって社会に不満があるわけでもなくただただ怠惰なだけで、己の無能さに呆れるばかりの無価値な人間。

 私は自分が嫌いで嫌いで仕方がなかった。

 そんな私にもわずかながらの愉しみは存在した。

 アパートの近所で木曜日によく見かける幼女である。

 あまり幼女という呼称を連呼するのも品のなさを露呈してしまうので、仮にこの幼女をエディス・プレザンス・リデルと呼ぶ。

 エディス・プレザンス・リデル――長いので略す――エディスは、豪奢なマンションに住まう若い婦人に連れられ、毎日幼稚園に通っているようだった。

 私はそれを見るためだけに早く起床することが出来、気がつけば登園風景を観察するのが日課となった。

 婦人に定期の用ことでもあるのか、木曜日に限ってエディスが一人で遊ぶ姿をよく見かけた。

 私は特段幼女趣味であるとか、ペドフィリアだとか自覚したことはなかったが、エディスだけは他の児童とは別の、年齢とはかけ離れた妖艶な、なにか一種の尊き輝きのようなものをまとっていて、その容姿、声、行動にやけに惹かれる魅力を確かに感じていた。

 それを遠くから眺めているだけで満足し、夜半に床の中で記憶を反芻して満足の再生産を繰り返しのが唯一の救いだった。


 昨日、いつもの木曜日のように近所を歩いていると、例のマンションの向かいにある小さな公園にエディスの姿を見つけた。

 しばらく遠くから様子を伺っていると、彼女は一人で公園の植え込みの虫を観察しているようだった。

 狂うような夏の強い日差しを浴びて、肌が焼けることも気にせず、目の前の一匹の虫に夢中になっているエディス。

 しゃがみ込んで地面に濃い影を落とすエディスの臀部。

 ああ、私は虫になりたい。

 エディスに観察されたい。

 エディスの持つ小枝でいたずらされたい、と思った。

 この途方もない願いは行き場所もなく、深い意識の底に沈殿するだけだった。

 昨日までは。

 公園には他に数人の幼児と母親が居たが、こちらには関心がないように見えた。

 エディスは飽きもせず路傍の虫に夢中で、小さな白い帽子から見え隠れする上気した頰と鼻先の汗が、私をある種の恍惚とした状態に導いてくれる。

 ふらふらと街灯に群がる昆虫のように公園内に入り、周囲を再度確認した。

 ここであなたにあらかじめ誤解のないよう確認しておかねばならないことがある。

 私はエディスを何も乱暴したかったわけではない。

 ただただ受け身で観察されたい、その一心のみであったことを信じてもらいたい。

 ロマン主義者として神に最も近い純粋無垢な存在として崇めたいだけなのである。

 黄金の午後、私は幼女の背後から近づき声をかけた。

 虫を見ているのかな。

 そうたずねるとエディスは振り向き、無言で私を見つめた。

 初めてお互いの眼球による視線の交差を体験したのである。

 しかし不幸にもこの私の珠玉の歓喜に気づかないエディスはすぐにまた無言で虫に興味を注ぐ。

 社会だけでなくエディスにまで存在否定された私は、怒りと恥ずかしさの入り混じった複雑な心境になる。

 今ここでいたずらをして犯罪者となるか、紳士として早急にこの場を去るか。

 しかし公園の端にいる母親たちの通報で社会から抹殺される恐怖との葛藤で文字通り私は頭を抱え、真夏の自分の狂気にさえ素直に従うことができなかった。

 そこで私はある行動に出る。

エディスに百円硬貨を渡したのである。

 可愛いから、お小遣いをあげよう。

 そう言って私は小銭入れから百円硬貨をエディスに手渡した。

 エディスは初め、意味がわからなかったのか、ぼんやりとその硬貨の重みを小さな手のひらで受け止めているだけだった。

 私がその小さな手のひらを握ってやるとようやく意味を理解したらしく、私の顔を見つめ、大きく微笑んでくれた。

 その瞬間、私は百円硬貨になった。

 いや、百円硬貨が私になった。

 より正確に明記すると、自意識が百円硬貨に転移したのである。

 そのあと、自分の身体がどうなったのかは知らぬ。

 気にも留めなかった。

 私は百円硬貨となり、エディスの手のひらに握りしめられたことで電流に打たれたように身体中が痺れるほど――この場合の身体とは硬貨自体のことである――の幸福感に恍惚となった。

