僧と稚児とイッヌと地蔵(巻第二「信心ふかければかならず利生ある事」)

 南都興福寺の宗徒に、何某という律師がいた。

 春日山の麓に、しのやの地蔵堂という、霊験あらたかな地蔵が坐す地蔵堂があった。

 律師は長年この地蔵堂に通っていたが、ある日、少し他事でごたごたしてしまい、日は既に暮れ、酉の刻の終わりごろ(午後七時ごろ)から参詣した。


 道の柴の露を払う人もなく、心もとなく、物寂しく思っているところに、どこから来たのかわからないが、一人の稚児が忽然と佇んでいた。

「こんなところにどんなわけがあってお入りになったのですか?」

 律師が尋ねると、稚児曰く、

「そなたこそどこへいらっしゃるのですか? その前に私の住まいへいらっしゃってください。ここを少し行った先が私の庵でございます」

とのこと。

「いえ、私は地蔵へ詣でるつもりですので、あなたの庵には参れません」

と律師は断った。

 稚児は重ねて、

「まあまあ、まずは立ち寄ってくださいよ」

と云って、強いて律師の手を引いていく。

 月の光の下では、稚児の顔も衣服もはっきりとわからないが、蘭麝の匂いに心惹かれ、大変に優美な身なりに、思わずドキッとして、そのまま誘われていくかと思えば、程なく稚児の庵に到着した。


 庵というが、建物は世の常ならぬ宮殿楼閣であった。

「このような立派な構えの建物がこのあたりにあっただろうか……?」

 と律師が不思議に思っていたところに、従者眷属が数多出てきて、色々と持て成してくれて、趣向を凝らした酒宴となった。

 主人である稚児も酔い、律師も酔って寝てしまった。

 夜更けになれば、仮寝とは思いながら、浅からぬ将来の約束の言葉も交わして、律師と稚児は契りを結んだのだった。


 暁方、律師はふと夢から覚めて、辺りを見回すと、幽かな燈火で照らされた稚児の顔は、絵に描いたような鬼の面貌であり、恐ろしさは云いようがなかった。

 サテ、抜き足で次の座敷も見てみれば、そこで寝ている十人ばかりの者どもも、全員鬼であった。

 どうやって抜け出そうかと、あちこち見回したが、隙間もなく建屋が続く造りになっていて、抜け出しようがない。

 何はともあれと、縁の戸を開けてみたところ、律師の飼い犬が、どこからともなく尾を振りながらやって来るので、律師は不思議に思った。

 犬は律師の裾を咥えたまま門の外へと出て、そのまま昨日、稚児と出逢った場所まで連れてきてくれた。


 律師は犬をじっと見つめ、

「汝は禽獣であるけれども、主を護るとはなんと奇特な心か。この世に限らない縁であれば、来世は必ず仏果菩提に到達できるだろう」

と云うと、常に持ち歩いている念珠を犬の首にかけてやり、そのまま放してやった。


 まだ暗い時分なので、律師はそれから地蔵堂へ詣でた。

 暫く礼拝して、サア帰ろうかと本尊に目を向ければ、先ほど犬の首にかけた数珠が地蔵に掛けてあった。

「長年、毎日欠かさず詣でてきたが、日暮れの時分に道の途中で稚児に心迷ったこと、そこで犬に引かれて助かったことは、地蔵の化現であり、道心の真諦をご教示くださったに違いない」

と心身肝に銘じて、ますます熱心に地蔵堂に詣でるようになったという。

 今生、後生が頼もしく思える悲願であるなあ、と感涙が抑えられなかったので記した。

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