袖触れ合うひと夜

宇津喜 十一

袖触れ合うひと夜

「そこの縄で俺の手足を縛ってくれないか」

 突然そんな事を言い出した彼に私は「はぁ」と曖昧に答えながら、彼の茶色い鞄からはみ出ているごくごく普通の縄を引っ張り出しました。

 どうして鞄の中に縄が入っているのかしらとか、何故縛って欲しいのかしらとか、気になる所は多々ありましたが、どうにもそれを尋ねる勇気が私には無かったので御座います。

 揃えた腕を前に突き出して私を待つ彼の表情は微塵も巫山戯ている様子はなく、真面目その物です。私には理解出来ませんが、恐らくこの行為は彼にとってとても重要な意味を持つのでしょう。私はぐるぐると骨張った腕に縄を巻きつけながら、そう思う事に決めたのです。

「鞄の中にもう一つ縄が入っているから、それで足も縛ってくれないか。ああ、それだそれだ。よろしく頼むよ」

 彼の言う通りに足も縛ると、すっかり大きな芋虫が一匹誕生しました。彼はその姿のまま器用に移動すると、畳の上に二組敷かれた布団の内の一つへと潜り込んで行きました。その姿はとても滑稽ではありましたが、真面目な顔の彼を見ると笑う気も湧かず、惚けた顔で彼の一挙一動を見ておりました。

 随分と変わった方でいらっしゃる。

 彼は不自由な腕を動かし、掛け布団が体を包み込む形になるように苦心していました。私がそのお手伝いをしますと、理想の形に近付いたのか彼は「もういい、これでいい、有難う」と、微かに微笑みながら言いました。

「俺はもう寝るから、貴女も早く寝なさい」

 さらりとした特徴的な声で私に言います。私が少し驚きながら小さく「はい」とお答えし、明かりを消して、彼の隣に敷かれた床に入りました。布団に体を滑り込ませると、ひんやりとした感覚が全身を包み、私は体を震わせました。初めて使う布団は、今までに嗅いだことのない他人の家の匂いがして、落ち着かないような、もっと嗅いでいたいような妙な心地にさせました。

「なあ」

「はい」

 彼の方へ顔を向けると、彼はこちらに背中を向けていました。

「えっと、そのなんだ。緊張する事も、恐怖する事もしなくて良い。俺はこの通りなんだからな。だから、さっさと安心して眠るといい。もしかしたら、寝言やら鼾やらで俺が五月蝿くしてしまうかも知れないが、そこは俺の意思ではどうしようもない事だから、了解してくれ」

 言葉を選びながらたどたどしく、それでもはっきりとそう言うと、彼はそれっきり一言も喋らなくなりました。

 彼が己を縛れと言ったのは、彼の望む所ではなく、唯私が安心して休めるようにという配慮だったのでしょう。私は申し訳ないような、嬉しいような気持ちで、彼の背中を見つめていました。


 私と彼は、夫婦でも恋人でもありません。

 今日、初めて出会った他人でしかありません。特別な感情など全く御座いません。

 彼は、初めて此処に訪れ戸惑っている私を見兼ねて親切で話掛けてくれた方で、今日泊まる宿も泊まる為のお金も無いのだと話すと、哀れんでくれたのか、自分がお金を出すからあそこの宿に泊まるといいと指を指しながら仰いました。私が遠慮すると、「何を言う。もう夕刻だ」と、彼は私の手を引いて見慣れぬ街の中を滑らかな動きで進んで行きました。風が吹く度翻る羽織には幾つも皺があり、彼は独り身なのだろうと思われました。私が「地元の方なのですか」と、お尋ねすると、最初私に話し掛けて来た時と同じ仏頂面で、「旅行者だ」と答えられました。確かに、彼の手には大きな茶色い鞄があり、どうやら、彼は此処には幾度も訪れた事があるようでした。

「金は無いが、働くのは面倒だし、家で寝転がって本を読み耽るのも飽きたので、こうしてそこらを旅して回っているのだ」

「失礼ですが、何処からいらしたのですか?」

「東京だ。あそこもなかなか面白いが、一、二年も暮らせば飽きて来る」

「まぁ、東京から態々こんな辺鄙な所まで」

「それは貴女も同じだろう。貴女が地元の人間でない事は一目で分かる。さぁ、此処だ。此処は値段が安い割に飯が美味い」

 そう言って、彼は私の手を放しました。手を引かれている間、歩幅の大きい彼に合わせて歩くのは大変でしたが、こうして放されると何だか淋しいような心地がして、私は握られていた手をもう一方の手で何度か撫でました。