 エディスは私を何度も何度も眺めてくれた。

 不思議なことに人間ではなくなったことへの恐れは皆無であり、どれほどエディスが私を観察してくれるのかだけが重要あった。

 エディスは私である百円硬貨の裏表を何度もひっくり返し眺める。

 百円硬貨から顔を覗き込まれていると知ったら、彼女の無垢な魂は喜びに満ちるだろうか。

 私がうっとりと見つめられる喜悦に浸っていると、エディスは私を眺めることに飽きたのか、私である百円硬貨を首から下げた桃色のポシェットの中の小さなクマの財布にしまい込んだ。

 エディスに見つめられなくなった私は残念で仕方がなかったが、これも硬貨の定めである。

 財布の中には私自身の他に、わずかながらの小銭たちが入っていた。

 どうやら他は十円玉と五円玉と一円玉らしく、私はこの小さな世界では最も高貴な存在として君臨することになる。

 現実世界では居場所のない無価値な人間だったのに。

 幼女が立ち上がると我々は激しくぶつかり合い、硬貨には硬貨の苦労があることを知る。

 それからしばらくは動いたり止まったりを繰り返し、小一時間後には動きは全く止まってしまった。

 おそらくエディスは自宅で眠ってしまったのであろう。

 私が百円硬貨になってからは時間の感覚が麻痺したのか、どんなに真っ暗で変化がなくても、退屈になったり、寂しくなったりすることはなかった。

 硬貨であるため呼吸や飲食なども必要ない。

 この私の身体と精神に起こった変化は、誠に不可思議なことではあるが、これも一つの量子のゆらぎのようなものであろうか。

 無限に連なる並行世界を考えれば、特段不可能なこととは誰にも言えまい。

 あなたは私を異常者だと思うだろうか。

 無気力、無感動な生活体系において、彼女は私の生の証であった。

 生きる意味そのものであった。

 エディスが遊びの中で見つける笑顔、耳を突く甲高い声、ふくふくとした頰と二の腕。

 話しかけたり、抱きしめたり、接吻をしたり、そういったことには本当に微塵も興味が湧かなかったことを信じてほしい。

 それは例えるなら花を愛でる創造性、星空に感動する純粋性、高い山に登った時に感じる神秘性などと同列の感情であり、性的な衝動とは相容れない生命への渇望そのものである

 私はエディスの生活の一部となったわけだが、本来であれば私がエディス自身と同化することこそが究極の悲願だろう。

 それは肉体を共有することなのか、精神を共有することなのか、はたまた元の私の人間の身体のまま自分が幼女に退行することなのかは、なってみないとわからぬ。

 どれも非常に甘美な誘惑である。

 しかし私自身が幼女と一体となり、若い婦人の豊満な乳房から受乳することなどを想像すると、きっとそれはそれで悦楽には違いないのだが、本来の私の生への希求とはまた次元が異なる。

