〈一〉



 瓉明さんめい四泉しせん国で将軍を務めている。将軍といえばなんだか偉そうではあるが、四泉は建国以来長久にわたり平和を築いてきた泉国であり、自国での軍閥というのはそれほど身分の高くないものだ。常任の務めとは多くは泉宮と市中の警邏に加えて河川の水工、たとえば護岸工事や堤の建設、各泉の浚渫しゅんせつの為の人夫として徴用されるくらいである。軍属の多くは軍訓練と犯罪者の刑罰と処刑においてのみでしか武器を扱わず、ために戦を経験したことのない兵卒が過半を占めた。彼らはただ食い扶持を稼ぐ目的で入軍している。人の持つ爵位には昇級の条件として軍功が挙げられるが、戦のない四泉においてはほぼ不可能なのであり、よって軍属とは閑職に等しかった。


 そんななかで武の才を磨き、留学るがくしてここ五泉国の軍学校で修練を積んだ。そんなもの、なんの役に立つのだと言う者もいたが、おかげでたいした研鑽なく禁軍の末席に籍を置くことになった。


 軍学を修了する前から瓉明の評判は五泉の中では高く是非にこちらで任官しろという誘いが引く手あまただったが、瓉明が軍兵の道を志したのはいくつか理由があり、結局は多くの勧誘や脅迫を断って自国で入軍を果たした。しかしその後も太学の教師や教官のおぼえめでたくたびたび五泉へ招かれて演習指導を頼まれ、こうして由霧を渡っていた。


 今夏に舞い込んだ依頼も、そんないつもの誘いのひとつだった。ただ常とは異なったのは太学からの要請という形ではあったが、迎えてくれた使者が軍兵――正規の五泉兵だったということだった。





 四泉は大泉地の西端に位置し、五泉は由霧に覆われた山脈を挟み東隣にある閉塞した小国である。四泉東州はきょう州へ舟を使って泉川を下り、国端から馬に乗り換えて毒霧の山岳地帯を約十日かけて横断する。


 由霧は大抵の人間には渡ることが出来ない。そういう只人のことを『不能渡わたれず』と呼び、不能渡のほうは毒に冒されない体を持つ稀な渡霧者を『由歩ゆうほ』といった。瓉明は多くの者と同じく不能渡ではあるが、そのような者は霧を旅するにつき薬水を服用し毒を緩和する。しかしこの薬水、人によって効きが異なり、飲み過ぎれば耐性がついて効かなくなってゆくという代物で多用は危険であるので、四泉と五泉を頻繁に行き来するためにいつも飲み過ぎないように注意しているのだった。


 服用を控えるということはその分毒に苛ま《さいな》れるということ。霧を渡る十日間はとにかく不調である。がんがんと痛む頭をなだめて道幅の狭い渓谷を進む。前を行く馬に乗った配下が心配そうに振り向いた。


「将軍、平気ですか」

「ああ……うん。いつものことだ」


 平気なはずはないが他にどう問えばいいか分からないのだろう、上官の応対に申し訳なさげにしたあと、あと少しで抜けます、と谷の先を指した。


信宜しんぎ、君は大丈夫か?」


 問うてみればもちろんです、と意気揚々と返され、瓉明は少しだけ羨ましく思って嘆息した。彼は四泉人には珍しく由歩だから、この紫の濃霧の中に入っても平素と変わらない様子で手綱たづなを握っている。自分は悪心で吐きそうなくらい気分が良くない。何度も経験していることだが、やはり十日前後もこれが続けば食欲も出ずやつれる。そこをなんとか到着した時に寝込むような粗相をしないよう踏ん張るのは大層疲れるが、せっかくの招待を台無しにしてしまうのは心苦しく自分自身もいたたまれないので、体力だけは落とさないよう食事は抜かないようにしていた。


 渓谷を抜けて岩土の平原に出、そこからまたしばらく行くとようやく靄が薄らいで森になる。轍道わだちみちを通ってならされた街道に接続しやっと由霧を完全に背後に追いやった。五泉との境界、その入口である西州の一に出たのだ。ほっとして冷や汗を拭っていたところで、街道の向こうに馬影をみとめて軽く手を挙げた。近づいてきた黒点は三、甲冑よろいに騎馬で軍兵の姿、それが分かって二人は怪訝に顔を見合わせた。いつもは太学の訓練兵か教官が出迎えてくれるのだが。


「――――あなたが、四泉の瓉明どの?」


 掛けてきた声は若い。


「いかにも、四泉国禁軍中将軍であられます」

 信宜が代わって答えると声の主はおもむろにかぶとを脱いだ。少年のような顔の兵だ。親しげに笑むと頷いた。

「ようこそ、五泉へ!瓉明どのの芳名はよく聞き及んでございます」

「こんなさまで申し訳ない。お気を悪くしないで頂けると嬉しいのですが」

 蒼白な顔に彼は首を振り、馬上でしもべらと共に軍礼してみせた。

「全くそんなことは。こちらこそ御足労頂き申し訳ない。名乗り遅れました。お初にお目もじつかまつります、私は広清膂兒こうせいりょじと申します。ところで、そちらは?」

 信宜に顔を向けられて瓉明も頷いた。

「私の下官です」

「中軍従事中郎じゅうじちゅうろう信宜と」

 広清は信宜にも礼をし、では参りましょう、と馬首を返した。瓉明はそれを止める。

「あの、すみません、いつものお出迎えの御方々ではないようにお見受けしますが」

 ああ、と広清は爽やかに笑ってみせる。

「今回は少し手違いがありまして、私どもが参上致しました。これが証書になります」

 手渡された太学の証書を見てともかくも納得し謝った。

「疑って申し訳ありません。なにぶんその、貴国には大変お世話になっているのですが、恩知らずと思われている面もあり見知らぬ方には用心しているのです」

 さすがに軍学を卒業してもう何年にもなるから強引な勧誘などはないが、瓉明のことを高く買うあまりに行動をこじらせる者もごくたまにいる。

 広清は軽い笑いを立てた。「最年少で首席卒業の名は見せかけではないというわけですね。思い極まって逆恨みとはいただけない。しかし、ご心配には及びませんよ。いまだ瓉明どのの記録は破られていませんが、近年自国民の軍兵も良い兵が揃ってきました。きっと気に入ると思います」

 そして、と笑んだまま丘の向こうを指差す。

「ただいま演習中です。ひとまず我らの兵営にお越しください」



 一つ坂を越え、再び緩やかに傾斜する丘陵の中ほどに簡易で設営された天幕群があり、二人はその中のひとつに案内された。あたりは静かで、兵たちは皆出払っているようだった。


「瓉明どのも渡ってきたばかりでお加減がよろしくないでしょう。兵たちが戻ってくるまで時間がありますので、休んでいてください」

かたじけない」

 そうして広清は出て行き、信宜も隣の天幕にいると言い置いて退さがり、やっとひとりになれた。


 甲冑も外さずにどっと牀台ねだいに倒れ込む。しばしぼんやりと宙を見据え、うつらうつらと瞼を閉じる。あまり深く眠りたくはないが、と思いながらも疲弊した体は瞬く間に夢の中に引きずり込まれていった。




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