〈二〉



 どうして、と問うてきた声はいとけなく、己の願望が果たせないことに困惑し悲しんでいるようだった。


『どうして瓉明は一緒にごはんが食べられないの?』


 幾度となく交わされた問答だが彼は飽きもせず毎回尋ねてくる。困って首を振れば、袖を握ってきて駄々を捏ねた。


『わたしがわがままだから?』

『いいえ、そのようなことではないのですよ』

『では、母上から言われているの?』

 違います、と言うと泣きそうになった。

『では、では、わたしが、おきらい?』

『とんでもない』


 真実、とんだ誤解だった。瓉明は幼い彼を大事に思っていたし、こうして悲しませるのは本意ではない。しかし望みを叶えてやることも出来ない。自分は、彼とは途方もなく隔てられている。身分という壁によって。


『……殿下。それがことわりなのですよ。瓉明はご相伴しょうばんにはあずかれません』

『いやだ。淋しいよ』


 ついに涙を零しだしたのをやるせない思いで拭ってやるしか出来ないのだ。さらにこう言っておためこがしにとりなす。


『瓉明がもっと偉くなったあかつきには、きっと』


 聡い幼君がそれをどれほど信じたかは分からない。慈悲深い彼は困っているこちらに気を遣ったのかもしれない。大抵そう言えば必ず、きっとだよ、と泣き腫らした目でおとなしく下官に連れられて去っていく。その小さく頼りなげな背を、ただ見つめるのみなのだった。



 己の出自を恨んだことは無い。むしろ恵まれ、厚遇されていると思う。だから不満もないが、こと彼の要望を聞いてやれないことにおいてだけは申し訳なく思った。席を並べて食事をするのはほんとうに、やっと今の将軍という立場になって初めて許しが出るか否かというくらいなのだ。育った彼はもう以前のように我儘を命じることはないが、こちらから共に皿をつつこうなどと、口が裂けても言えはしない。