 そのようなことに想像の雨を降らせ、滴るほどの欲求を見出すことは、エディスを裏切ることに他ならない。

 私は幼女の所有物――

 物なのだ。


 何時間か、何日か分からぬが、ずっと不動のままだった私たち硬貨の入った財布が急に動き始めた。

 ああ、エディスの声が聞こえる。

 婦人の声も聞こえる。

 春を謳歌する雲雀のように、高らかに愛を歌いあげよう。

 両手で太陽を掴もう。

 喉も両腕もないが。

 エディスの所有物である私は、幼女の行いにつられて動く。

 チャリチャリ、チャリチャリ。

 その音を楽しんでいるであろうエディスを想像して楽しんでいる私。

 永遠に幼女のままで居て欲しいと願うのは、無理な願いだろうか。

 そう願った瞬間、別れが突如訪れた。

 財布が音を立てて開かれ、エディスの指先が侵入してくる。

 エディスの指が激しく我々をかき混ぜる。

 そして十円硬貨が一枚、財布から取り出された。

 ああ、これは買い物をしているのだ、ということ実がこのことから導き出される。

 もう一枚十円。

 別れはいつも突然やって来る。

 そしてとうとう私である百円硬貨が小さな人差し指と親指でつままれ、財布の外に放り出された。

 エディスがじっと私を見つめている。

 この天使のような眼差しの寵愛を受けるのはこれが最後。

 エディスの視線、体温、息、笑い声。全てが私という百円硬貨に注がれている。

 悦楽と絶望。

 幼女は私をつまみ、ついに私をステンレスの狭い硬貨投入口に投入した。

 チャリン!

