第20話 目覚めない人

 隣で並んで歩く春音の言葉は、神木の耳には届かず、何処か遠くで響いていた。だが、それはいつもよりも騒がしく、動揺した時の春音に起こる、お喋りであると知っていた。


「あれ? 愁聞いてる? 夏樹君の好物が蟹だって」

 春音は、知らぬ間に夏樹の下の名を呼んでいた。


【夏樹君】

 愁を不安の文字が襲う。


「へぇ~ そんな話聞いた事ないな」

「そうなの? 蟹専用バサミなんて初めて見たわ」

「そんなのがあるんだ」

「それにしても、忙しい仕事をしている独身男性にしては、台所とか凄く綺麗にしてたよ。お坊ちゃんなのにね。あ! もしかしたら、身の回りの世話をしてくれる、彼女とか・・居るの、かもね。一人暮らしには、広すぎる住まいだったもん。掃除が大変そう。ハハ」

 自分でそう言い放った春音だが、何処からかモヤモヤとした思いが湧き出て、唇を噛み締める。

 神木は、春音の心の変化を感じ取っていた。


「講演会はどうだった?」

 神木は、春音がいつもの様に進んで自分から、臓器移植に関する講演会について、語り始めるだろうと期待していたが、まるで忘れている様子に、更に違和感が積もる。


「そうそう、凄かったわ。やっぱりアメリカには、いつまで経っても追いつけない感じだね。ドナーの数が違い過ぎる・・・・」

「冬也の選択って本当に貴重やったんやな。今でもよく思う。それに、意思カードを持ってたなんて知らんかった」

「私も」

 その後は、それぞれの脳裏に同じ記憶が蘇り、手に持つ傘先が地面にあたるのと、靴が水を弾く音だけが二人を包んだ。


 神木はいつもの様に、マンションのドアを開け春音を先に通した。

「ありがとう」

 春音が、先に入ると暗い玄関に明かりを灯そうと、電気のスイッチに手を伸ばす。しかし、背後でドアが閉まるのと同時に、神木に抱きしめられたのだ。


「愁、どうしたの? 疲れた?」

「春、何かあった?」

「え? 特に何も」

 春音の脳裏には、夏樹の胸にあった手術痕や、彼とのキスが浮かび上がったが、咄嗟に嘘を付いてしまう。


「最近、冬也をしょっちゅう思い出すんだ。なんでだろう」

「お母さんに、お墓参りに来なさいって言われた。愁は、行ってくれているけど、そろそろ二人が、私にお冠なのかな?」

 春音は応えながら、鞄から手を離すと抱きしめられている神木の腕を両手で掴む。そして、首を後ろに回すと神木とキスをした。

 その夜、二人は身体を重ねた。

 神木は決して無理強いはしないが、この夜だけは春音を強く求めた。


 子供の頃からずっと傍に居てくれる神木は、常に春音を一番に考え、支え続けてくれたのを知っている。どれだけ感謝してもしきれないほどの恩があるのだ。

 春音の変化には、いつも敏感だが、彼女から口にするまでは、優しく寄り添うだけで、強引に問い質す事は一度も無かった。

 今回も同じだ。神木は、異変を感じ取っているが、春音に聞いては来ない。だが、いつもと違うのは、この事によって苦しんでいる。そして春音も罪悪感を抱き始めたのだ。


 春音は、隣で静かな寝息を立てる神木を見つめながら、冬也の心臓の事、夏樹との事をいつか話すべきだと自戒する。


【私なんかと一緒に居たら、愁はダメになる】

 目頭が少し熱くなったため、起こしていた身体を横にすると目を閉じた。



 夏樹は、病院のパソコンに向い、診断書を作成していた。

「失礼しま―す。あれ? ここにも居ない? あっ夏樹ぃ、壮太じゃなくて、佐野先生知らない?」

 外科の医局入口に循環器内科の伏谷京香ふしやきょうかが、両手を白衣のポケットに入れ立っていた。

「伏谷医長、お疲れ様です。佐野先輩? 自室にいませんでしたか? 携帯は? って、もう試してますよね」

「居なーいし、電話も出ない! 緊急だったらどうするのよね。全く副部長なのに」

 夏樹と会話している伏谷が、彼女の背後に気配を感じた。

「あ、院長。壮太ここには居ません」

「そっかぁ 携帯に出ないって事は、やっぱり、あっち寄ってから来るんだったね」

「私、行って来ます。院長室って伝えれば良いんですよね?」

「そう? じゃあお願いします。ここに戻って来るかもしれないし、僕は、なっちゃんタイムしてるから」

 夏樹は、伏谷が亮一郎と会話していると分かり、話に加わらなかったが、聞きたくない一言により恥ずかしさで一杯になった。

【なっちゃんタイムって、おい!】


 院長と別れた伏谷は、ある病室のドアをノックすると、応答も待たずに中に入った。

「やっぱりここに居た。壮太」

「京香。お疲れ。どうした?」

 伏谷に応じた佐野の前には、痩せ細った一人の女性が横になっていた。

 患者の名は、伏谷涼香ふしやすずか。伏谷京香の一つ歳下の妹で、三年程前に入院して以来、昏睡状態にある。

「涼香、変わりない?」

「ああ。先週瞼が動いたって言ってたから、ずっと期待しているんだけどね。まだ眠いみたい」

「見間違いだったのかな? でも、確かに目が開きそうに見えたんだけど」

「気紛れ屋さんだからね。その内起きるよ」

 佐野は、伏谷に向けていた視線を涼香に戻した。

「あっそうそう、院長が呼んでる」

「え? 何か嫌な予感。げっ、もしかして、例の美人営業に、誰かしてやられたとか?」

「かもね~ 私も詳しくは知らないけど」

「エロ親父ども、まんまと落とし穴に落ちたかぁ」

「とにかく、早く院長室に行って。亮さん命令」

「へいへい、分かりました」

 佐野は、座っていた椅子から重い腰を上げると、横になっている涼香に口づけをした。

 病室のドア近くに立ったままの伏谷は、少し寂し気な表情で、そんな佐野を見つめた。


「じゃ、行くね。また来るよ」

 佐野は、そう涼香に告げ、立ったままの伏谷の肩を軽く叩くと、病室を後にした。


 病室に残った伏谷は、妹のベッドに近づくと、今まで佐野が座っていた椅子に腰を下ろした。

「すず、早く目を覚まして。でないと私、もうこれ以上見ているの辛い。私だって壮太の事、まだ好きなのに・・・・ずるいよ。彼を私から奪っておいて、こうやって心を縛り付けるなんて・・壮太が、可哀想・・だから、早く起きて、すず」

 伏谷は、涼香の脇に顔を埋ると、声を殺して泣いた。

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