 ――――なにせ、彼は正当なる泉根、王位継承者のひとりなのだから。







「将軍。……将軍」


 幕外から抑えた声があり、ふっと目を開いた。すでに陽は傾き、あたりは薄暗い。

「信宜か?どうした」

 幾らかすっきりとした心地で起き上がり、額を押さえながら問うと声が続いた。

「なにやら不可解で」

 そのまま寝入ってしまったので軽くえりを整えたのみで、入口から顔を出した。

「不可解?」

 ひそめきに信宜がさらに低く、「兵たちが戻ってきたのですが……」と困惑した。


 瓉明はあてがわれた天幕から少し離れた兵営を見渡す。周囲はがやとした喧騒に満ちている。

「ひどく怪我をしています。五泉の演習はこれほど苛烈なのですか?」


 信宜は五泉に来るのが初めてだった。この春新たに中軍に転属になり、由歩だということもあって足を引っ張らないだろうと瓉明の出張に付き合ってもらったのである。


「ああ、君は知らないだろうが、五泉の模擬戦は激しいぞ。棒切れといえ容赦ないから」

「棒切れ……?」

「さすがに真剣は使わないだろうけれど」

 そういなしたが信宜はなおもいぶかる目で一点を指した。

「では、あれは何なのです?」

 見た先、脚を怪我したのか、負傷兵がもう一人の仲間に肩を支えられ天幕に入るところだった。歩む脚は三、あとひとつは杖。

「片脚を失くすほどの棒切れとは……」

 瓉明はぽかんとその様子を見て、いそいそと天幕から出た。泥と血のにおい、埃っぽい風と鉄錆の粉。


「………………?」


 理解出来ずに佇んでいると、ひづめの音が近づいてくる。二人の前で馬を止めたのは昼間の少年のような男だ。


「お具合はどうですか、瓉明どの」

「おかげさまで。広清殿、演習はおしまいですか」

「ええ。今日は引き揚げです」

 穏やかに言った広清の顔には黒い飛沫が散っていた。

「……失礼ですが、なかなかに激しいようですね?」

「いつでも全力です。そうでなければ演習の意味がありませんから」

「真剣での模擬戦はあまりにも危険ではありませんか」

 信宜が問えば首を傾けた。

「綿を巻いた棍棒ややじりを除いた矢箭やせんしか使いませんよ?」

「しかし、脚を失っている兵を見ました」

「見間違いですよ。暗いですしね。松明たいまつを持ってくるよう言っておきます」

 広清は至極あっさりと言い置き、食事を用意させる、と風のように去ってしまった。


「……見間違いだったかな?」

「なわけないでしょう」

 信宜がうたぐり深い目で訴えた。「他の兵も見てきます」

「私も行こう」


 二人は天幕を離れて怒号に近しい兵士たちのざわめきのなかへ足を踏み入れた。多くは幕内に入ってしまっていたが、外にいて自分の傷を手当している兵がいたので近づく。

「もし、そこの御仁。少しいいだろうか」

 俯いていた兵はびくりと肩を揺らして上向いた。こちらの姿をみとめて目を丸くする。

「あ、あんたは」

「わけあって滞在している者だ。ひとつ訊きたい。今回の演習はたいそうな力の入れようだが、何か特別な理由でもあるのだろうか」


 はっとして何かを悟ったような男は瓉明と信宜を交互に見比べた。直後、いや、その、と愛想笑いをして頬を掻く。

「なにせ先を尖らせた木剣で突いたり、弦を緩ませてない弓を使うから。真剣とまではいかなくともそれなりに」

「なるほど。あくまで実戦にかぎりなく寄せている、ということか」

「ええ。そういうことです。……それでは」

 男はあたふたと立ち上がると行ってしまう。見送って瓉明は腕を組んだ。信宜が否定する。

「絶対嘘です。この血のにおい、尋常じゃない。どこかに死体も隠している。将軍、離れたほうがいいのでは」

「とはいえ確証もない。少し外を見て回ろうか」

 しかし踏み出したところで後ろから声をかけられた。

「お戻りください、四泉中将軍殿」

 硬い声で言ったのは広清が従えていた下官だ。

「まだ兵たちへ紹介もしていないうちから出歩かれては混乱のもとです。どうぞお戻りを」

「……少し散策したいのだが、いいだろうか」

「もう夜です。それにここらへんは危険な獣も多い。明日になさってはいかがです?」

 有無を言わせない口調になおも言い募ろうとした信宜を目線で押しとどめ、それ以上抗わずに天幕へと戻る。夜中に抜け出そうかとも考えたが、幕外にはそれとなく見張りが立ち囲まれていたので余計な波風を立てるのも本意ではなく、渋々探索を諦めた。



 翌朝、身支度を終えて外へ出ると広清が待っていた。昨日と変わらぬ笑みで挨拶する。

「おはようございます。本日から演習場にてご指導頂きたく。ご案内致します」

「あの、太学に顔を出さずとも良いのですか?」

「問題はございません。すでに連絡してあります。到着をお待ち申し上げているあいだに演習が前倒しで始まってしまったので、直接お招きしました。さあ、行きましょう」


 そうして案内されたのは駐屯地の丘陵を一度登って下りた裏側から広がる大きな平野だった。遠く境界線にこちらとは異なる天幕と蟻のように動き回る粒が見える。目を戻せば、武装した兵卒が整列して瓉明たちを待っていた。


 広清が馬上から声を張った。

「皆、伝えていたようにこちらが四泉国禁軍中将軍殿であられる!本日より我らと共に戦ってくださる!今一度士気を高め、恥を見せぬよう心気を整えよ!」


 おお、と喊声かんせいを響かせる彼らを瓉明はつぶさに観察する。怪我をしている者が多い。なかには重傷そうな兵もいた。信宜の言うように模擬戦にしては激しすぎる。なにか方針でも変わったのかと思ったが、演習ごときで兵を使い潰すはずもない。


 引っ掛かりをおぼえつつ本営の大天幕へといざなわれた。簡易とはいえ木組みの骨に厚い羊皮を接ぎ合わせた帷帳とばり、幕内奥、金象嵌ぞうがんの虎をかたどった台の衝立ついたてを背に豪勢な座。しかしそこには何者の姿もなかった。


「この御座ぎょざは……?」

「ああ、総指揮役の方がおられるのですが、今は外されていて。この部隊は私が預かっておりますから支障ございません」

 総指揮……役。の座にしては本格的に絢爛なこしらえだった。瓉明は広清に向き直った。

「そういえば、広清殿のお役目をお伺いするのを失念していました。なかなかに大規模な模擬戦のようですが、禁軍主導ですか」

 彼はにっこりと笑んで、その通りです、と頷いた。

「私は西軍、撫軍ぶぐん将軍を拝命しております」

「西軍?」

「ご説明致します、瓉明どの」

 広清は下官に図面を広げさせた。

「今回の模擬戦は国家主導の総当たり戦、のような形式を取っております。つとめて実際の戦線と同じように大将首をったほうの勝ちです。勢力は三つ。全州を三つに分け、泉畿みやこと隣州二州が央軍、東三州を東軍、そして西三州を西軍の領地として軍を配備しています」

「なんと……大規模な」


 瓉明が困惑して信宜と顔を見交わした。一国全土、九州を跨いでのこんな演習など、聞いたことはない。


「市街地でも戦闘を?」

「今回の演習は罠や不意打ちなんでもござれの無頼戦でございます。ただし、無関係の民を人質に取ったり怪我を負わせたりなどは厳禁です」

「とはいえ、被害が全くないという訳ではないのでは」

「瓉明どのは心配性であられますか」

 ずばりと言った広清に信宜が、無礼です、と声を上げた。

「仮にもこちらは招かれて来ているのです。であるのに詳細を何も伝えられずにいきなりこのように大規模な演習場へ連れてこられたとたった今知ったのです」

「驚かれるのも無理はありませんね。失礼しました」

 けろりと手を挙げた広清を瓉明は窺う。

「あの、これは国を挙げてのこととか。五泉主はそれほどまでに軍備の充実にご執心なのでしょうか。五泉は昔から軍兵の教育が盛ん、なにも民を巻き込むような演習を行わずとも他国よりよほど練兵度の高い軍だと、蚊帳の外の我々は思ってしまいますが」