 さようなら。

 おそらくここは自動販売機の中であろう。

 私は何度かのバネやつまみの反発を受け、さらに暗い穴の中に侵入する。

 途中、一度落下は停止したが、幼女が自動販売機の釦(ボタン)を押し、飲料水を選択したのか、再度落下は始まった。

 自動販売機の中というものは、やたらぶつかるところが多く、難儀である。

 最終的に私は百円硬貨であることを認識され、百円硬貨の積み上がるところへと落下させられた。ここでまたしても私の価値は標準化されてしまった。

 ブーンという機械音しか聞こえない。

 エディスは飲料水を取り出し、何処へと去っていってしまったのであろう。

 こうして私はエディスとの惜別の時を迎え、もはや誰の所有物でもなくなる。

 ところで私がもし缶ジュースに転移出来ていれば、私は飲料としてエディスの口内に侵入できたかもしれない。

 そうすればまさにエディスの身体の一部になれたのに。

 しかしすでに私は仄暗い自動販売機の中のただの百円硬貨となってしまった。

 人間だけでなく、硬貨としても誰にも所有されない存在。

 真の絶望とは永遠に絶望が続くと知ること。


 それから幾度か私の上に百円硬貨が積み上げられた。

 自動販売機の中はやたらとうるさく、また、暑い。

 どれほどの時間が経過したか分からぬが、ガチャンという音と共に、いきなり世界が明るくなった。

 あれよあれよという間に私たち硬貨は一気に下方へ流れ込み、また一気に暗くなる。

 冷静に考えればこのこと態は飲料水の補充員が私たち硬貨の回収をしに来たのだろう。

 乱暴に私たち硬貨の入った容器をおそらくは車中へ投げ入れ、補充員は次々と止まったり、投げ入れたりを繰り返す。

 その度に私の身体は軋んだ。

 あの優しいエディスとの生活から考えると、なんとも荒んだ環境である。


 数時間が経過したあと私たちの容器は移動させられ、すぐに容器の蓋が開かれた。

 そして誰か人間の手により再び機械に投入される。

 鳴門海峡のような回転運動に見舞われ、最終的にはまた暗い容器に納められた。

 硬貨というものは意外にも一箇所に落ち着けないものだ。

 しかし今日の旅はこれで終わりではなく、またすぐに移動と停止を繰り返し、ようやくまた光に包まれる。

 ほんの一瞬ではあるが、私を絶対的上から目線で見下げた人間に出会った。

 女だった。

 そして緑色の制服を着用していたのを私は見逃さなかった。

 あれはそう、銀行員の制服である。

 ここは銀行なのだ。

 自動販売機から車に乗せられ販売店に移動した後、清算され銀行に入金させられたのであろう。考えれば至極もっともな経済流通である。

 また暗闇に閉じ込められたが、今度は先ほどの制服の女を思い返す余裕があった。

 化粧が厚く、エディスの奇跡の肌の輝きからすれば天と地の差である。

 しかし暗闇で長時間じっとしている身としては、そんな女でも、もう一度会いたいと思うのは人情というものである。硬貨だから貨情だろうか。

 もう一度絶対的上から目線で見下げて欲しい。

 物としての欲求とは、観察されることが最も尊い。

 使われる物より、鑑賞される物の方が価値が高いのは言うまでもない。

 かっちりした厚手の生地の緑色のベストと、その下の真っ白いブラウスになぜこれほどまでに心を奪われるのだろう。 

 記憶を深く掘り下げてみる。

 より深く、より過去へと。

 私はバスに乗っている。

 どうやら小学校の遠足の途中らしい。

 そして緑色のベストとスカート、黒いストッキングのバスガイドを思い出した。

 ありきたりの話をマイクで話すバスガイドを私はからかった。

 それを聞いたバスガイドは私の席に来て、なんということか、私の頭を肘掛に押し倒し、私の顔の上に座り込んだのである。

 生まれて初めての女の尻の重み。

 この時に私の緑色の制服と、人間扱いではない物としての立場への冀求(ききゅう)が確定したのかも知れない。

 この銀行員の女にも観察されるだけでなく、制服の尻に敷かれ圧迫されたい。

 その権利を百円硬貨である私は所有している。

 しかしその女とは二度と会うことはなかった。


 それからまた数日が経過し、光も動きもない世界で私はあらゆる可能性を想像した。

 一つはこのまま何年も銀行に眠る可能性。

 しかしその可能性は低いだろう。

 貨幣を全く動かさないという資本主義社会は想像しがたい。

 もう一つは普通に流通する可能性。

 最後の一つは日本銀行に戻され古くなりすぎた為に、貨幣としての価値を終えること。

 百円硬貨は確か銅とニッケルの合金であるので、分解処理され、別の金属物にされるかもしれない。

 これは硬貨としての人生最大の恐怖ではあるまいか。

 しかし結果はまた別の運命であった。


 意外と早くそれは訪れた。

 私はプラスチック容器から出され、また別の機械に押し込まれた。