「おい、着いて来ないか」

「は、はい」

 彼の言葉で我に返り、慌てて民宿へ入りました。

 民宿は外観と同じく、内装もかなりの築年を経ているようでした。彼が下駄を脱いで玄関直ぐの部屋に上がりましたので、私も下駄を脱いで着いて行きました。部屋は全体的に薄暗くてあまり人気もなく、板張りの床は、今まで何度も人の往来があったせいか、ニスがすっかり剥がれて艶がありませんでした。一歩足を出す度にぎしぎしと軋み、忍び足で歩いてもそれが弱まる事はなく、気恥ずかしく思いました。

 近くの山で捕ったのか、鳥や動物の剥製が飾ってある部屋の中央には、幾つかの座布団と机が並んでおり、そこにある座布団の一つに座っている女性に彼は話し掛けました。

「お久しぶりです、里見さん。部屋を二つ用意して欲しいんですがね」

「おや、坊っちゃん、また来たのかい」

 里見さんと呼ばれた女性は、50から60代くらいの少し恰幅の良い女性でした。小豆色の着物を着た彼女は立ち上がると、「ちょっと待ってな」と女性にしては低い声で告げると、何処かに行ってしまいました。と思うと、直ぐに何かを持って戻って来ました。

「ほら」

 と言われて手渡されたのは、番号の書かれた板とそれに繋がった鍵でした。板はとても年月が経っているようで、書いてある数字が擦れて読み辛くなっていましたが、鍵の方は真新しいらしくぴかぴかとしていました。

「鍵をつけたんですね」

「最近は物騒だからねぇ。しかし、二人でだなんて、あんたも隅に置けないねぇ。けど、なんだって二部屋なんだい。一部屋でいいじゃあないかい?」

「いや、この人とはそう言った関係じゃあないのです。彼女に失礼ですよ。宿が無いと言うので連れてきただけです」

「まぁ、あたしはちゃんと料金を払ってくれたらいいさ。お金はあるんだろうね。そちらのお嬢さんも」

「一泊幾らだったかな」

「すっとぼけて。何度も泊まってるだろうに」

 彼は懐から財布を取り出して、中身を確認すると眉を顰めて困った顔をしました。

「嗚呼、これはちょっと困った事になった」

「泊まっておいて払えないは困るよ」

「まだ、泊まっちゃあいませんよ。里見さん、今回俺はやめにします。この人だけ泊めてやってください」

「え、あ、あの」

「おや、じゃああんたは何処で寝るんだい」

「最近は随分暖かくなって来ましたからね。どうにかなります」

「それでは、貴方が大変です。私の事は気にせず貴方がお泊りください。私の事は自業自得ですから、これ以上ご迷惑をお掛けする訳には行きません」

「しかし、だからと言って、女性を一人夜道に放り出すのでは、俺にも見栄と言う物がある」

「ですが」

「一部屋分のお金はあるんだろう?」

 割って入って来た里見さんの質問に、彼は一瞬言葉に詰まった様子でしたが、直ぐに「ええ」と答えました。

「ですから、これで彼女を泊めてやってください」

「そういう訳には出来ません」

「痴話喧嘩はやめな。一部屋分の料金が払えるのなら、二人で一部屋に泊まればいいじゃないか。食事代なら今回まけて一人分しか請求しないでやるよ」

「え」

「いや、あの、里見さん。有難いですが、それは世間体というものが」

「あんたもいい年だ。自制心はあるだろ。別に言い触らしゃしないよ」

 里見さんの突然の提案に、彼は会ってから初めて表情を大きく崩しました。慌てて、断る彼を見て、今でもどうしてだか分かりませんが、私は「それでお願い致します」と女将さんに頭を下げたのでした。


 今、私の隣で穏やかな寝息を立てて眠る彼は、どうして私にこんなにも親切にしてくれるのでしょうか。どうして一人で彷徨っていた訳を訊かないのでしょうか。

 名前すらもお互いに知らないまま、こうして枕を並べている。

 こんな奇妙な事はあるものでしょうか。


 私は逃亡者です。家から逃げて参りました。

 許嫁という、親同士の約束で決められた関係を、私は古臭く、煩わしく思っていました。それを知ったのは十の年頃だったでしょうか。一度も会った事もなく、人物像に関しても人伝の曖昧なものでしたから、私は見たこともない夫を想像で脳内に作り出しては不安で恐れたものです。もし、乱暴な人だったら、酷い事を言って来たら、そんな事が際限なく膨れるばかりで御座いました。また、私は読書が好きでしたから、それを咎めるような方であったらどうしようと思ったものです。しかし、それを厳格な父や、いざ婚礼の時を迎えて喜ぶ母に、絶対に嫌だと突っぱねる程の強さを私は持っておらず、結局あれやこれやと杯を頂いてしまいました。