 そこまでしなくても本当の戦など無きに等しいのに、と言外に含めたのを広清はさもありなん、と頷いた。

「四泉の御方々はそう思って不思議はないでしょうね。しかし、我が五泉の泉帝せんてい陛下は幼き頃より勇猛な武断の王です。ご自身がかようにお強くあられるのに、おまもりする我々が腕において王より弱くては話になりませんでしょう。陛下はそれが気掛かりなのです。これは泉帝泉主主導の一大事業なのです、瓉明どの」

 そう言われてはもう瓉明には疑いを差し挟むことは出来ない。ただ頷いて広清の邪気のない顔を見つめた。

「であれば、私は西軍の御方々に招かれたということですか?」

「黙っていて申し訳ありませんでした。しかし、あなたはあくまで軍事顧問としてお呼び立てした次第なのです。仮にも他国の将軍閣下を前線に出すなどとんでもありませんから。瓉明どのにはこちらの戦況をご理解頂きつつ、我々が泉畿みやこれるような作戦の立案に手を貸して頂きたいのです」

「泉畿を獲る?獲れば勝ちなのですか?」

「そういうわけではありませんが、ともかく優勢に立てます。働きにかかわらず、瓉明どのには多くの報賞が与えられます。どうぞよろしくお願い致します」

「それは別に無くても構わないのですが……あの、この模擬戦はなかなかに長期でございますね?」

「もちろん、無理にお引き留めは致しません。しかし四泉では特に国内の混乱も無く平和そのもののようですし、少しばかり長くなっても差し支えないのではと。どうでしょう?」

「それは……そうではございますが」

 複雑な心情の声音には気がついていないのか、良かった、と広清は屈託なく両手を合わせた。

「ではご心配なされてもいけませんし、こちらから貴国には改めて書状をお送りさせて頂きます。――さっそくですが、今の我が軍の状況をご説明致しますね」





 どう思う、と尋ねるとしもべは渋い顔をした。

「到底信用はできませんね。全国における演習なぞ。それに、なにやら不穏なこともおっしゃっていた」

「大将首を獲れば勝ち……比喩ではなく?」

「そう願いたいですが、模擬戦と言うにはいささか苦しくはないですか」

 たしかに、と夜空を見上げる。

「そう考えると民を巻き込まないというのも虚偽だと?」

「分かりません。……けれども、将軍。我々はもしや、なにかとんでもないことに巻き込まれているのではありませんか?」

 そう思えてならない、と言った信宜に瓉明は悩んで顎をさする。

「いずれにしても、タダで我々を帰す気はないようだしな…………」

 ちらりと窺えば宿営の周囲にはやはり遠巻きに監視がいる。

「少々荒事にしてでも国にお戻りになられるというのは?」

 提案にさらに唸って頭を掻いた。

「どうしようかなあ。彼らの真意がいまだ掴めないし、それに私に助力して欲しいというのはどうやら本当のようだし。無下にするのもなあ」


 これか、と信宜は呆れて肩を落とした。噂に聞く『お人好しの中将軍』の片鱗だ。


 まだ瓉明の下に付いて三、四月程度だが、この将軍は出会った時から鷹揚でともすれば暢気な人柄で、おおよそ軍属だという覇気も威厳も感じられない。兵卒の間では(きっと揶揄も込めて)お人好しの渾名を献上されていた。なぜこのようなひとが禁軍中将なのかと周囲に問えば、声をひそめてまことしやかに教えられた。



 ――――中将軍は、四泉主の庶子である、と。



 信宜はそれで納得した。一歩たがえばそれは泉根という並ぶべくもない貴重で神聖な方々だ。庶子は王統譜には列せられないから異なるとはいえ、そのような出生の経緯ならばたとえ実力が伴っておらずとも高位を賜るのは自然なことか、とごく普通に瓉明を侮っていた。

 だからたびたび五泉に招かれていると聞いて少し見直した。軍兵を養成する太学は大泉地においては五泉がもっとも盛んで人気であり、卒業してからも長年そのように招聘しょうへいされる者など滅多にいない。しかも隣とはいえ他国からわざわざ呼び立てるのはよほど瓉明の能力を買っているのだ。そうして今年も招かれ、自分が伴に選ばれた時には期待に胸を膨らませた。普段ほとんどを机の上で書類に囲まれているだけの主が、いったいどんな姿で兵を動かすのだろうと。


 しかし――と信宜は眉尻を下げた。瓉明は五泉に到着してからもまったく変わらない。いつものように誠実で柔らかな笑みで応対し、このように優柔不断な様をはばかりもなく見せる。


(期待はずれだったのだろうか)


 そんな落胆をよそに、当人はなおも首を捻っている。

「まあともかく、明日は北へ移動するようだし、しばらく状況を見よう。関わるにつれ彼らの言が嘘か真実まことかも分かってくるだろう」


 瓉明のほうは、是、と返事をしたもののどこかつまらなさそうに頭を下げた配下を瞬いて見つめ、苦笑した。どうやら何かがっかりさせてしまったようだった。





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