 相変わらずあたりは暗いが、今度は頻繁にガチャガチャと機械音が鳴り響いている。

 うるさくてうるさくて耳を塞ぎたくなる。耳も手もないが。

 そうこうしているうちに、次々に百円硬貨たちが外へ出て行く気配がする。

 いずれ私の番が来るのだろうか。

 もう一度あの制服の女に見下げてもらえたらどんなにいいか。

 クリーニングの効いた真っ白いブラウスとしっとりした生地の緑色の制服の女に、百円硬貨である私を存分に見下して欲しい。あの冷たい視線で。

 そしてその時は来た。

 私はザーという機械音と共に、ガチャガチャとバネに弾かれ、明るい外に出た。

 しかし私を見下ろしたのは別の眼鏡の女。

 青色のプラスチックトレイに並べられ、広々とした部屋の天井を見上げた。

 そこへ今度は私たちを白髪の中年の男が覗き込む。

 がっかりである。

 男は手荒く私たち硬貨と紙幣を掴み、長財布にしまい込む。

 そしてその長財布をどこかへ荒々しく突っ込み、移動を始めた。

 これは、男の尻ポケットではあるまいか。

 制服の女銀行員ではなく、男の尻。

 ああ、もう硬貨でいたくない。

 こんなことになるならば日本銀行に送られて、融解された方がマシだ。

 男はそのまま車の座席にでも座ったのか、あり得ないほどきつく圧迫され他の硬貨と擦りあいになる。

 そしてなんと、男は屁を放った。

 人間が憎い。

 しかし人間がいなくなれば貨幣はその意味を失くしてしまうので、それはまた別の機会に考察するとしよう。

 すぐに財布が開きコンビニの店内らしき景色が見える。

 ボトルコーヒーのみという買い物しかしない、つくづくつまらぬ男である。

 財布からトレーに移り、すぐに格下の仲間数枚とともにレジスター入れられた。

 またしても闇であるが、あの無礼男と決別してホッとする。

 さらば男。こと故を起こしてしまえ。

 さて、どこのコンビニだろうか。

 銀行からそう遠くないはずだが、銀行が自動販売機の営業所からどの程度離れているかはわからぬ。よって現在位置はさっぱりである。

 先ほどからほんの三回レジを開け閉めしただけで、私は外に出された。

 コンビニは回転が速い。

 のんびりもいいが、こうして矢継ぎ早に違う世界を旅するのも悪くない。

 しかし今度もまた男に受け取られ、私の心は梅雨空のように曇る。

 諸行無常というものかもしれぬ。


 さて、今度の男はどうやら財布に何かチェーンのようなものをぶら下げているらしく、歩くたびにカチャカチャとうるさい。

 ファッションかも知れないが、引きこもりでくたびれたスウェットしか着なかった私には理解できぬ。

 このようなファッションをしている男も、きっとまともな職業ではないであろう。

 真面目に働け。

 無職の私が言うのもなんだが。

 それからすぐに、私はチェーン付きの財布に入ったまま、やたら低俗な音楽がうるさいところへ連れて行かれた。

 あまりの轟音に人間同士の会話が聞き取りにくい。

 しかし時々大勢が奇声を発している。

 何かの祭りであろうか。

 耳を澄ませていると、私の所有者と思しき男の会話が聞こえる。

 なんというか、非常に下品で野卑な言葉遣いである。 

 どうやら女性と会話しているらしい。

 人間的に表現すれば、チャラいという品のない言葉遣いと会話内容だ。

 この喧騒、低俗な会話、グラスや瓶がガチャガチャと当たる音。

 これはおそらく女性のいる飲み屋であろう。

 騒々しいところは嫌いであるし、遊ぶ金などない私とは無縁な世界だった。

 そんなところへ百円硬貨として来てしまった。

 忌むべき状況だが、ある意味楽しむべきとも思える。

 隙間から外を見てみたいが硬貨を使う店とも思えないので、私は聴覚を一層研ぎ澄まし、下品な会話を堪能してみる。

 ふと、店員の中に聞き覚えのある声を見つけた。

 その声の記憶をたぐると一人の女性にたどり着く。

 まさかこの声は――

 エディスの母親。

 清楚で貞淑な妻であるはずの婦人が、こんな店にいるわけがない。

 しかしこれは確かにあの婦人である。

 あんなに世界を旅して知らない遠くへ移動しているとばかり思っていたのに、案外近くをうろうろしてしただけだったのか。

 硬貨というものは意外にそんなものかもしれぬ。

 それにしてもどうして婦人がこのようなところにいるのか疑問に思ったその時、私の所有者の男が婦人に出勤日を問うた。

 婦人は答えた。

 木曜日の昼だけの出勤であると。

 木曜日。

 それはエディスが一人で遊ぶ唯一の曜日。婦人はエディスを置いて、このような品の悪い店で働いていたのである。

 このような婦人の秘密を知ってしまっては、もう二度と貞淑には思えぬ。 

 どんな人間にも裏表があるということか。

 硬貨のように。


 それから数時間後、私たちが入った財布が不意に開いた。

