お腹を押すと口が開く死体(巻第二「天狗はなつまみの事」)
三河国にどうしんという僧侶がいた。
万事において恐ろしいと思うことが露ほどもない、不可解な人物であった。
平岡の奥地に、一つの神社があったが、人跡の絶えた深山幽谷だったので、いつしか管理する人もどこかへいなくなってしまい、原型を留めず荒れていた。
どうしんはここの社僧となって、年月奉職していたが、糧食などが乏しい状態なので、人家までは程遠いが、篤志を頼って斎非時を乞う暮らしであった。
ある時、里に出かけて、暮れに帰る途中、寺の近くに死体があった。
道端なので、仕方なく腹を踏んで通ろうとしたところ、死体がどうしんの裾を咥えて引きとどめた。立ち戻って腹を押すと、口は離れた。踏むと死体は口を開け、足を上げると口が閉じて咥える。
「いかにも珍しいことだな」
と思って通ったが、
「しかし何者であれば路頭にこのように斃れているのだろうか。不審なことだ。夜が明けたらすぐに然るべきところへ届け出よう」
と思い、死体を寺の門前の大木に強く縛り付け、寺に入って寝ることにした。
夜が更けて、
「どうしん、どうしん」
と呼ぶものがある。どうしんは万事に動揺しないので、眠さもあり、返事をしないで寝ていた。
死体は、
「我をば、どうして縛ったのだ。解けや、解けや」
となおも呼び続ける。
しかし、彼はそれでも取り合わなかった。
「さらば解かん」
死体が自ら縄をふっつと切ると、寺に入り、戸から入り込もうとしてきたので、
「何者であるか、見苦しいぞ」
どうしんは太刀を抜き、これを斬りつけると、死体の右手首から先がすっぱりと、落ちた。
「あ」
と云うなり、死体の姿は見えなくなった。
程なくして五更(午前四時ごろ)の空も明けてきた。
この神社に毎朝詣でている老女がいて、いつもどうしんを訪ねてきてくれるが、今朝もやってきて云うには、
「昨晩は、お坊様は恐ろしいことにお遭いされたと伺いました。本当でございますか?」
「いえいえ、恐ろしくはありませんでしたが、昨夜はこのようなことがありまして……」
と老女に語った。
「その手を見せていただけないでしょうか?」
老女が云うので、取り出して見せると、
「これは我の手である」
と自分の腕に挿し接ぎ、門の外へ出たかと思うと、再び、元の暗闇になった。
どうしんはこの時、初めて驚いて、気絶した。
次第に夜も明けて、いつもの老女が来て、どうしんの下を訪れると、気を失って倒れているではないか。人里へ戻って、大勢を呼んできて、養生してやると、どうしんは目を覚ました。
この件から、どうしんは常に臆病になり、寺からもいなくなってしまったとか。
常日頃から自慢していたので、天狗に鼻をつままれたのだろう。この話に限らず、何事においても、万事、高慢な者は、必ず災いに遭うということだ。
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