 隣で正装を身に着け、姿勢よく佇むその人の表情は硬く、時折視線が絡む度にすぐに私は俯いて視線を逸らしてしまうのでした。紅白な周りが盛り上がるのと対照的に、私達は静かなものでした。今思えば、その人も緊張なさっていたのでしょうけれど、その時の私は何だか彼がとても恐ろしく思えたのでした。

 式を終えた後も特に言葉を交わす事もなく、これから先について私は最早諦念を抱いていたので御座います。お嫁に行くのだと覚悟はそれなりにして来たつもりではありましたが、しかし、その婚姻自体を私が納得していない事をその人は見透かしていたのでしょうか。一向に私達に会話はなく、私は夫であるその人を恐れてばかりいました。まるで自分が一個の道具になってしまうような、恐怖を感じていたので御座います。

 それは段々と膨れ上がり、遂には、私は夫の家から僅かなお金と着替えを持って衝動的に飛び出してしまったのです。

 そして、此処に来るだけでお金を使い切ってしまい、途方に暮れている所を、彼が見付けてくれたのです。


 今、微かに寝息を立てて眠る彼は、きっと私の嫌がる事、乱暴な事はしないだろうと思えます。ほんの少し言葉を交わしただけでは御座いますが、何と無く彼の人となりというものに触れた気がするのです。こんな人が夫であったなら、私は家を飛び出したり等しなかったのでしょうか。

 いえ、いえ、結局私は自分しか見えていなかったので御座いましょう。己の感情に囚われて、夫を一方的に恐れて、その人となりに触れなかった。でも、今なら、指先だけでも触れてみたいと思えるのです。

 私は暖かな気持ちになって、目を閉じました。途端世界は暗闇に落ちてしまいますが、不思議と勇気のような物が湧いて来て、恐ろしさなどはあっという間に駆逐されてしまうのでした。

 明日は早く起きて彼の縄を取ってやろうと私は思い、闇の深く深くへとおりて行きました。



 ────────────────────



 俺は布団の中で狸寝入りをしながら考えていた。隣の女の事だ。

 何故話し掛けてしまったのだろう。普段ならこんな事はしない。今までにない精神状態だったから。それくらいしか答えは見付からないが、今でも自分の行動に驚く。

 俺は此処には死ににやって来た。

 動機は口にするには至らない瑣末なものだ。空虚な脳の虚の大きさに耐え切れなくなった。子供の頃にはなかった、だが今は確かに俺の中に横たわるそれは、凡ゆる物を飲み込んで俺を虚しくさせる。何の甲斐もなく、意味もなく、ただ漠然と過ごすことに一度違和感を覚えれば、もう立ち止まれなかった。

 この場所を選んだのは、幼い頃から此処の景色が好きだからだ。周囲を橅が群生する山に囲まれたこの場所は、酷く澄んでいて、山間から流れる川のせせらぎは、心を清らかにしてくれる。そして、そんな土地に住んで居るからか、地元の人間は皆明るい性根の持ち主で、彼らと会話をしていると真っ黒に汚れた自分の心が幾らか薄らいで行く心地がしたものだった。

 そんな土地だからこそ、俺は此処こそと思ったのだ。

 この手足を縛る縄も、首を縊る為の物だ。二本あるのはただの予備だ。


 隣にいる女はもう寝ただろうか。

 もぞもぞと動く音がする。寝返りでもうったのだろう。

 名前も知らないまま、このまま別れる女。

 俺は、誰かを求めていたのかもしれない。曖昧な周囲に溶け込みそうな自分を引っ張り出して、輪郭を与えてくれる存在を。そう思っているからこそ、街並みに溶け込み消えてしまいそうな彼女に声を掛けたのだろうか。或いは、最期に誰かと会話したかったなんてちんけな理由なのか。

 少なくとも俺の心は今、穏やかで波もない。それは俺一人では迎えられなかったろう。

 明日、朝になったら山に登ろう。

 彼女と別れた後で。

 橅の森へ旅立とう。

 そう予定して、俺は布団を掛け直し、今度こそ本当に寝入ったのだった。





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