 どうやら男の部屋にいるようだ。

 男は私の隣の五百円硬貨をつまみだした。

 するとチャリンという音と共に、ダースベイダーのテーマ曲が流れたではないか。

 ダースベイダーの音の貯金箱。

 それはまさに人間であった私が所有していた貯金箱である。

 五百円玉貯金というせせこましさも私の趣味である。

 私は恐る恐る財布の隙間から男を見上げた。

 なんということか――

 自分だった。

 信じられない事態だがどう見ても自分自身に相違ない。

 天井の染みも見覚えがある。

私という百円硬貨は、いつの間にか自分の手元に戻っていたのである。

 しかし私はあんな店には行かないし、財布にチェーンなど繋ぐ人間ではない。

 見た目は私だが、本当に私なのだろうか。

 私は酷い目眩に襲われた。


 気がつくと私は人間に戻っていた。

 まだ目眩が残っている。

 両方の目頭を押さえてしばらく目を閉じ、目眩が収まるのを待った。

 やがて目眩が収まり、周囲を見渡した。

壁にかけている服も見覚えがないが、部屋は確かに私の部屋である。

 テーブルの上に置いてあったチェーン付き財布を手にとってみた。

 財布の中を見ると百円硬貨が何枚か入っている。

 私はこのうちの一枚だったのだろうか。

 呆然としたまま床に座る。

 現実だったのか、夢だったのか。

 冷静に考えれば人間が百円硬貨になるわけがないと思うが、それにしては細部まで覚えているのはどういうことだろう。

 机の上に置いてあるスマートフォンを手に取る。

 指紋認証でロックが解除されたところを見ると、やはり自分の持ち物なのであろう。

 日付表示を見ると私がエディスの持ち物になった木曜日から一週間経過している。

 メールやSNSには、知らない相手と会話していた形跡がある。

 つまり知らない自分は別の人間として、しっかり一週間生きていたのである。

 ということは、百円硬貨だった私の方が偽物なのではないかという疑問が浮かんでくる。

 自分が偽物。

 これほど酷い結論があるだろうか。

 私は絶望した。

 何時間も床の上で考えた末、やにわに起き出して机上のパソコンを起動した。

 ログインパスワードはやはり自分の知っているものだった。

 様々なワードで検索をかけてみる。

 自分

 もう一人の自分

 自意識

 自我

 これらの入力から、いくつかの単語が導き出された。

 融合自己対象転移

 共感覚

 他人格症候群

 離人症、離人感、デパーソナリゼーション

 解離性同一性障害、解離性離人感同化、離人症性障害

ICD−10、エゴチェンジ

 どれも意味がわからない。

 私は病気なのか。

 気が狂っているのか。

 いじめられ、社会から隔離された末に歪んでしまったのだろうか。

 全て妄想なのか。

 エディスとの生活はただの幻想だったのか。

 夫人の秘密も狂った願望だったのか。

 緑色の制服も記憶の綻(ほころ)びだったのか。

 怖い。真夏なのに氷水を浴びたような寒気を覚える。

 やがて私はイドという言葉に遭遇した。


 【イド:Id】

 イドは無意識に相当する。

 無意識的防衛を除いた感情、欲求、衝動、過去における経験が詰まっている部分。

 イドは本能エネルギーが詰まっていて、人間の動因となる性欲動(リビドー)と攻撃性(死の欲動)が発生していると考えられている部分である。

 性欲動はヒステリーなどで見られる根本的なエネルギーとして、攻撃性は陰性治療反応と言う現象を通じて想定されたものである。

 またこのイドは幼少期における抑圧された欲動が詰まっている。

 イドから自我を通じてあらゆる欲動が表現され、自我が防衛したり昇華したりして操る。

 

 百円硬貨という状態のイド。

 それがこの一週間の私だったのだろうか。

 徐々に冷静になってきた私は、この状況をどう受け止めればいいか考えた。

 つまるところ、私は不幸せではなかったのである。

 百円硬貨であった自分は非常に気が楽で、居心地が良かった。

 またもう一人の自分についても、むしろ引きこもりの自分よりも上手くやっているようなので放っておいても害はない。

 そう、私はこの状況をそのまま受け入れることにした。

 病気を治療しようだとか、人生に悲観して自死を選ぶとか、そういうことは私の頭の中には現れなかった。

 さて、そこで私はもう一度旅に出ることする。

 おそらく強く念じていると、イドの転移が起こるようである。

 もう一つ、検索の結果見つけたことがある。

 木曜日の英語であるThursdayは、北欧神話の最強の神、トールから来ているらしい。

 スノッリ・ストゥルルソンの『散文のエッダ』によると、トールは巨人フルングニルと戦った時に、勝利したがフルングニルの投げた砥石が頭に突き刺さり、永く苦痛に苦しんだという。

 私の本名は「とおる」である。

 私の頭にもその砥石が刺さっているかもしれぬ。

 トールはあまりの苦痛に巫女グローアを呼び出し魔法の歌でトールの頭に刺さった砥石を取り出させた。

 痛みが消え去ろうとした時に、トールはグローアに適当な嘘を言って喜ばせようとした。

 グローアはその嘘に喜び、魔法の歌をやめてしまった。

 すると抜けかかっていた砥石がまた元に戻り、トールはその後も苦痛に苦しんだという。

 この間の抜けたところも私そのものに思える。

 魔法の歌で私の苦痛を取り除いてもらいたい。

 私はさらに一週間後の木曜日に、もう一度イドの転移を祈った。


 というわけで、私は現在あなたのお嬢さんの財布の中にいます。

 この手紙を書いているのは水曜日です。

 そして今朝、木曜日にお宅のポストに投函したのが今あなたがお読みになっているこの手紙です。

 そしてその後、私は再度お嬢さんに平成十三年の百円硬貨を渡しました。

 その瞬間、私は人間から百円硬貨のイドになり、再度お嬢さんの所有物になったのです。

 財布は首からかけていますか?

 お嬢さんの胸の中で揺れていますか?

 あなたの秘密は守ります。

 私はお嬢さんにグローアの魔法の歌を歌ってもらいたいだけなのです。


                             木曜日のイドより」




「拝啓

  抜け殻様


 貴方からの手紙を受け取り、私なりに考えた末に、貴方へ返ことを送ります。

 もしかしたら抜け殻の貴方は、なんのことかわからないかもしれません。

 まず、貴方からの手紙は、魂が身体から抜け出し百円硬貨になるなど、到底信じられる内容ではありませんでした。

 貴方が私の娘に接近し、性的犯罪行為を働くのではないかと思い、気味が悪くなり手紙をすぐに捨てました。

 私は娘を全力で守らねばなりません。それ以上、重要なことなどありません。

 それなのに――

 それなのに、なぜか気になるのです。

 あれほど気持ち悪い手紙が。

 私たち親子を惑わす手紙が。

 馬鹿馬鹿しいと思いつつも、私は娘の財布に百円硬貨が入っているか確認しました。

 そうすると本当に平成十三年の百円玉がありました。

 調べてみると、その年の百円硬貨は大変珍しいそうですね。

 なので偶然である可能性は低いということは理解できます。

 そもそもあのお店では私に娘がいることを、決して誰にも話したことはなないのです。だからなぜ貴方が娘を知っているのかがわかりません。

 わからないことだらけです。

 私はその百円硬貨を眺めましたが、どうしてもその中に魂が入っているとは思えず、引き出しの中にしまい込みました。

 そして娘には代わりの百円硬貨を与えました。

 しかし、しばらく経つと隠しておいた百円硬貨が気になり気になり、どうしようもなくなり、私は取り憑かれたようになりました。

 もし本当に百円硬貨に自我があり、娘や私を監視しているとしたら。

 音を聴き、様子を伺っているとしたら。

 私は恐ろしさと同時に、不気味な好奇心に襲われました。

 本当に私を見ているのだろうか。

 私の全てを知っているのだろうか。

 そんなはずはないと頭ではわかっているのに、どうしても百円硬貨が私を見ているような妄想に囚われます。

 私はある実験をしました。

 お風呂に入る時にその百円硬貨を持って入ったのです。

 もちろん、なんの変化もありません。

 それなのに私は見られている感覚が確かにあったのです。

 そして私は自分のある感情に気づきました。

 見られたい。

 誰かに見つめられたい。

 それはある種の人間の根源的欲求ではないでしょうか。

 誰かに見られることによって、初めて自分という存在が確かにこの世に存在する証になったような気がするのです。

 そういう気持ちが自分の中にあることを、私は初めて貴方の手紙で知ったのです。

 主人からも女として見られていないし、お店ではお金と引き換えの視線しかありません。

 私に見られる価値はもうないのです。

 だからこそ見られたいのです。

 私はバスルームで百円硬貨をつまみ、あらゆる角度から百円硬貨に自分の身体を見せつけました。

 他人が見たら気が狂っているように見えるでしょう。でも私は真剣でした。

 気のせいか私の身体を見て、百円硬貨が喜んでいる気がします。

 私は確信しました。

 この百円硬貨には確かにイドが宿っていると。

 正直、私はあなたのイドがうらやましい。

 見る、見られるという関係性において、私は常に見る側でした。

 子供、夫、姑、ママ友たち、木曜日の店の客、他人の家庭を監視すること。

 でももうそれには飽き飽きしました。

 もう見ることに何も感情がありません。

 私は見られたいのです。

 私を、私の身体を、もしくは内臓まで私自身を見つめられることで生きる意味を感じたいのです。

 貴方はこの手紙を読んでも、自分のイドが百円硬貨に転移していることを知らないかもしれない。

 けれど貴方がいると、いつかこの百円硬貨から、また元の貴方にイドが転移してしまうかもしれない。

 そうすると、私は百円硬貨に見られることができなくなってしまう。

 それは今の私には耐えられない。

 なので貴方をお店から誘い出し、いまホテルでこの手紙を読んでもらっています。

 この手紙は狂っていますか。

 先ほどの缶ビールはもう飲み干しましたか。

 もうすぐ強い睡眠薬が効いてくるはずです。

 私はバスルームで貴方がこの手紙を読み終わるのを待っています。

 眠ったら貴方という抜け殻の存在を消去します。意味は分かりますよね。

 そうすれば百円硬貨のイドは戻る身体を失う。

 貴方が居なくなれば、永遠に百円硬貨のイドは私を見るしかなくなる。

 それとも貴方は私が百円硬貨を川に投げ捨てて、百円硬貨のイドを永遠の暗闇に閉じ込めておく方がいいと思いますか。

 永遠に孤独な世界で何も見ることもできずに暗闇の中で生きるのです。

 怖いでしょう。

 でもそんなことはしません。

 私には百円硬貨のイドが必要なのです。

 それと同じだけ、貴方の肉体が不要なのです。

 貴方はもうすぐ目を閉じる。

 あとは手紙を読み終わって眠った貴方を、切り刻んでトイレに流すだけ。

 ほんの四時間もあれば、女の手でも人間は解体できるそうですね。

 貴方を刻む血を全身に浴びた美しい私を百円硬貨のイドに見て欲しい。

 見られたい。

 見られたい。

 見られたい。

 見られたい。

 見られたい。

                                  ある娘の母」




 さて。

 どうですか。

 この返信を書いた婦人は実はもう居ません。

 婦人のイドは百円硬貨に宿り、生涯、娘を百円硬貨の目で監視する人生を選びました。

 彼女は見られる人生ではなく、結局見る側の人間でしか生きられなかったのです。

 そして今の婦人の身体には何が宿っていると思いますか。

 そうです。

 百円硬貨に宿っていた私のイドが、今の婦人の身体に宿っているのです。

 つまり――

 今、睡眠薬で動けなくなった貴方に話しかけて切り刻もうとしている私は、貴方の元のイドなのです。

 私が私を切り刻むのです。

 そして私は永遠に婦人の身体で生活します。

 今の私は婦人のイドが宿った百円硬貨と、エディスの両方を手に入れたのです。

 ところでエディス・プレザンス・リデルというのはアリス・リデルの実の妹です。そう、中年男に見られ、撮影され、会話の相手となった三姉妹の一番下の妹です。

 これからはそのエディスから、慈しみを持って見つめられるのです。

 自分の身体がなくなる喪失感なんて、取るに足りないものですね。

 では、これでお別れです。

 まだ聴こえますか。

 自分自身の解体儀式を婦人の願い通りに執り行います。

 自分の血を浴びて美しくなり、婦人のイドが転移した百円硬貨に見つめられる。

 これって素敵なことじゃないですか。

   

                                     了

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木曜日のイド うつりと @hottori

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